光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成18年6月

光明園4月例会

植西 武子

◇日時 4月9日(日)10時~15時
◇場所 光明園
◇講師 八木季生上人
◇参加者 17名

光明園の庭に大輪の八重の椿がきれいに咲いていました。その一輪を奥様が花瓶にさして卓上に置かれました。白地に赤の縞模様、ふくよかに、しかも凛として咲くその姿に思わず声を上げました。これも大御業と感嘆するばかり。

最近、一行三昧の会でもお上人様はご法話をして下さいます。今月は初心者の方の参加もあって、弁栄聖者の大谷仙界上人へのお手紙の内容を中心にお話されました。

ご法話

「すべてを大ミオヤにお任せ申し上げて、大ミオヤを念ず」
念仏の心構えはこの一点に極まるともいえる。男女の別、罪業の深浅、行の多少、学問の有無等をすべてお任せするのであるからそこに平等の世界が開かれてゆく。しかしお任せして念仏をあまり申さぬのが浄土真宗であるのに対し、お任せしきった上で念仏に専念してゆくのが法然上人の立場であり、また弁栄聖者の立場でもある。「百千万遍称えても自力の念仏は自力の念仏、たとえ一遍二遍称えても他力の念仏は他力の念仏」と法然上人も仰せられている。(和語燈録)

そしてその上で「大ミオヤは貴方の真正面に在して母の子を憶う如くに在す」ことを念うことが肝心なのである。念仏する時、この真正面に対するの念が大切なのである。従来は西方志向であったが、実を言えばどこを向いてもそこが西方で、改めて弁栄聖者は「真正面」(Frontality)を強調された。そこに「我と汝」のみの世界が開かれてゆく。

その際、「私が仏を念うというより、仏が私を念っておられることを念う」ということが又大切である。そこのところを「母の子を憶う如くに在す」と述べられているのである。勢至菩薩も念仏三昧によって悟りを開かれていったのであるがその消息を「首楞厳経」では「母の子を憶う如くに」と述べられている。

そしてそこで「入我我入」の世界が開かれてゆくのであるが「しかすると貴方の心はなくなり(般若波羅蜜の世界)残る処はただい慈悲の如来様ばかりとなり候(念仏三昧の世界)」と両者が一つである世界が開かれてゆくのである。そこでは禅浄の対立も超えられている。

茶話会

約半数の方が急いで帰られたのでいつもよりこじんまりとした会となりましたが、ゆっくりと歓談され、何人かの方が熱心に議論をしておられました。一緒にお話に参加したかったのですが、23日の仏教勉強会の準備のため、お上人様と担当の田代さん、支部長の渡辺さんと階下で打ち合わせをしました。

田代さんが綿密に計画されたので、細部にわたってお上人様と打ち合わせをすることができました。当日の会が実りあるものとなることを確信して帰宅しました。

第4回仏教勉強会

植西 武子

◇日時 4月23日(日)10時30分~15時30分
◇場所 光明園
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 32名

今月の光明園例会「念仏と法話の会」は関東支部の年間事業の一つである「河波上人を囲む易しい仏教勉強会(第4回)」と重ねて実施されました。そのため、平素に比べて広い層から参加者がありました。また男性参加者が圧倒的に多い(女性7名)のが印象的でした。第4回目ともなると、会の運営方法も定着し、落ち着いた雰囲気で行われました。

ご講話

「宗教における人間の自由について」と題して、人間の自由についての講述がなされました。

洋の東西を問わず、自由の問題は人間にとって最重要のテーマである。自由とは、一般にはほとんど知られていないが実は仏教の専門用語でにある、この語がサンスクリット語にも対応語が見られ、また「正法華」等の大乗経典、中国で成立した多くの禅関係の書物、例えば「六祖壇経」「臨済録」、また法然上人の「漢語灯録」等にも見られる。しかしながら、積極的には自在(イーシュヴァラ)、解放、無礙等の言葉で表現されることが多い。

自由は西洋でも中心的課題である。例えばフランス革命の折の旗印たる「自由・平等・博愛」の理念の第一に挙げられているほどである。しかしながら西洋人にとっての自由とはたとえば英語の(freeform)にも知られるように、何かあるものからの自由に他ならない。その何かあるもの、例えば植民地支配、帝国主義的支配等、それらあらゆる外的なものからの支配を除去しても、それは例えばタマネギの皮を剥いでいくようなもので残るところは零ということになる。ニーチェは「ツアタツストラはこう語った」という本の中でそのことに言及し、近代的な西洋的自由を徹底的に批判している。真の自由は「~の自由」ではなく「それ自体としての自由」、それは「自分自身からも自由」でなければならない。

十二光の中の「無礙光」とは真に人間を解放し、自由たらしめてゆく光明である。そのことは「衆生を解脱し、自由とす」といった讃偈にも見られる。かかる存在の典型は、観自在菩薩であろう。ここで自在の語がみられるが、そこには解放され自由になりきった人間の真実現の展開がみられる。

南無阿弥陀仏の南無とは、まさにかかる自己の自己自身からの営みであり、そこに真の自由の展開がみられる。南無はそのように自由そのものの実践に他ならないのである。

弁栄聖者の両手書き(一時に左右の手で別の歌等を書かれること)も、聖者がご自身からさえも脱却されきったところで初めて可能な行為であった。

観自在菩薩(旧訳では観世音菩薩)も自ら解放されきっているので千手観音へと必然的に展開されてゆく。善導大師は更にそれを際限なく展開されて「恒舒百億光王手」(つねに百億の(光王の)手を舒べて)(六時礼賛)、衆生への救済がなされてゆく旨が讃じられているのである。自己が自己から解放されてゆく時、そこに初めて人間に真の自由が成立するのである。まことに念仏とは人間の根源的な自由へのいとなみなのである。

質疑応答

司会の田代直秀氏が非常に手際よく会を進行されたため、お上人はかなりの質問に丁寧に解答して下さいました。事前に質問を把握し、分類しての質疑応答であったので効率的に会は進みました。具体的な内容については「光明主義のQ&Aに掲載されますのでここでは割愛し、会の雰囲気のみとします。

最初に講話についての質問から始まりましたが、いろんな角度から大変興味深い質問が出ました。その質問に刺激されることも多々ありました。

その後、前もって提出されていた質問項目を田代氏がプリントして全員に配布され、それに基づいて質疑応答が行われました。制限ある時間の中で全てを消化することができませんので、残った質問は関東支部の機関誌「歓喜光」に掲載することになっています。

参加された皆さんは非常に熱心で、お話を傾聴し、メモと取り、積極的に発言しておられました。幅広く、奥深く、哲学的、文化的見識に裏打ちされたお上人様の解答を聴きながら、久しぶりに大学の聴講生になったような気分になりました。怠け者の私ですら、眠っていた知的好奇心が喚起され、充実した気分になりました。

茶話会

午前10時30分から昼食時間45分を除いて午後3時まで緊張した時間の連続で、お上人はいうまでもなく、参加の皆様もそろそろ疲労の限界に近づきました。

やっとブレイクの時間となり、机上に茶菓が配られ、ほっとした雰囲気で個々に隣席の方々と歓談が始まりました。ご講話や質疑応答について互いに確認したり、感想等を個々に述べ合う等、話は弾んでおりました。予定された30分はあっという間に過ぎました。全員で後片づけをして4時前に散会しました。

大変充実した一日で皆さんおそらく満ち足りた気分で帰路に着かれたことと思いました。

会を終えて

回を重ねる毎に内容的に非常に充実した回となりました。今後更に発展させるためには、幅広い層に質問に如何に対処するかの課題が残ります。

また、お上人様にかなりの負担をおかけしました。次回からお念仏の時間も組み入れ、もう少し余裕をもった日程にするということで共通理解を得ました。

東京光明会4月例会

植西 武子

◇日時 4月29日(土)13時から16時30分
◇場所 一行院
◇出席者 20名

ゴールデン・ウィークの初日であるため、お出掛けの方もあるかと思っておりましたが平素来れない方も参加され、いつもより賑やかな集いとなりました。

八木上人様は急用が出来たので河村昌一氏の維那により礼拝儀をあげ、お念仏をしました。期せずして長時間のお念仏の機会が与えられました。如来様からのプレゼントとありがたく一心にお念仏をしました。やがてお上人様はお戻りになり、ご法話はいつもより約1時間遅れで始まりました。

ご法話

先月は難思光仏の途中まででしたので、今回はその続きとなります。最初、行儀分について復習をして下さいました。

※行儀分は「安心と起行」の観点から言えば「起行」にあたる。起行の仕方を行儀分と言う。これには三段階あり、その第一段階である難思光は「信心喚起」の段階である。信心喚起(恩寵喚起)、即ち信心を呼び起こすことであるが、理性による理解は非常にむずかしく「甚深の境界」と言われている。したがって仰信(ひたすらに信じること)するより方法はない。

※まさに礼拝儀に詠まれている通りである。

甚深難思の光明を
至心不断に念ずれば
信心喚起の時いたり
の曄?とはなりぬべし

この「曄?」の「?」の文字は「光る」「輝く」を意味する。したがって「曄?」は日の出に太陽が一瞬に顔を出し光り輝くような状態を言う。(お上人様は黒い雲海の中から一瞬に一筋の光が射して輝き出すあの鉢伏山の朝の御来光の様子で例えられました)。「心の曄?」とはいままで真っ暗であった心に一瞬にして光が射すことである。そうなった時、その信仰を如何に具体化していくか。それには「五根五力の修業」によるより他に方法はない。

※五根五力の修業とは

五根
1、信根(信じること)
2、精神根(前向きに進むこと)
3、念根(念じること)
4、定根(心を鎮めること)
5、慧根(わかること・・霊的理解ができること)

平たく言えば我々が植物を育てる時、耕して肥料をやる。その行為に当たるものである。
我々にこの五根五力の力をつけるには具体的にどんな手立てが必要か。それは五種五行を行うことである。

※五種五行とは

1、礼拝正行
朝には至心に礼拝し、帰命して、昏にはその日の三業を悔いて霊性の養いを祈る。徳本行者は川の石に窪みができるほど連日五体投地の礼拝をされたという。弁栄聖者もしかり。
2、読誦正行
三部経等の聖経を読んで霊眼を開き霊性を養う。
3、観察正行
カンサツは目で見えるものを見る。カンザツは目に見えないものを見る。凝神(心を凝らして)霊眼を養う。
4、称名正行
み名を称えることであるが、名は体を表し「名体不離」である。もっぱら聖きみ名を称えて聖旨が心に現れんことを祈る。
5、讃歎供養
「讃歎」は褒めたたえることを意味し、「供養」は供え養うということでこの二つは分けられない。お供えすることによって如来様から力を頂き、自分の如来様に対する信を養う。気持ちさえあれば誰にでもできることである。

この五つの中で称名正行が一番重要である。食事に例えれば主食にあたる。したがってこれを「正定業」と言い、あとの四つはおかずに当たるもので「助業」と言う。おかず(助業)を与えることによってご飯(正定業)をおいしくする。しかし助業は欠けているものを補うと言う意味ではない。なぜなら正定業はもともと完全なものであるから。しかし、いずれも自分から先に行動を起こしてこそ養われるものである。

お上人様は午前中、外での会に参加され2時過ぎにお帰りになり、大変お疲れのところ続けてご法話下さいました。お話の時間が短縮されるかと思っておりましたが、いつも通り1時間以上かけて詳しく丁寧にお話下さいました。そのため、難思光がより一段と理解でき、とても充実した気分になりました。参加の皆さんも今日からいっそう五種五行に励もうと決意されたことと思います。

茶話会

お話が終わったのがいつもの散会の時間でしたが、みんなで急いで後片付けをして庫裡の部屋で茶菓を頂きました。今回は参加者も多く、久しぶりにお会いする方もあって話が弾みました。先月、お上人様が唱導師の大役を果たされた増上寺の御忌のことが話題になりました。その時の写真をみんなで見ながら歓談しました。当日私は本堂の中にいましたので、写真を見て改めて参詣者の数の多さ、華やかな行列の様子、お上人様の晴れ姿を知ることができました。和やかな雰囲気でゆっくりと歓談して散会しました。

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