東京光明会2月例会
植西 武子
◇日時 2月17日(土)13時~14時
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者 18名
一行院の門を潜ると紅白一対の梅が如月の空の下に色鮮やかに咲いていました。例年ならば満開の時期と例会がややずれて残念に思うことが多かったのですが、今年は暖冬のため、開花が早いとのことでした。
お念仏が終わると、八木上人のご法衣がいつもと違うので、何だろうと思っておりましたら、東京光明会の会員であったご婦人のご回向がありました。ここ数年お見えにならなくなっていましたが、昨年の4月に89歳で亡くなられたそうです。その方の娘さんからの賀状でわかったそうです。毎年何人かの方がお浄土にお還りになることはとても淋しく思われます。順々にお焼香をして心よりご冥福をお祈りしました。その後、聖歌「法身の讃」を歌ってご法話となりました。
ご法話
今月から、また「弁栄上人の片影」についてのご法話になります。NO.76「如来光明歎徳章要解の序」についてのご法話でした。このタイトルからも想像できるように、NO.75は弁栄上人の日常生活エピソードが中心でしたが、NO.76は弁栄上人の書かれた書物について述べられています。従って内容的にも非常に難しくなるため、お上人様は初めに少し「光明歎徳章」について解説をして下さいました。
- 「光明歎徳章」とはお光明をほめ讃える章のことで、その光明を12通りに展開されている。「光明歎徳章」そのものは「無量寿経」に基づくもので、これを詳しく解説した人は過去に何人もおられるが、自分の体験からの視点も入れて解説されたのは弁栄上人が初めてである。
- 「如来光明歎徳章要解の序」
『如来は宇宙の生命なり、聖旨に帰命ものは永遠の生命とならん。如来は宇宙の光明なり、聖寵を光被ものは聖き霊とならん』
全ての生命体は五大(地・水・火・風・空)からできている。これに識大が加わって六大となる。宇宙を六大本毘廬遮那仏の身心と認識するとき、宇宙は無限であり、如来の法身である。そうであるなら、宇宙は外面的に見れば蒼々たる天唯物の存在のようであるが、内面的には心霊が充満した存在となる。
天地万物に秩序と条理があるのは全知の作用である。自然界には人智を超えたさまざまな営みがある。たとえば聖の位置やその運行には精緻な決まりがある。それ等は全知の作用に他ならない。
また、それらが昼夜休むことなく、永続的に運転活動し続けるのは全能のはたらきによるものである。この全知全能は即ち如来の光明である。
この光が天則秩序の理法とし、また原動力として一切の万物を産出し、活動させているのである。もし宇宙にこの光が無ければ、人に精神がないと同様、全てのものが盲目的、死物的、無秩序で活動もない。しかし、万物に秩序あり、運動している現状にあって、誰がこの性能の存在を否定できようか。
更に、この光は天則の理法として万物を開発するだけでなく、一切の生命を向上させ、聖き霊として終局の目的である涅槃に摂取し給うのである。ネハンとは常恒不変の常世の霊界である。
聖典に書かれている法蔵菩薩はこの目的の光として示現されたものである。即ち、絶対理性の大宇宙と相対理性の我々衆生を結ぶ手だてとしての方便法身である。
三世の仏陀はこの目的の光を衆生に伝えるために出現されたのである。この光は万物を超え、始めもなく終もなく、内に非ず外に非ず、時空を超えて存在し、不思議の霊能を示現し給うものである。
※ご法話はNO.76「如来光明歎徳章要解の序」の途中まででした。お上人様は読みながら所々で補足、解説して下さいました。
- 涅槃には有余涅槃と無余涅槃がある。釈迦は35歳の12月8日に有余涅槃、80歳の2月15日に無余涅槃に入られた。有余とは肉体と言うあまりものがあるという意味。
- 念仏を一心に称えることによって涅槃(ニルバーナ)の世界に入ることができる。(浄土門)
- 六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の修行によって涅槃に至る。念仏はその修行の一つと捉えている。(聖道門)
- このことに関して文治2年の「大原問答」が後世に語り継がれている。大原の勝林院で聖道門派(叡山・南都の学僧、約300人を相手に浄土宗の開祖法然上人が約30人の僧を伴って1昼夜にわたる論議が繰り広げられた。浄土念仏の教理を論議、問答して信服させたことは有名である。
※八木上人は最後のまとめとして、「弁栄聖者は法然上人が説かれた称名念仏に加えて如来様のお姿を見つめながら念仏すれば一層早く成就すると説かれた。更に光明の力について12通り展開されたことは素晴らしいことである。」と結ばれました。
茶話会
毎年2月には「涅槃会」で本堂の右側の壁に天井から大きな涅槃図が掛けられています。お念仏の後でみんなでゆっくりと拝ませて頂きました。八木上人は詳しく説明して下さいました。これは9枚の紙を張り合わせてできています。弁栄聖者はあちこちでその1枚1枚を描かれて後で張り合わせたそうです。まず、その図柄が測ったようにきちんと合っていることに驚嘆します。更に、その線は全て大般涅槃経の経文字で書かれています(経体絵図という)。
4本の沙羅双樹の下、釈迦は頭北面西、体は右を下に臥し、周りには弟子、菩薩、天竜などが集まり泣き悲しんでいる様子がリアルに描かれています。左上には母君が雲に乗って迎えにきておられます。完全と言える構図に経典文字を駆使して精密に描かれたその絵を眺めていますと、まさにご法話にあった全知全能のなせる業と思わず合掌したくなりました。この涅槃図こそ比類なき傑作として語り継ぐべきものと思いました。
その後、庫裡で茶菓を頂き歓談して散会しました。帰り際にもう一度紅梅白梅を眺めていますと、お上人様が「この白梅は私が生まれる前からあったものです。第二次世界大戦で一行院が全焼した時、庭の樹木も全て焼失したが、その後数年して期せずして芽生えてきたものです。」と話して下さいました。生命力というか、一切万物を生み出す光明の計り知れない力に触れた思いでした。
光明園2月例会
植西 武子
◇日時 2月18日(日) 10時~16時
◇場所 光明園
◇内容 念仏と法話の会
◇導師 河波定昌上人、金田昭教上人
◇参加者 27名
この日は肌寒い北風が小雨を伴って吹き付け、暖冬に甘んじていた身には厳しくこたえる天候でした。11時少し前に光明園に着きますと、ちょうど金田上人のご法話が始まるところでした。
午前のご法話
資料を準備して信心の心構えについて話されました。
「初めに自分を信じ、次に仏を信じる」と法然上人が言っておられるように、信仰はまず自分を信じることから始まる。自分を信じるには、その前に自分の愚かさに気付くものである。自分の愚かさに気付いて、真実を求めるようになる。
この段階を踏まないと信仰を誤る人が多い。世の中に偉い人は少ないが偉そうな人は多い。僧籍を持った人でもこの傾向に陥りやすい。
大切な信仰の段階として、①「自分の愚かさに気付く」ことが必要である。それに気付いて、②自分の力ではどうにもならない、「どうか仏様、お力を貸して下さい」と人は道を求めるようになる。
(「田中木叉上人の次の歌をみんなで歌いましょう」と全員で斉唱)
なさん止めんと思えども
とてもかいなき我が力
ただ泣きつかん慈悲の袖
かなえてたまえこの願足らぬ自分の力では
越すに越されぬこの峠
まもるお慈悲のみ力で
越されぬままに越せてゆく
この心境を例えた挿話「毒蛇」と「甘い蜜」で具体的な例を示して話されました。
「毒蛇」ではある修行僧が悟りを開こうと蛇の多い山に入る。修行中つい眠ってしまうと天人に「蛇が側にいるぞ」と起こされる。あちこち探しても見あたらない。「うそつき」と天人をののしると、天人曰く「顔を真っ赤にして怒っているおまえの中に毒蛇がいる」と諭される。
「甘い蜜」は死刑の日が近い罪人が脱走する。気づいた番人が気の荒い象を放つ。体力の衰えた罪人が必死に逃げるが、象が背後に迫ってくる。その時、一本の草の根が垂れ下がる古井戸を発見。急いで井戸に身を隠す。安堵もつかの間、井戸の底には毒蛇が赤い舌を動かして落ちるのを待っている。さらに気付くとその細い草の根をネズミがかじっている。絶体絶命。その時、井戸のそばに立つ木の枝からポトポトと甘い汁が落ち、男の口に入る。男は全てを忘れてその蜜に夢中になる。
金田上人は象は諸行無常のいろんな出来事、ネズミは流れる月日のこと、根は人の命、毒蛇は地獄、甘い蜜は快楽の喩えであると話されました。
信仰が深まれば深まるほど自分の影が見えてくる。すると更に道を求めるようになる。自分の苦しみの根は無明にあると気づく。盲目的生き方でよいのかと自問する。「人生の目的とは何か」にたどり着く。その答えを弁栄聖者が教えて下さった。
人生は修行の道場である。人格の完成を目指して日々精進する。そして死なない命の尊さに気づかせていただく。南無阿弥陀仏。
午後の法話
河波定昌上人
ある方が長く病床にある奥様のためにご法話を録音して帰られるということで、そのため河波上人は分かり易く二点に絞ってお話し下さいました。
その一点は「信」について、二点目は「臨終」についてでした。
※現代の最大の不幸は自分たちの帰っていくところがないことである。これは21世紀最大の哲学的課題ともいえる。M・ハイデッカーも講演の中で「水爆の恐怖よりも恐るべきものが迫っている。それは我々の帰って行く故郷の喪失である」と述べている。
「聖きみくに」は我々が帰っていくたましいのふるさとの世界である。「七覚支」は、聖きみくにに至る悟りの段階を歌ったものである。
極楽は阿弥陀経には十万億土の彼方にあると書かれているが、観無量寿経では目の前にあるとも説かれている。
江戸末期の学者、塙保己一は目が不自由だったが晩年、次のような歌を詠んでいる。
「名月や 座頭の妻の 泣く夜かな」
これはあくまでvisibleな世界から歌ったものであるが、「目に見えないが実存するものがある」と信じることが大切である。目に見えない仏様の「信」は「智」に変わる。生きる上での大きな力となる。
山田無門の「大いなるものに抱かれあることを 今日吹く風の涼しさに知る」は摂取(抱く、包む)を詠んだ悟りの歌である。ニコラウス・クザーヌスも「紙は我々を包んで(conplicaio)まします。」と述べている。
※臨終について
浄土宗では臨終行儀を非常に大切にしている。エッグハルトも臨終について「神が私の魂の中から飛び出す」と言っている。
生体学的に言えば臨終時に聴覚が一番最後まで残るそうである。従って臨終にある人の呼吸に合わせて「南無阿弥陀仏」を称えることが大事である。念仏をしていると快楽ホルモンが働き出すと言われている。それはモルヒネの6~7倍も痛み止めの働きをするそうである。お念仏を称えることによって阿弥陀様の光に包まれてその世界に至るのである。無限の世界へと導くにはお念仏しかない。しかもしっかりと声を出すことが大切である。本人自らの念仏は言うまでもないが、周りの人も大きな声でお念仏してあげることが大事です。お上人様は臨終の大切さを思えば日々の修行への努力が一段と必要であると結ばれました。
茶話会
今回は3時より関東支部の役員会が別室であるため、茶話会に参加できませんでしたが、みなさん歓談をして帰られました。河波上人の教え子である方がオルガンの伴奏をして下さいました。聖歌は「聖きみくに」「七覚支」と2回歌う機会がありました。お上人様は漫然と歌うのではなく歌詞の内容を味わいながら歌うことが大事だと話され、「七覚支」について解説されました。これは念仏をして三昧が深まっていく状態を七段階で表したものでとても尊い内容であるとのことです。
また、過去に文化使節団のドイツ代表の学者が「七覚支」の内容に非常に感動されたとお話し下さいました。弁栄聖者は音楽の面でもそのお力を示されています。田中木叉上人のお別時には聖歌がどんどん取り入れられていたように思います。音楽(聖歌)の教化に占める役割は非常に大切だと思いました。
金田上人がご法話の途中で聖歌を取り入れみんなで歌いました。さすが若い人の発想でとてもよいことと思いました。河波上人が若い方を育てるべく、ご法話の機会を設定されたこともうれしいことでした。金田上人のお話を聞きながら、忘れかけている若き日の情熱を思い、苔むす我が身に大きな刺激を頂きました。
東京光明会3月例会
花岡 こう
◇日時 3月3日(土)
◇場所 一行院
◇講師 八木季生上人
◇参加者 15名
長老の河村昌一様は白寿のお祝いと重なりご欠席でしたが、このお年になられても矍鑠としておられ、お休みなく例会でご活躍で頭が下がります。
今月は、一行院で終戦後例会が始まった頃から熱心に参加なさった柴武三先生の御長女・勝川美代子様の二十三回忌に当たり、ご回向があり、一同ご冥福を申し上げました。
勝川様は跡見学園で学ばれたということで少し跡見花蹊先生についてそのお話がありました。
弁栄聖者は個人のお宅でもご指導下さった事があり、跡見先生は自宅でみ教えをいただきました。何も思わず念仏するのではなく、生きてまします如来様に、ぜひお目にかかりたいという願をもって憶念の念仏をする様にご指導いただき、ついに天地一杯の如来様にお目にかかる事ができました。
聖歌、如来讃をうたい、シリーズでお教えいただいている「弁栄上人の片影」についてのご講義を受けました。五十六番の「如来光明歎徳章の序」の後半についてお話し下さいました。
大変難解な御文章なのですが・・・私共に備わっている煩悩というものは、消し去ることは不可能であるが、大宇宙に満ち満ちている光明をいただく事により変化させる事ができる。
「一切の聖者はこの光を得て永恒の命を得給う。仏陀がガヤの道場にて・・キリストはヨルダンにおいて。龍樹、天親、ソクラテス、マホメット、善導、空海、法然の如き霊界の偉人は皆この光の人格として現したるものと言うべし・・・。
諸々の賢者よ、願わくは我等一切諸仏の讃称し給う終局の光を信じ正覚の華を開きて三身一如の妙果を結わんことを」とここまでの講義をいただきました。
今年は例年になく暖かいので、本堂前の梅はすでに散ってしまいました。東京都の文化財に指定されております大きな立派な徳本行者の墓所と、昨年分骨建立されました弁栄聖者の墓所に詣出ました。春の美しい花が溢れる様に墓前に供えられておりました。充実した一日に感謝一杯で帰途につきました。