日時:11月16日(日)午前9時~午後5時
会場:光明園
参加者:15名
今年も光明園の庭で収穫された柿とゆずがお供えされ、第十七回光明園別時念仏会が開催されました。
開会式では、伊藤力代表役員よりご挨拶をいただき、小西上人の維那による晨朝の礼拝、岩下さんの伴奏による聖歌「弁栄聖者哀悼曲」、花輪智之講師のご講話。昼食は、「心田田植歌」をお称えしながら行道し食堂へ。午後は遠藤さんの伴奏による聖歌「念仏七覚支」を合唱、お念仏、その後、天野校長先生のご講話を拝聴しました。閉会式では、伊藤代表役員のご挨拶、聖歌「のりの糸」を合唱しました。その後、茶話会では自己紹介をして、親睦を深め、天野校長先生への質問が集中しましたが、学園様とのご縁を深くした会となりました。お帰りにはお念仏の声に包まれた柿とゆずがお土産として配られ解散となりました。(記:佐藤蓮洋)
講話 花輪智之氏
講題 「愛念とマインドフルネス~舎那円満の月の顔 見まく欲しさに恋すなれ~」
記:花輪智之(本人)
「弁栄聖者が”念”という言葉をお使いになるときは、”念”とはいつも”愛念”と受け取って下さい。今までは”念”とは、思い続けること、念々不捨、KEEP IN MIND。弁栄聖者は“愛念”。これは実感である。」(田中木叉上人)
- 一、マインドフルネスと大乗仏教
- マインドフルネス(Mindfulness)とは、初期仏教の「念」を意味するパーリ語(サティ:Sati)が翻訳されたものであり、初期仏教からヒントを得て、「注意に基づくストレス低減プログラム」である瞑想法として開発された。日本でも経済界、医療界、教育界に「メンタルヘルス向上と仕事の能率アップ」等を目的として滲透していった。マインドフルネスは一般的に「気づき」と解釈されており、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価せずに、とらわれない状態で、ただ観ること」と定義されている。その瞑想法は、シャマタ瞑想(ひたすら呼吸の出入りに集中する瞑想)、ヴィバッサナー瞑想(体の微細な感覚を観る瞑想)、慈悲の瞑想(自分、他人、嫌いな人、生きとし生きるものに慈悲の気持ちが沸き上がってくるのを感じること)で構成されている。
曹洞禅とマインドフルネスの元となった初期仏教の瞑想を双修した山下良道師は、宗教性を排除したトレーニングとして、自我に執われたまま迷走し行き詰まりとなる有心とも言えるマインドフルネスを打破すべく、自我の執われを手放す無心のマインドフルネスを標榜し、「雲(自我に執われた状態)が青空を見るのではなく、青空そのものとなって青空(根源的意識、仏性)を見る」仏教3.0を提唱した。仏教3.0は仏教1.0(行は形骸化したものの深遠な到達点を示す大乗仏教)と仏教2.0(マインドフルネスを行として基礎づけ、近年再評価される初期仏教)のハイブリッドであり、初期仏教で補完されたマインドフルネスの行を手法として大乗仏教が示す青空に到る事を目指す。具体的には、シャマタ瞑想の呼吸で意識を集中する中、ヴィバッサナー瞑想の観察で自我の執われを手放し、慈悲の瞑想で青空の慈悲そのものの働きにより、青空の真実に目覚めさせられていくものとする。それは仏性(如来蔵)そのものの力で自我の執われから離れ小乗の阿羅漢(声聞・縁覚、自利に沈空する二乗の地獄)を突破し、大乗菩薩道(自利利他円満、世界への愛)に入っていく如来大悲(他力)の行の色彩を帯びている。またマインドフルネスの念を、今ここで如来大悲と共に活きつづけることとして掘り下げているとも考えられる。 - 二、浄土教におけるシャマタ・ビバシャナ
- 浄土教では、シャマタ瞑想、ヴィバッサナー瞑想、慈悲の瞑想を包摂する行として、『浄土論』や『浄土論註』で「五念門」(往相=礼拝,讃嘆,作願,観察、還相=廻向)が説かれている。浄土論、浄土論註とも五念門の主体は念仏の衆生であり、その往相の行の中心が浄土論では作願(一心に往生を願い、奢摩他・シャマタ(散乱心を離れ、思いを止めて心が寂静になる)の行を修する)・観察(阿弥陀仏とその浄土の荘厳相を観察する毘婆舎那・ビバシャナ(寂静の心で、真実相をありのままに観察する)の行を修する)であるところ、浄土論註では『十住毘婆沙論』の易行道(憶念・礼拝・称名)に見立てた礼拝・讃嘆を行の中心として、そこに作願・観察をおさめ、礼拝・讃嘆を通して仰ぐ如来本願力により作願の真空の功徳(自利、無分別智)と観察の妙有の功徳(利他、後得智)が自ずから中道となる実相(自利利他円満)に到る道として浄土論を解釈する。さらに、真宗は五念門の主体を法蔵菩薩として五念門の還相(廻向)から酬因感果(法蔵菩薩が修行の酬いによって得た仏果)の阿弥陀仏が展開する五功徳門の大行(本願力)をおさめた名号を如来廻向の信心(大信)として衆生が受用し(聞名に誘われて本願を憶念・受容すると、自然法爾に己が働きとなり)柔軟心(自利利他円満)となる絶対他力の思想として浄土論註を解釈し直す。
- 三、舎那円満の月の顔と愛念
- 一方、『浄土論註』を御遺稿で頻繁に引用された弁栄聖者は、『十住毘婆沙論』の易行道、殊に般舟三昧(諸仏現前三昧)を背景とする憶念を、称名と礼拝・讃嘆(恭敬)をおさめた愛念(大ミオヤと常に離れない愛慕恋念)として行の中心真髄となした。それにより、今ここで心の中心を大宇宙全体の絶対中心(平等一切に遍在かつ一切を統一し、一切はここより出で一切はここに帰入する中心である大ミオヤ)に直結して、本より一切各各の真正面に在します常住不変なる万徳円満の大悲の聖容に聖名を通して恭敬と愛慕の心を注ぐ、作願(シャマタ)・観察(ビバシャナ)の真相である念弥陀三昧(即今当念弥陀合一の念仏)の道を開かれたのであろう。
そのシャマタ・ビバシャナの真相が、ビルシャナ(光明遍照の根本仏)である大ミオヤ(三身即一・本有無作の報身にして超在一神的汎神なる無上尊)の自性清浄なる自境界の内容(常住不変かつ完全円満なる万徳、十二光の統一態である如来蔵性にして本より完備する相好光明の大霊力)に形式面から内容面へだんだんと深く融合し安住するシャマタ(寂静三昧、真空)と、大ミオヤが自境界の内容を絶対的根源として自中に発現する十界一切にして一切を包摂し一切に遍満する絶対的現象態(妙色相好身)の終局目的である摂取の面の万徳円満なる活きた大悲の聖容(妙色相好身が衆生の信愛の念に応じて無限変化する御姿として心想中に発現する霊応身)をだんだんと深く見奉り、その霊応の霊育により全分度生の活動態である妙色相好身(常恒不断に無限変化しながら、常に同一である常住不変の真身)に合一していくビバシャナ(見仏、妙有)とが、大ミオヤ(絶対中心)の独尊統摂帰趣である一大人格の核心により円満に統一調和され終局において最深の中道(大ミオヤの万徳を己が意として十界を己が身とする同体大悲を活きる完全円満なる自利利他円満)に到る道、すなわち舎那円満の月の顔(ビルシャナ万徳の日光を円満に映す月にして、親密なる因縁により一切衆生を月そのものとなさしめる月影(霊応)を以って照り込み給う大悲ビバシャナの月(妙色相好身である常住不変なる万徳円満の大悲の聖容))の愛念(シャマタ・ビバシャナ、「月を見て月に心のすむときは月こそ己が姿なるらめ」)であろう。
難思光(信心喚起)での五根五力(特に五根で信心の素養が得られた後の五力)を基にシャマタ(定)・ビバシャナ(慧)をなぞるなら、信・精進(欲)をおさめた念(愛)で一体となった三心が大ミオヤの御光に照らされて定(三昧心)が養われ、親子相憶う親密なる因縁の下、三昧心に相好光明が融合して下さる霊育が始まる慧(心の曄曈)となる。そして霊育の終局(超日月光で牟尼満月(釈尊の境界)を満位とする舎那円満の月になっていく定・慧の円融)に直結して五根五力から終始一貫する愛念の心を、弁栄聖者は聖歌『入山学道』での釈尊の初発菩提の心に込めて、「舎那円満の月の顔 見まく欲しさに恋すなれ」と詠われたのであろう。
また、『十住毘婆沙論』において易行道により仏願力に乗じて終局に直結する初地(歓喜地)となる不退の初発心になぞらえ、弁栄聖者は最晩年の十二光仏絵図にて歓喜光仏を還相の法蔵菩薩の姿として描かれたのであろう。一人ひとりの心に内面化する法蔵菩薩(大ミオヤの大愛)は、愛念の心を燃え立たせる力添えとなり、十二光全体をあげた霊育(光化の心相)の中心真髄(歓喜光による情のお育て)として、難思光の帰命(感情)⇒無称光の融合(心情)⇒超日月光の安住(情操)を展開する。そして、超日月光の終局において、私たち一人ひとりを大ミオヤの全分度生の活動への参与に即して万徳の内容に融合・安住する(弥陀即一切諸仏の諸仏(仏の子)となる無上菩提を活きる)身に霊化して下さる。
講話 天野雅秀氏 (光明学園相模原高等学校 校長)
講題 「学園の教育」
(記:田代泰彦)
私は、光明学園の弁栄聖者から二十人目になる校長になります。聖者が大正八年に本校を設立され、田中木叉上人が七代目の学校長になります。専門は物理です。以前、山上上人様の仏教の世界観が大宇宙にひろがる法則と似通っているというお話を初めて伺って、これはすごいなと感じました。
- 建学の精神
- 光明学園の建学の精神とは、「知恵と慈悲をもって明るく幸せな社会の実現に努める人間を育成する」です。知恵と慈悲を生徒たちにどのように教えていかなければならないか、生徒にはなかなか伝わらないですが、自利と利他に置き換えて私は伝えています。
- コロナ禍の状況で
- 令和2年の4月から校長ですが4月に緊急事態宣言ということで、学校も休校となりすべてが止まりました。2か月間学校には教員もいない。いるのは私だけ。そんな状況の中で、学校は生徒がいて、教員がいて初めて学校だな。と思いました。学校はみんなのものだったんだと何度も再認識しました。
- 超少子化の到来
- 平成二十二年百二十一万人いた十五歳以上人口が、令和二十年には七十八万人ともう半分くらいになってしまうというような状況です。
前から誰一人取りこぼさない教育が必要だと。このことがもっともっと大切になっていくと思います。ものを覚える偏差値教育は必要ないんです。全部AIがやるんですから、AIにかなうわけがないんですから。じゃあAIにないものを我々は見つけ出して、生徒に教えていかなければならない。そこが非認知能力ということです。お念仏という位置づけで、これも本校は前からやっているんで、一歩も二歩も先に出ていると思います。
弁栄聖者はこれからの社会を見通していたかのようにお話をされていますので、これは非常に驚きとすごさを感じています。 - 最近の取り組み
- 生徒たちに知恵と慈悲という大切な言葉、知恵を磨き慈悲をはぐくむと話しております。
生徒たちが電車で座っていた時に、体が不自由な方に勇気を出して席を譲ってあげた。すると相手はありがとうと言ってくれた。うれしくなりますよね。不自由な方も座れてうれしいだろう。という話をすると、なんとなく自利と利他がそうゆうことかなとわかってくれます。子供たちにはなるべく日常生活の中で分かりやすく相手を思いやる気持ちをもって真実を見通せる人間になっていくんだよ、ということでお話をしています。
何か一つ頑張っていくことを見つけ継続していく。そういったことを是非なんでもいいから自分のためになることを見つけてください、と言ってあります。 - 冷暖自知
- 山崎弁栄上人の教えをただ学問として学んだだけでは、どこまでしてもそれはうわさにすぎない。実地にその真実の姿を見届けなければ甲斐はないのですから、「実際にお念仏しなさいよ」という事です。けれども、今の若者はググって(ネットで検索をして)それでわかった気になってしまう。それではダメなんだよということです。
- 「幸福感の醸成」
- 子供たちが自分は将来こうなりたいんだというそうです。これは自分で発見しないと長続きしない。自分で醸成する幸福感でないと長続きしない。そのために、私は以下を提案しています。「やってみよう」「前向きに何とかなるさ」「あなたらしく」「ありがとう」が大切。「ありがとう」は循環する言葉だと思っています。自分に返ってきます。
- 最後に
- 「仏教はなんである(存在する)のか」自然現象を理解する科学の追求と同じだと感じたわけです。我々はどこから来たのか、我々は何者なのか。我々はどこに行くのか。その追及が自然科学、そして仏教なのかなと感じた次第です。山崎弁栄聖者のお考えはこれからの社会を生き抜いていく推進力を感じます。独り勝ちの時代は終わりです。協力していかなければならない。聖者の作られた学校を任されている以上、自分自身ももっともっと勉強して、学校の中での活動をもっと発展させていけたらと思っております。
- 感想
- あふれんばかりの、生徒たちへの温かい目と愛情を感じることができた。それも弁栄聖者のみ教えを真摯に実現しようとされている。弁栄聖者が建学した光明学園が100年の時を経てしっかりと根付き、成長していることを実感した。今、世界ではこの二十一世紀になっても戦争、殺戮、児童虐待が横行し、過去の残酷な記憶が繰り返されている。
これからの時代を作るのはまさに、子供たちである。そのためにも、天野校長先生が目指されている弁栄聖者のみ教えを生徒たちに伝える姿は尊く、とてもうれしく、応援団として支えていけたらと思いました。







