日時:令和6年7月20日(土)、21(日)
場所:光明学園相模原高等学校
導師:山上光俊上人(島根県向西寺住職)
人数:34名(関東支部 大人15名・子供5名、光明学園 生徒5名、卒業生1名、先生6名とお子さん2名)
猛暑が続く中、光明学園6階にある修養室(会場)は快適な涼しさで、午後1時から開会式がスタートしました。
司会の伊藤旭栄教頭先生の進行により、伊藤支部長、天野校長先生、山上上人よりご挨拶をいただき、遠藤さんの伴奏により聖歌「歓喜の朝」を合唱。その後、山上上人のご法話(後述)をいただきました。休憩前に、聖歌「念仏三昧」を合唱し、その後、森井尼の指導により念珠づくり、終わった方から部屋を移動して、教室で写仏(塗り絵)を行いましたが、大人の皆さんは子供心に戻り、とても熱心に取り組みました。夕食後は、クライマックスの献灯式。暗闇の中、聖歌「聖きみくに」を役員全員で合唱し、まず天野校長先生が阿弥陀様にロウソクの灯明をお供えしました。続いて子供を先頭に一人ひとりお供えし、揺らめくローソクの炎が闇を照らす希望の光のように輝きました。最後に山上上人からお話をいただき、厳粛な雰囲気の中で一日が終了しました。
二日目の早朝に、無量光寺様に参拝。山上上人のお導師のもとお念仏・ご焼香をさせていただき、その後、弁栄聖者、一遍上人、笹本戒浄上人のお墓にお参りしました。朝食後、晨朝の礼拝、聖歌「念仏七覚支」を合唱し、休憩後に山上上人のご法話(後述)を拝聴しました。休憩を挟んで、参加者全員が円陣を組んで、おやつタイム。遠藤さんの司会で、自己紹介や参加しての感想等を発表しました。その後、メンチ入りのカレーを昼食でいただきました。
閉会式は、伊藤旭栄教頭先生、伊藤支部長のご挨拶、そして山上上人のお言葉をいただき、聖歌「のりのいと」を合唱し、無事終了しました。
年齢としては4か月の赤ちゃんから93歳のK.Hさんまで。また5組の親子と1組の親・子・孫の参加をいただきました。光明学園の先生および生徒の皆様にもご協力をいただき、感謝いたします。来年もまた元気でお会いしたいと思います。(記:佐藤蓮洋)
【山上上人講話のまとめ】
(記:花輪智之)
- 子供向けの講話
-
愛の優しさの中で生きていく
2010年に宮崎県で発生した口蹄疫による殺処分において30万頭近くの家畜の尊い命が失われる中、子供たちのやるせない悲しみの思いが、お供えの折り鶴で家畜のお墓を埋めた。
そんな悲しい出来事に触発されて山上上人は「モーちゃんとピーちゃんの涙」の物語を書き上げた。その物語には、殺処分が進む中、モーちゃん(牛)とピーちゃん(豚)の目線を中心に、死への恐れや殺処分に携わる人々の苦悩の光景から、段々と自分たちを育んでくれた自然や人々の愛の優しさの中に包まれていた事への目覚め、そして、死んだ後もモーちゃんとピーちゃんが大きな愛の優しさの中で生きている様子が描かれている。一つひとつの尊い命は、生死を超え、大きな愛の優しさの中で永遠の命を生きていく。あたり前のありがたさ
人は独りでは生きていけない。当たり前だと思っている一つひとつの事は、自分を世話してくれる親や周りの人に支えられて成り立っている。一つひとつの出来事に「ありがとう」と感謝の気持ちを起こせば、段々と、一つひとつの出来事に「ありがたさ」を感じ、その「ありがたさ」の中で一つひとつの事を成し遂げていく元気が出て来る。
今、アメリカではTGT(Three Good Things)心理学が流行っており、一日の終わりに身の回りにある三つの良い事を思い出していけば、明日もまた元気に生きていけるようになる事が奨められている。
日常のあたり前の中にある「ありがたさ」を見出していく事で、人生を元気に、そして人生を肯定的に生きていけるようになる。 - 大人向けの講話
- もう一つの「いのち」と大ミオヤ
昨年までのお別時では、自然界を中心に、その本体である法身の阿弥陀様を主題としてきたが、弁栄聖者は、自然界以外にも、心霊界(精神界)の永遠の「いのち」の重要性をお説きになっている。弁栄聖者は阿弥陀様が大宇宙の一大人格態であること、大宇宙には一大理性と一大意志、智慧と慈悲や光明を具えた愛のかたまりである如来様(阿弥陀様)がいらっしゃる事を明らかにされた。
弁栄聖者は直弟子の熊野宗純上人との対話の中で、阿弥陀様が本当の親様と思えているか、その実感をおためしになられたり、法身(法則をあらしめ、生命を生かしめている”生みの親”)、報身(衆生の信心に答えて、救い、永遠の「いのち」として自らの内容に同化せしめる”育ての親”)、応身(釈尊等の迹仏をおつかわしになり如来様の真実に導いて下さる”教えの親”)の三つの面で本当の親様である事をお説きになられた。就中、宗教史上はじめて、心霊界の太陽である報身による永遠の「いのち」へのお育てを強調なされた。
そして、礼拝儀の冒頭や光明主義趣意書で何度も書かれているように、如来様(阿弥陀様)を「大ミオヤ」と呼び、大ミオヤが真実かつ永遠の親様であり、本より一切を愛されている事をお説きになられた。「愛念」ということ
弁栄聖者は『御慈悲のたより』において、やさしい言葉で懇切丁寧に、愛念(本より大ミオヤが無上の愛を注いで下さるのが真実であるから、素直にその事を信じて、あらゆる事を超えて大ミオヤを愛する)をお説きになり、大ミオヤを愛念する事が信心の第一歩であること、親と子のように情を交わしあい、最も親密(永遠の親子関係)になることを強調された。
弁栄聖者は法然上人が残された「ただ一向に念仏すべし」の起行の形式から、その内容である起行の用心に踏み込み、「念仏は情にありて理にあらず」と語られ、大ミオヤの無上の愛を先手として、それに応える愛の念仏、すなわち「愛念」に光明主義の教えを結実なされた。
弁栄聖者の直弟子もそれに呼応し、笹本戒浄上人は「憶念することはお慕い申すこと」、田中木叉上人は「弁栄聖者が”念”という言葉をお使いになる時は、いつも”愛念”と受け取って下さい」と語られた。
また、弁栄聖者は『御慈悲のたより』において、「大慈のナムと念ずる心より、アミダ仏と、云ふ声は、いかに大慈の聖胸に響きますと存じて頼もしくて候。オオ大慈の父よ、みおやと、一にたよりて、呼びまつる時、大慈の眼前に彷彿として、ありがたくも、またなつかしくおもはれ候」として、徳本行者の道詠である「あみだあみだと声する人の むねに佛のたへまない」の佛おもいに燃えつつある心を讃えられた。
そして、田中木叉上人は、お絵像の御姿の奥に大ミオヤのおもいやり(同体大悲の愛)がある事を念頭に、「”南無”と如来様のみ姿を心に打ち込んで、”阿弥陀仏”と如来様のお光明を、お慈悲を、吾が心に頂く。南無と打ち込んで阿弥陀仏と頂く、それを一声々々の度毎に南無と捧げて阿弥陀仏と頂く。一声毎に、心を取り直し、心を向け直しては、南無と捧げて阿弥陀仏と頂く。かく心が私と如来様を巡環してそれを放任せずに、一声々々に心を如来様に通わして巡環させる間に、久遠劫来片時も忘れさせ給う暇とてなく、唯迷える我等の心の闇の心に光を差し込み救い下さる一念に燃え給う大ミオヤは、やるせなきお慈悲のみ姿を以て初心の内は、眼にこそ見えね、心にこそ感ぜね、必ず吾が心の中に照り込み給う。この大智慧、大慈悲の光明、わが心に照り込み給う」と念仏をご指南された。
今回のお別時で強調したかったのは「愛念」ということ。他宗教が目指している愛が、光明主義の「愛念」の念仏によって、気づかせて頂ける。光明主義の教えにより、宗教・宗派をこえて親しくなれる。大宇宙の一大人格態である大ミオヤは、真実の御親として無上なる愛に包み、死なない永遠の「いのち」(無量光寿)を与えて下さる。お母ちゃんテバお母ちゃん
用事は無いけど呼びたいな
お母ちゃんテバお母ちゃん
返事はないけど呼びたいな
お母ちゃんテバお母ちゃん
呼びさえすれば楽しいな
お母ちゃんテバお母ちゃん
呼びさえすれば気強いな。(木叉上人)
第22回 相模原親子別時念仏会1日目
第22回 相模原親子別時念仏会2日目