〈一行三昧会〉
6月2日(日)に12名参加。7月7日(日)に10名参加。お念仏、晨朝の礼拝、聖歌、昏暮の礼拝をお称えしました。
〈念仏と講話の会〉
6月16日(日)に11名参加。7月28日(日)に7名参加。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌。午後は聖歌の後に花輪講師のご講話を拝聴しました。7月は猛暑でしたので、こまめに水分補給、冷房強化を行いました。
(記:佐藤蓮洋)
【講話(6・7月)】 花輪智之
6・7月の講話では、5月の講話に引き続き弁栄聖者の教えに多大なる影響を及ぼした法然上人の御言葉に思いをはせてみる。
誠の心
弁栄聖者は『宗祖の皮髄』において、法然上人のご道詠である「往生は世に易けれど皆人の、誠の心なくてこそせね」を引いて、至誠は大ミオヤと衆生との根本的因縁によって、自然に合致すべき性(衆生心本来の根底である大ミオヤの真実心)であると説いている。
また、本願にかなう衆生の信仰心である三心のうち、至心(至誠心)を形式とし、信楽を「信念」と「愛念」に開き、欲生心を「欲念」として、誠を充実せしむる内容は大ミオヤの聖意に相応する信念(至心に如来を信ず)、愛念(至心に如来を愛す)、欲念(至心に聖きみ国に生まれんと欲す)であると御示しになられている。
法然上人が「三心は深心(信楽)にをさまれり」と申されたように、法然上人の流れをくむ浄土教の諸宗派は、善導大師の『観経疏』深心釈の二種深信(衆生は自ら解脱の因のない罪悪の凡夫なので(信機)、唯絶対的救主の救いを仰ぐ(信法))を重視し、「機」(衆生)と「法」(如来)が一体となる三心により教相を展開している。
特に、西山派では他力本願の真実(機法一体)が六字名号の核心であることを領解・憶念する三心(①法に相応する機)、真宗では原初からの至心(如来真実心である名号)と将来からの欲生心(如来招喚の御声である諸仏による名号の響き)が今此処の信楽(如来廻向の信心)として内なる欲生心(往還二相)を展開する三心(②機を貫く法の働き)、時宗では一切の命根である如来真実心の自内証(六字名号による機法一体)に透徹する三心(③一切の根源であり、一切を機法一体に帰入せしめる如来自内証の真実態)を説く。
一方、弁栄聖者は機法一体となる形式的合一を含む聖意内容の同化による内容的合一を終局目的(本願)とする大ミオヤ(大宇宙全一の一大人格)の真実心(子である一切衆生をして弥陀即一切諸仏へと摂取する親心)が次の三つの面で衆生本具の真実心であることを説く。
一、大ミオヤの真実心は常住不変の聖意内容(完全円満な万徳)でありながら、終局目的に向けた十界一切の現象態(常恒不断の大活動態)である真実在であること(前記の③の面)
二、真実在(大ミオヤの真実心)が摂取の面では、相好光明の大霊力として平等(あまねく)一切の衆生と親密なる関係をもって、一人ひとりの心の奥底から信仰心意(宗教的衝動)として湧出し、聖意の内容や全分度生の活動に同化せしめる無縁大悲の恩寵となること(前記の②の面)
三、無縁大悲(大ミオヤの真実心)による摂取のお育てを被り、形式と内容ともに神人合一の状態となるためには、御名を通して聖容(万徳の現れ)を憶念し、恩寵の三縁(近縁、親縁、増上縁)に衆生の至心の内容である三心(信念、愛念、欲念)を相応させること(前記の①の面)。
そして、弁栄聖者は『宗祖の皮髄』において、如来に対して最も尊崇しながら、衆生の心全体が仏となる宗教の中心真髄は大ミオヤを愛慕したまう感情にありとして、法然上人が「我は唯仏にいつかあふひ草、心の妻にかけぬ日ぞなき」と詠われたように、「如来を愛するをもって本とし、厚く信仰すべし」と御勧めになられている。
「たとえ深く信ずとも、深く愛する情なければ衷心よりその美を称するあたわず。真実に如来を愛するとき、わが全体が自ずと如来に同化せらるるなり」(『宗祖の皮髄』)