佐藤蓮洋
- 一行三昧会
- 8月4日(日)に10名参加。お念仏、晨朝の礼拝、聖歌(「感謝の歌」「念仏七覚支」)、昏暮の礼拝をお称えしました。
- 念仏と講話の会
- 8月18日(日)に6名参加。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌(「清浄光」)。午後は聖歌(「姿色清浄讃」)の後に花輪講師の講話を拝聴しました。
講話(8月)
花輪 智之
今回の講話では、弁栄聖者がご遺稿の中で頻繁に引用されている『首楞厳経』の親子相憶い合う因縁を基に、大ミオヤの密意や法然上人との深き因縁に思いをはせてみる。
親子相憶い合う因縁
弁栄聖者は、『宗祖の皮髄』において、「如来と衆生は元来親子なるが、ひとたび親の許を迷い出でたるわれらは、再び親子の対面によりて、愛情厚き親の慈悲をうけ、真の仏子となる因縁」として、『首楞厳経』の中で、勢至菩薩が釈尊に告白する、超日月光の仏に導かれたみずからの得道の因縁の件を引用されている。聖者はそれ以外にも、『首楞厳経』の同じ件を、ご遺稿の中で頻繁に引用され、次のように約されている。
「如来はことに大慈悲ふかくましませば、つねに衆生を愛念し給うこと、しばしもいとまはましまさぬにぞ、あくがるる子の憶念の中に、如来の宛ながら聖き霊なるみすがたは、心眼の前にあらわれ給うこと、いかにありがたきぞや、之を念仏三昧と名づく。但、行住坐臥、つねに如来を憶うこと、子の母をおもう如くにてあれば、現在当来、遠からず仏を拝見したてまつる。」
弁栄聖者は『宗祖の皮髄』において、『首楞厳経』の上記に相当する経文とそれに続く『頌』である「われ本因地に念仏心をもって無生忍に入る。今この界において念仏の人を摂して浄土に帰る」(法然上人自身も自画像にこの頌を銘記していた)を引き、宗祖の本地たる勢至菩薩によって告白された、衆生を真の仏子となさしめる親子相憶い合う因縁の重要性を強調されている。
弁栄聖者は親子相憶い合う関係を、如来即ち親が子に対して母のように慈悲をかけて子を養い、子は未だ見えずとも親の面影をふりさげ仰いで常に離れないすがたとして、「親縁の図」の御絵像を描かれた。また、その関係は、二祖聖光上人が『徹選択集』で「仏を遠離すべからずこと、譬えば嬰児の母を離れざるがごとし」として、「念仏三昧は本願、本、見仏を以て所期と為すが故に、口に名号を称え、必ず仏を見たてまつらんと大誓願を起す」と説かれた念仏三昧の義である不離仏・値遇仏にも通底している。
弁栄聖者は善導大師の『観経疏』三縁釈(親縁、近縁、増上縁)を基に、大ミオヤの如来蔵性(常住不変かつ完全円満なる大ミオヤの万徳である十二光の統一態)を根源とした感覚・知情意の円満なる光化の心相を展開する恩寵の三縁をご教示されている。聖者は、『首楞厳経』で語られる、”方便を仮らずとも自ずから心を開きて仏を見るべし”とする、真実の自己の真性(常住真心にして性浄明体である如来蔵妙真如性)が開かれる因縁、すなわち勢至菩薩(宗祖の本地)が体現する智慧(近縁としての仏知見開示による知のお育ての果)、威神(増上縁としての解脱霊化による感覚と意志のお育ての果)の徳が親子相憶い合う大ミオヤの無縁大悲と衆生の愛念との親密なる因縁(親縁としての内容融合による情のお育て)の中から顕現してくる恩寵によるお育て(摂化・光化)の真髄、そしてその真実が超日月光の仏(如来の終局目的)に導かれる様子に、大ミオヤの蜜意とともに、それを伝える役目を巡る、法然上人と聖者御自身との深い因縁を実感しておられたのであろう。
「心の宮殿に如来を本尊として信念する時は尊とくかたじけなさを感ず。斯く如来と離れざる親密の因縁を宗教の中心真髄と為す。有ゆる霊の力は是より発動す。是が道徳の原動力である。」(弁栄聖者)