光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成18年8月

光明園6月例会

植西 武子

6月18日(日) 10時30分~16時 光明園で「念仏と法話の会」
講師は河波定昌上人 参加者26名

関東南部に梅雨前線が停滞し、終日小雨がしとしとと降る生憎の空模様でした。深緑の中に雨に濡れた紫陽花が一段と映え、梅雨たけなわを演出していました。雨のせいかいつもより参加者は少ないようでしたが、木魚の音とお念仏の声はいつもと変わらず力強く感じられました。女性はわずか数名で男性参加者が圧倒的に多いせいか木魚の打ち方もダイナミックで活気を感じます。午後からの参加となりましたので、少しお念仏をしてご法話となりました。

ご法話

今回は①開かれた宗教と閉ざされた宗教、②禅と浄土の対立を超える念仏三昧の二つを主テーマとして講ぜられました。

①宗教(そして道徳も)に二つの類型が考えられる。開かれた宗教(道徳)と閉ざされた宗教(道徳)であるこの二種類は20世紀最大の思想家ベルグソンによる。(『道徳と宗教の二源泉』)
たとえば、「往生礼讃」(善導大師)に「弥陀智願海 深広無涯底」等と讃じられているように阿弥陀仏は無限に開かれて在ます。それ故にかかる無数の存在への帰依帰入によって私たちの心もまた無限に開かれてゆく。念仏の行はそれ故に開かれた行であり、それを実践する人たちの集団は開かれた集団に他ならない。
それに反して例えば新興宗教等にも見られるように閉ざされた神への信仰は人間の心をも閉ざし、その人ふぁちの集団は閉ざされた集団となってゆく。そこには個々の自由も存在しない。
②日本の宗教界には二つの主流として禅と浄土の両者が考えられる。しかしながら真実には(そして弁栄聖者においては)これらの両者は一様の事柄で、それら両者は念仏三昧の実践の二側面にすぎないのである。
仏教の歴史を辿る時、最初にあったのは念仏三昧のみであったのであり、そこから禅の悟りも成立していったのである。そのことは初期の禅宗史の根本資料たる「楞伽師資記」等にも辿ることができる。初期の禅宗僧たち(例えば四祖道信)は専ら念仏三昧を修するその中から禅体験が開かれていたのである。それ故禅体験も念仏三昧の中から成立する。そして念仏三昧の中の禅体験からやがて禅が独立して禅宗が成立する。しかしながらそれとてもなお念仏三昧の内容の一端にすぎないのである。

河波上人はご法話の中で荻野圓戒上人の戦場での「空」の体験についてもお話下さいました。にこやかな表情で熱心に道を説かれたありし日のお姿を懐かしく思い浮かべられる一こまもありました。ご法話の最後に「お念仏は万徳であり、最大の宝であり、無量の宝である」と結ばれたことばが、私の脳裏にしっかりとインプットされました。「ただ一向に念仏すべし」を改めて実感しました。

茶話会

今月は初めて参加された若い男性の方や何十年ぶりに参加したという方もあって、まさに、千客万来と言った感がしました。お上人様を中心にご法話についての感想や質問など会話は弾みました。みなさんはまだまだ質問があり、席を立ちがたい雰囲気でしたが、4時を過ぎていましたので名残惜しくも散会しました。

東京光明会 6月例会

植西 武子

◇日時 6月29日(土)13時~16時30分
◇場所 一行院
◇参加者 18名

先月は「法のつどい」参加のため、例会に出席出来ませんでしたので、一行院の門前に立つと何だか久しぶりといった感がしました。庭の木々は新緑から深緑へと衣替えをし、力強い生命力に溢れていました。
お念仏の後、礼拝儀をあげ、聖歌「念仏三昧」を歌って、ご法話を拝聴しました。

ご法話

今月は十二光仏最終の超日月光仏についてお話し下さいました。
※難思光仏、無称光仏、超日月光仏の三光仏は宗教行儀門(起行の過程)であって、信仰の進む段階を三つに分けている。難思光仏は心霊開発位、超日月光仏は聖旨体現位である。
※聖旨体現位とは「我が仏か、仏が我か」の境地であり、聖旨体現のため二つの柱は「作仏度生」と「霊我実現」である。
①「作仏度生」の「作仏」とは仏様のお姿を念じて思うこと(認識すること)であり、「度生」とは此の岸にいる者を彼岸に渡すことである。
即ち「上求菩提(作仏)下化衆生(度生)」である。
②「霊我実現」とは私が衆生を救っていくことであり、聖旨体現の大きな働きである。
※衆生を済度し、聖意体現するための衣、食、住
「衣」とは、浄衣(五重の時着る白衣)の背中に「応法妙服 自然在身」と書かれているように、「法にふさわしい妙なる衣が自ずと身についてくる」という意味で、修行を重ねると品格が自然とついてくるということである。
「食」は朝夕礼拝である。食の味わいは「愛楽仏法味」
「住」は無比荘厳の心殿に住することができる。
※心霊に衣、食、住が備わると超日月光仏の状態となる。

智悲の日月の照らす下
光の中に生活す身は
聖意を己が意とし
三業四威儀に行為なり

聖意を己が意としの聖意とは如来の意志であり、神聖、正義、恩寵である
「神聖」は自己行為を照らす光、即ち道徳秩序の光明である。「正義」は八正道(①正見=見解 ②正思 ③正語 ④正業 ⑤正命=生活 ⑥正精進 ⑦正念 ⑧正定=不動のものとなること)のことであり、「恩寵」はおかげのことで日々の行動そのものが仏作仏行となっていく。
三業四威儀の三業とは身口意のことであり、四威儀は行、住、坐、臥を意味するものである。
※お上人様は聖意体現の「衣」のお話をされた時に、その例として徳本上人が上諏訪で伝道されていた時のエピソードをお話下さいました。また、お釈迦様が6年間の苦行の後、疲れ果てた体で五比丘に覚りを伝えられた時、羽織っている衣は粗末でも神々しいその姿にすっかりうたれたというお話もして下さいました。その時の様子が「三相の聖歌」(諸根悦予、姿色清浄、光顔巍々)に詠まれているとのことです。改めてその歌詞に目を通し、聖者の深い思いの一端に触れさせて頂いたように思いました。

今月はほとんどの方が参加され、賑やかに歓談しました。話の中で床の間の掛け軸(弁栄聖者の直筆)が話題となりました。両手でお描きになったというものでした。聖者がそこに居られるように感じました。
来月の例会は一日別時で、特に初心者を対象としたお話だそうで、できるだけ新しい方を誘って参加して欲しいとのことでした。各人が一人を誘えば参加者が倍になる、是非そうありたいもので、誰を誘おうかと考えつつ帰路につきました。

18年度関東支部総会

◇日時 6月4日(日)15時30分~17時
◇場所 光明園
◇参加者 10名(委任状23名)

議題 (1)本部報告 (2)17年度事業報告 (3)17年度会計報告 (4)18年度事業計画 (5)18年度予算 などについて審議がなされ、特に事業計画について時間をかけて話し合った。本年度の主要行事の一つである教学研修会については後日さらに詳しく検討することとなった。

毎回のことながら出席者が限られていることが課題である。関東支部は範囲が広く、北海道から東北地方も含むため、遠方の会員との意志疎通に工夫が求められている。情報提供の唯一の手段である機関誌「歓喜光」の内容に一層の工夫が求められている。

  • おしらせ

  • 更新履歴

  •