一行三昧会
3月2日(日)5名参加。
4月6日(日)9名参加。
5月4日(日)8名参加。
午前9時から正午:お念仏、晨朝の礼拝、聖歌。午後1時から3時:聖歌、昏暮の礼拝。4月3日は元園主 河波定昌上人の祥月命日のため、6日のお念仏会においてご回向をしました。
念仏と講話の会
3月16日(日)10名参加
4月20日(日)8名参加
5月18日(日)11名参加
午前9時~正午:お念仏、晨朝の礼拝、聖歌。午後1時から3時:聖歌、花輪氏のご講話。
3月~5月の講話のまとめ 花輪智之
- 一、ティリッヒの「霊性の宗教」と霊的自由
- 河波上人は晩年の講話や『ひかり』誌掲載論文で、東西霊性の交わりについて言及され、その西洋からの霊性の自覚の具体例として、近代プロテスタント神学の雄であるP.ティリッヒの「霊性の宗教」について触れている。「霊性の宗教」はティリッヒが晩年にたどり着いた諸宗教の普遍的霊性にかかわる試論であり、その基底にある神学は万有在神論(神の中に万物が内在し、万物の中に神が内在する)的神学とも言われ、「神の現臨」と「神律の顕現」にその核心があるとされている。神の「現臨」と神律の「顕現」はクザーヌスの神秘主義の一切を「包含」する神の個別への「縮限」と内なる内容の「展開」に通底する。
また、ティリッヒ神学は河波上人の思想形成に影響を与えた後期シェリングの積極哲学の神学化という側面があるとされている。弁栄聖者は大ミオヤが不識(無意識)的絶対精神であることを表わすためにシェリングの積極哲学を引用しており、その弟子であるハルトマンの宗教哲学を道具立てに、自ら三昧体験された大ミオヤの真実を「神聖」「正義」「恩寵」による解脱霊化等の光明主義の教えとして表現された。ティリッヒ神学とシェリングの積極哲学はともに、神を一なる不変性である神的本質と動的人格態である三位一体の神の二面の統一態で捉えている。それは、光明主義における超在一神の面(常住不変の真実在である大ミオヤの自境界の内容、十二光の統一態にして絶対的如来蔵性)と汎神の面(大ミオヤが全分度生を終局目的として自境界の内容を自中に発現する十界一切の絶対的現象態)が大宇宙全一の一大人格である大ミオヤ(超在一神的汎神)の独尊統摂帰趣である中枢・核心(絶対中心)によって円融無碍な二面として統合されているのに相当するであろう。
一なる不変的な神的本質の展開として聖霊に統合される三位一体の神の働きかけ(神の現臨)により変容した人間(終極的規準をキリストとなったイエスとする)の霊性をシェリングは神的生命の現勢である”聖霊の自由”と捉え、ティリッヒは神的生命に新生した存在における”神律の顕現”と捉えた。弁栄聖者は”聖霊の自由”に相当するものを”心霊の自由”と表現している。十界の一切を懐に抱き育む大ミオヤの超在一神の面と円融である汎神の面が衆生の信愛の念に感応して心想中に発現する霊応身の霊育(相好光明の摂化)により、出世間の三昧が開かれ六道輪廻から離れる自由の境界(慧眼、法眼、七覚支での開示悟の啓示による仏眼)を経て、無明が滅せられ全分度生の担い手となる自由の境界(超日月光の聖意体現位での入の啓示による仏眼)を「心霊の自由を得たる人は諸の聖者と共に如来本質の都に優遊す。全く自由を得たるものとす」(『無辺光』)とされた。また、ティリッヒの”神律の顕現”に相当するものを「如来の神聖が、吾人の心霊を通して、自己の一切の意志を支配す。絶対より自己に湧出るが故に、実は自他を超絶したる道徳律なり」(『無礙光』)とされ、聖歌『念仏七覚支』の最後で聖意体現位(超日月光)に連なる境界を「聖意(みむね)を意(こころ)とするときは八億四千の念念も、みな仏心とふさわしく仏子の徳はそなわるれ」と詠われた。 - 二、シェリングの積極哲学と如来蔵
- シェリングの積極哲学はこちらから真理に向かう(消極哲学)のではなく、今ここにある真理そのものからはじめることにある。その真理そのものを万物万象の始原にして動的人格態(三位一体の神)を展開し、神と実体的に一致せしめる一なる不変的な神的本質として見れば、「神やその現実的生起が成立する基盤(人間性の最も深い内奥において神との現実的な関係に立つところの自由なる意識と関わり、また同時に世界の創造の始原として、そこから万物が生成するところの根源ともなる)が具体的な内容となる」(河波上人)。そこに仏教学者の玉城康四郎氏が如来蔵思想との類似性を見出し、道元の自受用三昧、親鸞の自然法爾や空海の法身説法等の根柢にある釈尊の原体験(ダンマ・如来が顕わになる)に連なるものと論じられたように、大乗仏教の従果向因の菩提心(如来蔵とも同一視され、所求にして能所不二ならしめる根源である菩提心)や表徳門(一切を包含する根本仏の自内証の展開に合一する)に対応するものであろう。
一方、光明主義は釈尊の原体験の真意として、十界の一切を自中に展開する大ミオヤの絶対的如来蔵性(完全円満なる万徳、一大霊性)の終局目的である無上菩提(一切衆生をして弥陀即一切諸仏に摂取せしめる無縁大悲)の恩寵(万徳全体をあげた三縁の働き)との親密なる因縁の下に信仰心意(知情意の三心と感覚)が万徳の内容に充実せしめられる霊的人格の完成(超日月光の聖意体現位において大ミオヤの常恒不断である全分度生の活動に参与する仏子の身となる)を説く。