東京光明会2月例会
植西 武子
◇日時 2月18日(土)13時~16時30分
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者 14名
例年ならそろそろほころびかけている一行院の庭の紅梅・白梅は今年はまだ蕾を固く閉じたままで、暖かい春の到来を待ちわびているかのようでした。今月は所用と重なる人が多く、参加者が少なくやや淋しく感じましたが、こじんまりとまとまった落ち着いた雰囲気の例会でした。
ご法話は昨年来の十二光仏シリーズの「不断光」についてでしたので、聖歌は「光化の心相」の中の「不断光」を歌いました。
ご法話
お上人様は最初にみんなで歌った「不断光」の歌詞について1番は法蔵菩薩について、2番は釈尊誕生のプロセスについて詠まれている等の解説をされました。それを聞いて歌詞の奥にある深い意味を理解することができました。
※不断光は人の意志を霊化する働きがある。
霊恒不断の光明に
我らが意思は霊化せば
作仏度生の願みもて
聖意現はす身とはなる
常恒不断とは絶え間のない意、意思とは人間の善悪の意向または性格にすべての行為を指導するところの精神作用のことである。人間の意思活動は煩悩(心口意の三業)によって行われる。作仏度生の作仏とは阿弥陀様(仏陀)の姿を想い浮かべることであり、度生とは自分と同様に他の人も救われることを願うことである。(上求菩提 下化衆生)願みもてのここが非常に重要である。念仏をするには願をもたねばならない。「何も思わず念仏するは悪しきことなり」といわれている通りである。
その願とは「四弘誓願」である。即ち、
- 衆生無辺誓願度(多くの人を浄土に渡すこと)二十五菩薩の中で最後を守る地蔵菩薩は全ての人を浄土に渡し終える任を司る菩薩である。
- 煩悩無辺誓願断 これについては自力と他力では解釈が異なる。他力の解釈は「煩悩転じて菩提心となる」である。徳本行者のお詩の通り「煩悩よ のくがいやならそこにおれ そちにかまわず南無阿弥陀仏」である。
- 法門無尽誓願知(学)。
- 無上菩提誓願證。
聖意とは古来「しょうい」と読んでいたが弁栄聖者は「みむね」と表現された。宇宙大の意思を意味する。
※人の行動は常に働く意志力に支配されている。その意志力は自然のままでは煩悩を根底としているため、自己中心的となり、肉欲我欲の充足に振り回される。しかし、意思力に如来の光(不断光)が働いて霊化されると、意思を指導し、良心に照らした言動が行われるようになる。
※お上人様は不断光によって霊化される救いの姿を渋柿が太陽光線によって渋みが甘みに変わると言う例でもってわかりやすくお話し下さいました。
茶話会
2月15日は釈尊入滅の涅槃会であるため、例年のように本堂の右側の壁に大きな涅槃図が掛けられておりました。お念仏の後、茶話会の前に個々に涅槃図を拝観しました。お釈迦様が沙羅双樹の下に臥し、弟子をはじめ菩薩、天竜、動物たちに囲まれた非常に細かく複雑な図柄が全て経文で描かれていることに、何度見ても感嘆せざるを得ませんでした。弁栄聖者の超人的なおはたらき合掌するばかりでした。
茶話会では新しく会長になられた藤沢裕子さんより、本年度の事業についての提案がありました。次回までにそれぞれで検討しておくことになりました。また、4月6日の増上寺の御忌会への参加について連絡がありました。
光明園2月例会
植西 武子
◇日時 2月19日(日)10時~15時
◇場所 光明園
◇内容 念仏と法話の会
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 30名
所用のため午後からの参加となりましたが、午前中に柴田泰山氏(大正大学講師)による講述がありました。テーマは浄土宗の所依経典、とくに「無量寿経」と「歎徳章」についてでした。河波上人から非常に興味深いお話であったと伺いました。参加の方からも「とてもよいお話でしたよ」と聞くにつけ、聞きそびれたことを大変残念に思いました。
午後はお念仏をし、聖歌は「のりのいと」を歌いました。この歌は大抵のお別時で閉会式等で最後に歌うのが定番になっていてあまり歌う機会が少ないのですが、歌詞も曲もとてもすばらしく心に響くものがあります。讃美歌に魅せられてキリスト教の入信する人があるように、初心の方にはふさわしい歌ではないかと思いました。気のせいか皆さんの歌声もいつもよりボリューム・アップされているように感じました。このあちご法話を拝聴しました。
法話
テーマは「宗教と道徳~あるいは念仏と戒について~」でした。
往々にして「悪人正義」-この用語自身が法然上人のお言葉である-が浄土教の立場を示している。しかしながら法然上人ご自身は浄土に救われていく点でおよそ「善悪にはより候まじ」(和語燈録)のご法語にも見られるように念仏することが何よりも第一義的である。
この「悪人主義」は教義の次元の論議にとどまることなく、むしろそれを前提として必然的に道徳心が起こってくるのである。従来の日本浄土教では道徳心の積極的な展開が余り見られなかったようである。
しかしながら「歎徳章」には「この光に遇う者は・・・善心(道徳心)が必然的に起こってくることを説いている。また「無量寿経」には「閉塞諸悪道 通達善趣門」の文にも見られ、また四十八願の冒頭の「無三悪趣の願」にも見られるように、私たちが救われてゆくということは道徳心の積極的展開を意味しているのである。法然上人が三人の天皇の戒師であられたことも注目すべきであろう。弁栄聖者も十二光の中の「無礙光」「不断光」等で念仏による救済がそのまま道徳(戒)の完成に連なっていることを示されている。
現在、善悪の判断も不明なくらいに道徳心は崩壊してしまっているが、例えば「神聖」とは私たちに善悪の基準の光となるものであり、「正義」とはかかる道徳的実践となって働くもの、そしてそれを罪悪深重の凡夫の私たちに可能ならしむるものとして「恩寵」のはたらきあがり。それらによって人間は解放せられ、自由ならしめられてゆくのである。
茶話会
3時から光明園の役員会が予定されていますので、手早く後片づけをして2ヶ所に分かれて歓談しました。奥様の妹様が甘酒を準備下さいました。身も心も温まる思いで頂きました。今月も女性の参加が少なくお茶碗の後片づけを気にしながら役員会に参加しました。
【役員会】
役員会では17年度の会計報告と18年度の予算が主な議題でした。会計担当の岸田氏より決算報告があり、収支がぎりぎりであることを認識しました。光明園の維持は会員の皆さんの年会費によってまかなわれています。建物の補修や維持費等2お考えると計画的な積み立ても視野に入れる必要があると思います。自分のことは節約してできるだけ協力せねばならないと痛感しました。