光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

光明園 6、7、8月の報告

一行三昧会

6月1日(日)9名参加。
7月6日(日)8名参加。
8月3日(日)7名参加。
午前9時から正午:お念仏、晨朝の礼拝、聖歌。午後1時から3時:聖歌、昏暮の礼拝。8月3日は光明会とご縁の深い、柿市良明様の7回忌のご回向をお嬢様とお孫様とともにさせていただきました。

念仏と講話の会

6月15日(日)9名参加。
7月27日(日)8名参加。
8月17日(日)10名参加。
午前9時~正午:お念仏、晨朝の礼拝、聖歌。午後1時から3時:聖歌、花輪氏のご講話。

6月~8月の講話のまとめ 花輪智之

三位一体の神の啓示と加持身説法
 河波上人が東西比較宗教思想上、重要視した後期シェリングの積極哲学では、神を一なる不変性である神的本質(神性)と神の働きの面である動的人格態(三位一体の神)の二面の統一態で捉えており、不変的な神性が万物万象の始原にして神的生命の根柢であり、動的人格態(三位一体の神)を展開し、人を神と実体的に一致せしめる。その神的生命の展開に仏教学者の玉城康四郎氏は、如来蔵思想に連なるブッダの原体験(ダンマ・如来が、主体者・世界に顕わになり、かつ果てしなく浸透してやまないという仏教の原型)との類似性を見出した。玉城氏は、その仏教の原型の日本仏教における発展を道元の自受用三昧、親鸞の自然法爾等の中に認め、それらの包摂的源底が空海の真言密教の法身説法(根本仏の自内証、すなわち六大(法界体性)の法爾(不変)と隨縁(現象)が円融である生仏不二なる世界の展開)と捉えている。真言密教は顕教を遮情門(迷情をはらい、無自性・空となる境界を理想とする消極的仏教)と位置づけ、自らを表徳門(根本仏である大日如来(体大法身、自性身)の徳行を体得・表顕する積極的仏教)と位置づけており、その法身説法の捉え方は、古義真言の本地身説法(自性身である本地身が派生的に加持身を流出し一方通行的に説法する)と新義真言の加持身説法(自性身の中にある加持身の働きの根源である自受用身が人格的交わりにより説法する加持身を顕現する)に分かれている。
 シェリング積極哲学の三位一体の神の啓示論(それはキリスト教のみの特殊性ではなく諸宗教にも見出せる普遍性)は、比較宗教思想上、新義真言の加持身説法に対応し、父―自性身、子―自性受用身(自受用身にして加持身の能現)、聖霊―加持身(他受用身等)の類似性があるとされている。その類似性では”父”なる神(自性身)と一体である人を神の子(一切如来)たらしめる”子”としての神的ロゴス(自受用身)が父から子を通して発現する聖霊(加持身)により伝達され、聖霊自体が人格的交わりにより神(仏)の働きと一致せしめる神(仏)の現臨と神律の顕現(三蜜加持)の場になると論じられている。
加持身と大ミオヤの最深の内容
 弁栄聖者は、古義真言の本地身説法よりも「自性身の中に加持身が有る」とする新義真言の加持身説法が真実に近いとされた。円満具徳の表徳門である光明主義では、自性身(体大法身、大ミオヤの本体の面)の絶対中心(中心である本質の一面として本体を含む)が大宇宙全一かつ最尊無上の根本仏、超在一神的汎神である三身即一本有無作の報身であり、その自性清浄なる最深の内容(神性である報身如来蔵性)が十二光の統一態にして本より完備する無尽の相好光明大霊力により一切衆生をして弥陀即一切諸仏の諸仏(仏の子)へと摂取せしめる絶対的根源的現象態、常住不変の妙色相好身(自受用身)である。(大ミオヤの超在一神の面すなわち常住不変の自境界の内容と、汎神の面すなわち全分度生の絶対的根源的現象態は、超在一神的汎神(大ミオヤ)の独尊統摂帰趣である一大人格の中枢、絶対中心によって最深の内容の円融無碍な二面として統一調和されている)
 弁栄聖者は、加持身説法の三蜜加持による生仏不二の形式的合一を包み込んで、自性清浄かつ常住不変の妙色相好身である最深の内容により自中に自然界および心霊界一切の絶対的根源的差別現象を展開する(自然界を手段とし、心霊界を終局目的として、衆生の信愛の念に感応して心想中に発現する霊応身の霊育により、一切衆生の各々を全分度生の活動態である自受用身に合一せしめ、完全円満なる万徳(常住不変である最深の内容)を各々の心意の内容として重重無尽に展開する)、超在一神的汎神という究極的実在との親密なる関係による内容的合一の真相を示唆されたのであろう。
超在一神的汎神の現臨
 河波上人が晩年に「重要な展開の一面は、キリスト教を越えてより一層キリスト教的でさえある」と見なされた光明主義との比較宗教思想上、最重要視したクザーヌス、シェリング、ティリッヒ等に通底する「神の現臨」(神性の完全な現れにして、在さざる処なき超越即内在の神)の精神は、神性の被造界に向けた直接的代表である父なる神が神との人格的交わりの場である聖霊として展開する神的ロゴス(子なる神、人を神的本質の分有や神的働きの面で一致する神の子たらしめる神の感応的愛)が核心である。
 シェリングの三位一体論を、その動態的面と一なる不変性(神性)とを円融無碍かつその両面を包摂する大宇宙全一的な究極的実在の視座で、光明主義に当てはめるならば、父―本有無作の報身(超在一神的汎神)である大ミオヤ、子―自受用身(大ミオヤの形式を含む最深の内容、それを衆生に感応する面から見れば真応身)、聖霊―霊応身(大ミオヤの完全なるご分身である他受用身)になろう。
 シェリング等が捉えたキリスト教の「神の現臨」を包み込んで、一人ひとりの信愛の念に感応し、親子相憶う親密なる因縁である霊育により、万徳円満に人を神の子(仏の子)たらしめる「超在一神的汎神の現臨」の精神は、本より一切一人ひとりの真正面に在します大ミオヤ(平等一切に遍在かつ一切を統一し、一切はここから出てここに帰入する絶対中心)の常住不変なる妙色相好身(見不見に係わらず無縁大悲のまなざしをもって見そなわし給う万徳円満なる聖容)、すなわち在さざる処なき如来の真応身(みからだ)を根拠とする「如来光明礼拝儀」の全体、就中、「至心に勧請す」に貫かれている。
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