光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成19年1月

関東支部教学布教研修会

植西 武子

◇日時 平成18年10月21日(土)・22日(日) 10時~16時
◇場所 光明園
◇講師 河波定昌上人、伊藤旭栄先生、金田昭教上人
◇テーマ 光明主義・その伝統と創造。
◇参加者 21日35名 22日33名。

会場準備のため急いで9時に光明園に着きますと、今回はるばる九州から参加下さった菅野真慧さんと今井順子さんが前日より光明園に泊まって既に準備を始めかけていて下さいました。高橋清美氏も早々に駆けつけて下さり、早く参加された方のご協力もあって、あっという間に会場設営ができました。

定時には殆どの方は席に着き、開会となりました。企画・運営・司会に至るまで全面的に田代直秀氏が尽力下さいました。暖房のきいた会場はみなさんの熱気で一層熱くなっておりました。

参加者

本研修会で一番嬉しかったことは初めて参加の若い方が多かったことです。河波上人が教鞭を取られた東洋大学関係の方やオルガン伴奏をして下さった方、また菅野さんがお友達に声をかけて連れてこられた方々が主でした。河波上人の人脈の広さに感心すると同時に、一人を誘うのさえむずかしい自分に比べ、多くの友人を誘って来られた菅野さんの若い力と言うよりも彼女の人徳に感服するばかりでした。

また、中部支部から祢次文子さんと井出洋子さんが参加下さったことは会を一層幅広く意義あるものにしてくれました。あと大半は平素の勉強会のメンバーの方達でしたが、2日間連続のテーマでお話が拝聴でき、皆さん真剣に傾聴しつつ忙し気に熱心にメモを取っておられました。

河波定昌上人のご法話

2日間にわたるご法話はかなりのボリュームとなりますので、お上人様が「ひかり」誌上に別項目で詳しくまとめてお書き下さることになりました。

河波上人は弁栄聖者の光明主義を仏教の枠に止まらず、キリスト教も含むグローバルな視野から、さらに時間的な縦軸においても釈尊から、法然上人、弁栄聖者に至り、なお21世紀をも展望した宇宙的視野から遠大で深淵なお話をして下さいました。非常に密度の高いお話に参加者は全神経を耳に集中して拝聴しました。大変難しい内容でしたが、心にずしりと響くものがありました。

金田上人のご法話

金田上人は要点をまとめた資料を準備してお話下さいました。自分自身の信仰のあり方や体験を若くして新鮮な感性でもって語られました。特にアメンボのお話は参加者の共感を得たように感じられ、苔むす我が身のマンネリ化を痛感しながら拝聴しました。以下、金田上人にまとめていただきました。

「光明主義、その伝統と創造」というテーマに準じ、法然上人の伝統の教え、弁栄聖者の創造の教えを通して「信仰の目的」について、お話させていただきました。

私、弁栄聖者の教えに出会って、「人格の完成」というのに引きつけられて、お念仏させていただけるようになりました。ですが、その「人格の完成」をしたいという欲求の裏に、びっしり潜んでいたのが「俺が俺が」なんです。そして、現世だけの、自分の幸せだけを求めるような念仏です。

なぜ、念仏をして人格を高めたいか、その裏に潜んでいたのがこんなこと、たとえば偉い坊さんになりたいとか、有名人になりたいとか、金持ちにとか、女性にもてたいとかこんな思いばっかりだったんです。

今でもよく覚えています。人格の完成を求めてお念仏してはいるのですが、「礼拝儀」にある「至心に帰命す」の「我が身と心とのすべてを捧げて仕え奉らん」というのが、本当に気にくわなかった。「なぜ、この俺の大事な人生を如来様に捧げにゃいけんのじゃ!冗談じゃない!」と思っていました。(今は人格の完成を求めてお念仏させていただけるようになったけれども)。このような如来様にお仕えする、捧げるという気持ち、即ち「如来様に帰命する」という根底がなかったのです。pこのような誤った道を歩んでいたのを「正しい道はこっちだよ」と、ある生き物に教えてもらいました。何だと思います?

実はアメンボ。

そんな誤った信仰をしている時、5年前でしたでしょうか、長野・上諏訪の阿弥陀寺のお別時に初めて参加しました。お別時自体初めて。実際自分から志して行ったというより、行かされたというような感じです。本堂の横に池のような所があるのですが、私はそこで朝、歯磨きをしながら、自分のこのお鼻を掃除しておりました。そして大きなブツが取れましたので、すかさずそれを、その池にポイと投げ捨てました。そうするとそのブツが水面に落ちると同時に、5、6匹ぐらいだったでしょうか、アメンボがいましてそれが一斉に私の鼻から出たブツの争奪戦をしているんですねー。まさに俺のだ!俺のだ!といわんばかりに取り合っている。それを見た時、何を思ったか、私はこう思ったのです。あっ俺がおる!と思ってしまいました。あれがまさに私の人生の方向性を決める出来事でした。

人間である私から、あのアメンボを見た時、そんなつまらないものをなぜ取り合いしているんだ?と思いますね。そして神様、仏様から人間を見た時も同じように思うんだろうなーとこう思ったのです。お金やら、地位やら、名声やら、この世の快楽やら、今求めてやまないもの、私だけでなくここにいるような方は違うと思いますが、世の中みんなこんなしょうもないものを必死に求めて争奪戦していますね。これぜーんぶ「鼻くそじゃ!」と教えられました。そんなの全て死んだら終わり、永遠なるものでもなく、ほんの一瞬のもの、幸せでもなくて苦悩の元、本当に美しいものでもなく、汚れたもの、真実でなく、偽りのもの。と、このようにアメンボを通して教えられてしまいました。大変貴重な経験をさせて頂きました。

それで今年もそのお寺に行って、お別時に参加したんですけれども、5年ぶりにふと思い出して同じことをやってみました。どうなったと思います?

泣きそうになりました。また鼻を掃除して、ポイと投げました。するとアメンボはみんな無視!見向きもしないんですね。お腹いっぱいだったんでしょうかね。でも私はこのように勝手に解釈しました。「お前はもう、鼻くそなんかに目がくらむ愚か者じゃありませんよ」って。本当に勝手な解釈ですけれども、嬉しくてしかたがありませんでした。そしてそれに気付いて、だんだんお念仏をしていると、如来様に「捧げるなんて冗談じゃない」だったのに、「捧げてもいいかな?」→「捧げたい」といつの間にか・・・・。

このアメンボに教えられたようなことはなんとなく理屈でもともと知ってはいました。しかし、知っているだけで本当に分かってないんですね。ストンと心の奥に落とすためには恐らく理屈だけじゃ駄目なんでしょうね。お念仏あってのアメンボの教示であったと確信しております。

法然上人の「念仏を以て先となす」とのご教示はありがたいですね。「煩悩まみれの念仏でもそれでも、それでも先ず、念仏しなさい。そうすれば分かってくる」ということなんでしょうね。

伊藤先生のご法話

伊藤先生はご法話の最初に現在教鞭を取っておられる光明学園について紹介をされました。大正8年に弁栄聖者によって開かれたこと、その精神は「建学」と称する宗教の時間で教え継がれていること、さらに生徒との日常生活を通して現在の高校生の実情について話されました。今、教育が抱える問題について、「大人への不信」がその原因であることを指摘されました。「私のような大人になりなさい」と自信をもって言える大人がほとんど見られないのでではないか、そのような人間になるには日々のお念仏によって磨かれていくより方法はないのではないかということを話されました。それから本論へと導入されました。お話の概要を伊藤先生にまとめて頂きました。

浄土宗の二祖聖光房弁長上人は、その最晩年の著書である「徹選択集」において、「聖浄兼学」の立場を表明され、称名念仏の普遍性や深勝性を検証された。特に「大智度論」に説示される大乗菩薩行としての「浄仏国土 成就衆生」や「不離仏 値遇仏」が、称名のうちに我々凡夫にも具わっていることを明かし、通仏教的な視点から称名の行者における利益を論証されたのである。

念仏を申す私たちは、如来様と親しく決して離れない。その行の中には自ずから自利利他の菩薩行の徳目を内包している。

弁栄聖者は更に、一声一声の中に実現してゆく私たちの理想像を「礼拝儀」や「宗祖の皮髄」に詳しく説かれている。近年、若者層の犯罪等が社会で問題となっているが、逆に我々大人はどうであろうか。念仏を通し、若い世代の理想や目標となり得るような自己の向上や地域社会の構築に尽力したいものである。

伊藤先生は僧侶の資格も取得され、教育現場で弁栄聖者の光明主義を展開できる理想的な立場でおられると思います。もちろん、特定の宗教教育はできませんが宗教性の涵養は、今一番求められているものと思います。若い指導者として今後のご活躍を心から祈っております。

質疑応答

第2日目の最後にご法話に関して、また平素から思っている疑問についての質疑応答に時間が設定されていました。今回も多くの質問がありました。その中から2、3あげますと・・・

  1. 大乗仏教は念仏と共に始まったとのお話に大変感銘しましたが、その念仏とはどんな念仏ですか?
    ・念ずる仏の御名 般舟三昧以来の移り変わり(道信の念仏も含めて)
    ・「念ずる」の意味又は内容について ※三業の念仏かどうか ※観念の念仏か口称の念仏か ※古い時代から善導・法然の時代への移り変わりの様子など
  2. 「私は神の中にあり、神は私の中にある」という超越と内在の考えは理解できた気もしますが、これを説明するのが空であるということをもっと理解したいのですが。
  3. 「仏を離れて別に心あることなし。心を離れて仏ありことなそ」一切唯心(造)この場合の心とは、真実心、霊性大我を申すのでしょうか?

これらに対して時間の制約もあって2、3問にお答え下さいました。この質疑につきましても「ひかり」誌の別項目にて河波上人がお書き下さることになっています。

雑感

今年は教学布教研修会を各支部毎に持つと言う異例の開催となりましたが、関東支部研修会に、はるばる九州から2名、中部支部からも2名参加下さったことは何より嬉しいことでした。九州から参加の菅野さんと今井さんは、会場の設営から期間中の雑事や接待、後片づけまで献身的にお手伝い下さいました。つい若い方に甘えてしまいすっかりお世話になりました。支部交流もできて非常に有意義であったと思います。

今回の研修会は関東支部の年間行事の一つである「河波上人を囲むやさしい仏教勉強会」のメンバーもその対象とし、さらに案内範囲を拡大して広く参加を呼びかけ、内容的にも初めて参加する人を主対象に企画されましたので、参加の若い人達も親しみ易かったと思います。河波上人のご法話も熱意が伝わってくるように感じました。

田代氏が河波上人と事前に充分に相談され、綿密に企画し、手際よく運営されましたので大変効率的に会を終えることができました。ご苦労に感謝し、次回の更なる発展を願っております。

関東支部から、近畿支部の研修会に参加された方がありました。その方に感想をお聞きしますと、開口一番、「近畿(京都)はさすがに伝統がある」でした。詳しく尋ねますと、まずお坊さんの参加者が多いこと、お念仏や礼拝儀の声に圧倒されたそうです。他支部との交流で刺激を得て、お互いに切磋琢磨していくことが光明会の発展に繋がっていくものと思いました。

光明園11月例会

植西 武子

◇日時 11月26日(日) 10時~16時
◇場所 光明園
◇内容 念仏と法話の会
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 26名

光明園の例会は8月がお盆でお休み、9月が大巌寺別時念仏会と合流し、10月は教学布教研修会に合流しましたので、今月は久しぶりに落ち着いた雰囲気での例会でした。午前中、所用があり、お昼に光明園に着きました。丁度昼食の時間で約半数の方は食べに出掛けられ、弁当持参の方たちは二ヶ所に分かれてテーブルを囲んでお食事や歓談をしておられました。

98歳の河村さんは毎回お元気で出席され、今日も中心となってお話を展開されておりました。皆さん先輩のお話に傾聴され、とても和やかな雰囲気でした。午後は礼拝儀と少しお念仏をして、ご法話となりました。

ご法話

今月のご法話は「観無量寿経」(以下「観経」と表現)を中心になされた。

この経は浄土宗でも「三経一論」と称せられる所依経典の一つで、いまやこの経典は光明主義にとっても極めて重要な経典である。

そのことは例えば「礼拝儀」の中の「光明摂取の文」(如来の光明は遍く十方の世界を照らして・・)も「観経」の所載の文であり、また何よりも「南無阿弥陀仏」の名号自体も実にこの経典に初めて出てくる点からもその重要さがおしはかられる。浄土宗でも同様でありであり、浄土宗中興の聖冏上人(1341~1420)も、三部経の中でも特にこの「観経」にその重要性の意義を述べている。

この経は訳者はきょう良耶舎で中央アジア出身の僧であり、この経も中央アジアで出来たとも言われている。韋提希夫人という絶望の底にあった一人の女性の請いによって釈尊が説かれた内容となっている。まず、「日想観」が説かれる。そこには沈んでゆく夕日の荘厳極まりなさがおのずと念仏三昧の実践に連なってゆく点が考えられる。法然上人の四天王寺の沖に沈む夕日に想念の集中がなされた事なども有名である。弁栄聖者にも、「我がみ仏の慈悲の面 夕日のかたに映ろいて 照るみ姿を想ほえば 霊感極まりなかりけり」の道詠がある。

この経典では韋堤希夫人の「我に思惟(正受)を教え給え」の問で始められるのであるが、それに対する釈尊の解答は「心に仏を想う(思惟する)時、この心仏と作(な)る」であり、思惟することによって思惟されるものとの一体化が説かれているのである。それはまさに「思惟するもの(主観)」とその対象との分裂が超えられてゆく思惟Subjekt-Objekt-Spaltung-uberschreitende
Denken(K・ヤスパース)ともいうべき高次の思惟であり、西田幾多郎もかかる思惟を実践していた。なお、法然上人の「月かげの歌」はこの文を背景に歌われたものであることが考えられる。この文に続いて「光明摂取」が説かれるのであるが、この経を英訳したM・ミュラーはこの「摂取」をprotect and enbrace(抱き獲る)と訳している。時として漢訳より英訳が達意的である。そこには娑婆と浄土を包んで念仏者が如来の光明の中にあるとの信が強調せられるべきであろう。

「此世及後生、順仏常摂受」(善導大師『往生礼讃』)の文も弁栄聖者はしばしば引用され光明主義の真髄が説かれているのである。

またこの経は念仏往生の心構えとして「三心」(至誠心、深心、回向発願心)が説かれているが、念仏三昧の実践においてはとりわけ第二の「深心」への集中が法然上人のご法話にもうかがわれる。聖冏上人も「三部経」は「観経」に集約され、さらにその「観経」は深心の一句に収まる旨説かれている。【「総依三経、別依一経(観経)、総依一経別依一句(深心)】・・・「教祖十八通」そして「観経」は最後に「南無阿弥陀仏」の称名の一点に集中せられ、称名によって罪悪深重の凡夫に至るまでの救済が説かれるのである。

(その他、「跡見花蹊日記」(全五巻)の完成への言及もあった)

茶話会

日没が早く、4時を過ぎると夕闇が迫ってきます。遠方の方は急いで帰路に着かれました。残った者で茶菓をい頂きながら歓談しました。この機会も例会の大切な一こまだと思います。特に初めて参加された方には出来る限り親しみのもてる雰囲気が大切です。また、いろんな情報を交換する中で新しい道が開かれたりします。

まだまだ話が尽きないようでしたが、外はだんだん暗くなり始めましたので、急いで後片づけをして散会しました。

東京光明会11月例会

植西 武子

◇日時 11月25日(土)13時~16時
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者16名

2階の窓を開けると、純白の新雪に覆われた富士の霊峰が紺碧の空を背景にくっきりと浮かび、思わず息を呑む思いでした。絶好の好天に恵まれました。

一行院の庭はすっかり冬支度が整い、ひっそりとしていました。花壇に咲く2、3輪の小花の赤が印象的でした。本堂に入りますと既にお念仏が始まっておりました。

いつものように、礼拝儀、お念仏、その後、聖歌「釈尊の本懐」を歌ってご法話となりました。

ご法話

先月に引き続き、「弁栄聖者の片影」の13頁から32頁を読みながら、お上人様はいろいろと捕捉されました。この本は弁栄聖者の日常生活のご様子をメモのような体裁で書かれたもので、いろんなエピソードが納められています。弁栄聖者の当時のご様子が手に取るように伺われます。その中のいくつかの概要です。

蚤の話

筑波山で修行されていた時のこと。ある日、松戸の一信者を訪ねられた。髪の毛は茫々、垢にまみれた衣はぼろぼろ、その上、蚤が繁殖していた。その家の奥さんが衣を煮沸せんとすると、上人曰く、「そんなことをしなくても外に掛けておけば蚤はそれぞれ好きな方にいってしまう」(聖者は絶対に殺生をされなかった)。

習志野の茅屋で辛酸の日々

善光寺本堂建立までの弁栄聖者の日常生活は衣食にも事欠く日々であったという。真冬の早朝にある檀徒が上人を訪ねると、頭に藁切れをつけて木小屋から出て来られたので、わけを聞かれると、「このごろは寒いので藁を着て寝ています」と言われたそうである。また、ある夕刻に別の人が訪れると何か白いものを鍋で煮ておられた。何かと聞くと、「白米のとぎ汁です。白米の方は来客に供養したので・・・」。

さらに、食するもの無く、2、3日絶食されたこともあったという。人に曰く、「時々、絶食すると心身共に軽くなり、良い気持ちです」

貧しき人に施す

東漸寺より善光寺に毎月白米一斗が給与されていたが、御師御遷化の後、経済事情から、それが打ち切られ、当分は付近の家からの甘露や麦を糧に当てられていた。

そんな中、東京から偉いお客があるということで、檀徒の関口氏より、白米5升を譲り受け、留守番をしていた山崎氏と付近の山林から茸を採り、準備にかかった。その時、山崎氏より「隣村に夫婦と子ども2、3人の非常に困窮した家族がいる。しかも、その主人が困窮が故に罪を犯して入獄、残された家族はひとしお哀れである」と聞かされる。黙って聞いておられた聖者は5升の中の2升を持って家族を訪ねられた。翌日その母が栗を1升ばかり持って礼に来ると、さらに1升を持たせて帰されたと言う。

両眼放光と重瞳

聖者が東京にご勉学中のこと、例の如く薄汚れた履き物に色あせた衣を着て往来を歩いておられると、前方より多くの侍者を従えた立派なお駕篭が進んで来るのに出合われた。暫くしてそのお駕篭が止まり、中から緋の衣の威容正しき僧侶が降りてきて慇懃に聖者にお礼をして再び駕篭に乗り、立ち去られた。後刻、侍者が事の次第を訪ねると、「お前達の凡眼には見えなかっただろうが、あの僧侶の両眼から光明を放っていた。凡僧ではあるまい」と答えられたと言う。

これに関連して、八木上人は九条兼実と法然上人の間でも同じような逸話があることをお話下さいました。そして重眼(瞳が二重になっていて、特に夜に瞳が輝く)についても触れられました。夜更けに経を読む法然上人の両眼から光が放たれているのを見た人がいる。徳本行者もそうであったと言われている。

弁栄聖者についても、草庵に住んでおられた頃、付近の農夫が夕刻に聖者を訪ねると非常に暗いのに明りもつけず仏画を描いておられたので、「こんなに暗いのに見えますか」と聞くと「ハイ。見えます」「どんなに見えますか?」と重ねて聞くと、「暗く見えます」と答えられました。
※その他五香善光寺の建立に当たっての資金寄贈の呼びかけに中心的に尽力されたこと、また五香の田地購入に際し、父嘉平氏から金二十円を借入された証書、インド仏跡訪問のご様子など、何度も読み返すごとに透明で清浄ともいえる聖者の崇高さに心が浄化され、揺すぶられる思いでした。

茶話会

本堂から降りて来て庫裡のお部屋に入りますと、暖房がきいて茶菓の準備がされておりました。奥様と世話係の方々が毎回準備して下さいます。いつも勿体ないと感謝しながら席に着きます。席の配置が縦長になっていますので、どうしても個々でのお話となりますが、お上人様の席の近くではいつもご法話に関する内容が多いです。今回もご法話の中の「両眼放光」のお話に関連して、大先輩の河村昌一氏があるお別時での経験談を披露されました

それは昭和10年の春、山口県の熊野上人の所でのお別時に河村さんが参加された時の事でした。導師の笹本戒浄上人が夜の席で「真実の自己」についてお話をされていました。空気がぴんと張りつめたような静寂な雰囲気だったそうです。お話の最中に最前列に座っていた九州のある方が手を挙げて、「お上人様、今何かを感じられましたか?」とたずねた。「いや、別に何も」。暫くして再び手を挙げて、同じ事を聞かれる。そして「お上人様が話される時、お口からぽっぽっと出てこられる」と言われたそうです。

その後、暫くして河村氏は京都の六波羅蜜寺を訪ねた時、お口から2、3本の仏様が飛び出している空也上人の木像に遭遇された。こういう事もあるのかと実感されたそうである。茶菓を頂きながら、先輩のお話を大変興味深く拝聴しました。

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