光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成18年2月

光明園12月例会

植西 武子

12月4日(日)10時~15時、光明園で。導師は河波定昌上人、参加者28名。

弁栄聖者ご祥当の12月4日がちょうど例会となりました。この幸運な巡り合わせに感謝して、遅刻をしないようにいつもより早く家を出ました。10時過ぎに着きましたが、既に10名近くの方がお念仏を始めておられました。

午前はお念仏、礼拝儀、ご法話の後、河波上人自らのオルガン伴奏で聖歌「七覚支」を歌いました。午後は最初に聖者ご祥当のセレモニーがありました。

お上人より聖者についてお話があり、1920年(大正9年)12月4日に聖者がご遷化されて、もうすぐ90回忌になることを改めて認識しました。光明主義を持続、発展させるためにみんなで更なる努力をしなければならないと痛感した次第です。

ご法話

午前の部
お話の中心は起行の用心(念仏の心構え)についてでした。
最も重要なことは「すべてを大ミオヤにお任せ申し上げて」の心構えである。世俗の多くの宗教は人間の欲望の結晶ともいえる。例えば仏前にお団子をお供えして現世利益をお願いすること等。マックスウエバーはそのことを「神への奉献は神へ自己の欲望を強制することだ」
Gottes Dienst ist Gottes Zwang と言っている。
そしてそのようにお任せした上で心を集中して面前に在す如来に想念を集中していくことの大切さが説かれた。
午後の部
心を専註していると「あなたの心はなくなり(A)、残る処はお慈悲の如来様ばかりなり候(B)」(弁栄聖者) となってゆく。すなわち念仏しているうちに、(B)「この心、仏を作る」(観無量寿経) と共に、(A)「念仏する私の心が忘じられて空になってゆく」(空 般若波羅蜜の世界)

念仏三昧の実践にはこの両面が相即してはたらいているのである(自分でいかに空になろうと思っても無理である)、しかし念仏のうちには心は空となってゆくのである。観世音菩薩はまさにその典型である。「般若心経」には多くの訳があるが、その中でも私たちが親しんでいる玄奘三蔵訳は「観自在菩薩」であるが、鳩摩羅什の訳では「観世音菩薩」となっている。しかしながら両者は共にサンスクリットの原語「アヴァロキテーシュヴァラ・ボディサットヴァ」であり音節のどこで切るかによって異なった訳になっているのである。同一の聖なる主体が念仏する主体(観世音菩薩)でありつつ、空を実践する主体たる観自在菩薩もある点では興味深い。そしてその観世音菩薩とは実に私たち一人ひとりの問題であり、実践の課題となる。

茶話会

師走でもあり、非常に寒い日でしたので参加者の出足はやや遅れがちでしたが正午近くにはほぼメンバーがそろいました。今月は女性の参加者が少なくて4、5名でしたが、若い菅野真美子さんが元気よく大木魚を叩かれ、頼もしい限りでした。
急ぎの方が数名帰られましたが、みんなでテーブルを囲んで茶菓を頂きながら歓談しました。とても楽しいひとときです。
今年も無事に毎月の例会に参加でき、ありがたいご法話をお聞きして皆さんに励まされてお念仏に専心する機会に恵まれたことを心から感謝しました。「どうか良いお年をお迎え下さい」の挨拶を交わして散会となりました。冬至直前の日暮れは早く、暮色に包まれたあわただしい雑踏の街をそれぞれが家路へと急ぎました。

東京光明会12月例会

植西 武子

◇日時 12月24日(土)13時~16時30分
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者 16名

冬休みでもあり、クリスマスイブとやらで東海道線の車中は親子連れでかなり混んでいました。あわただしく道行く人の表情に年の瀬の迫っていることを感じさせられました。対照的に一行院の門をくぐると冬枯れの庭はひっそりと息をこらしているようでした。玄関先にカラフルな可愛い乳母車が目にとまりました。本堂に入りますとお念仏も終わり近くになっていました。お念仏の後、聖歌「光化の心相」の「智慧光」を歌い、ご法話を拝聴しました。

ご法話

今月は十二光の「智慧光仏」についてお話下さいました。…知力に対して知見を与ふ
如来智慧の光明に 我等が無明は照らされて
仏に知見を開示して 如来の真理を悟入るれ
※お上人様は最初に「知」と「智」の違いについて説明されました。

「知」
知識、知恵等の語句がある。いずれも五感による理解で無明、煩悩を根底としている。知力は現象を理解したり、物事の差異を見極めたりする力である。しかし無明で盲目的な意志活動であるため、真理を悟ることができない。
「智」
智慧は絶対的存在で大宇宙にもともと存在するものである。神秘の世界を啓示するという形でもってお示しくださる。

※衆生の知力は無明を元とし、煩悩を基盤としたものであるから真理を体現することはできない。その知力に対して仏陀の智慧を与えるものが智慧光である。
※「知力に対して知見を与える」とは知力に対してある方向性を示すこと、換言すれば啓示を与えるということである。その啓示には(1)感覚的啓示、(2)写象的啓示、(3)理想的啓示の三種がある。
※衆生一心に念仏三昧に入って、神(こころ)を凝らして不断なれば、三昧発得して仏知見を開発して念仏三昧の中で如来の聖境を開示される。その形式として、(1)開(感覚的啓示) 三昧の中で如来の光明や妙相、浄土の荘厳等を見たり、天楽の音を聞いたり、芳しい匂いを感じたり、等の色声香味触の感覚に感じる啓示である。(2)示(写象的啓示) 写象的とは抽象的と捉えてもよい。さらに進んで如来の智慧、慈悲等の内包の聖徳を感じることである。観無量寿経に「仏身を観るものは仏心を観る」とある。仏心とは大慈悲のことである。縁のあるなしに係わりなく、慈悲をもって衆生を摂取して下さる。また、説話的(話しかけるように)啓示されることもある。(3)悟(法身理想的啓示) 如来法身の体に悟入することであると言われているが、その内容が非常にむずかしく、お上人様は具体例でお話し下さいました。

ご法話を聴きつつお念仏の功を積まないと真の理解は深まらない歯がゆさを痛感しました。

茶話会

今月はいつもの参加者以外に若いお母さんとよちよち歩きの可愛い女のお子さんが遠路埼玉より参加されておりました。玄関先にあった乳母車の主です。本堂でのお念仏とご法話の最中も大変おとなしく、木魚をぽくぽく叩いたり、独り言を言いながら静かに遊んでおられました。

九州ご出身の方で結婚でこちらに来られているそうです。その方のお母さんが昨年の唐沢山別時に参加されておりました。このように親から子、子から孫へとお念仏のリレーがなされるご家庭は理想的です。幼い内にお念仏の雰囲気に身を置くことの大切さをしみじみ感じる昨今です。事情が許せば続けて参加下さることを祈っています。茶話会には出ずにお帰りになりましたがとても嬉しいことでした。

昨年末の会計と会長交代の報告がありました。今年もあと数日、新年会の日程を確認して4時過ぎに散会しました。

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