光明園3月例会
植西 武子
◇日時 3月11日(日) 10時~16時
◇場所 光明園
◇内容 念仏と法話の会
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 27名
やわらかい日差しに春の訪れを背中に感じながら光明園へと急ぎました。午前中のお念仏が終わりに近い頃でした。しばらくお念仏をして昼食となりました。
約半数の方が外に食事に出掛けられ、残った者が2ヶ所に分かれて歓談しつつ昼食を頂きました。この時間帯はいろいろ情報交換するのに大切な場となっています。
午後は1時より約30分間お念仏をして、聖歌「七覚支」を歌ってご法話となりました。
ご法話
[宗教と道徳(念仏の戒)が中心テーマでした)
現代の日本は精神的にも危機的状況にあると言える。特に道徳の退廃には目にあまるものがある。善悪の分別もつかなくなり、至るところに悪が横行しているのが現状である。このような時にこそ宗教、とりわけ仏教は重要な役割を果たすべきであるのに、ほどんど役立っているようにも思えない。大体のところ実は日本仏教は倫理道徳に対して従来、むしろ否定的な傾向を持っていた点さえ考えられるのである。
本来、仏教は「七仏通誡偈」(すなわち「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」)はまさに永遠の道徳的真理の旗印となるところのものでさえあった。しかしながら現代の仏教においてもかかる道徳に対する積極性はほどんど見ることができない。日本においてもかかる道徳に対するたとえば天台宗における大乗円頓戒の高揚にもかかわらずである。(法然上人も天台に連なる大戒師であられ、後鳥羽、後白河、高倉の三帝の授戒の師であられたことも銘記すべきである)
日本仏教における非道徳性の傾向の根底には、たとえば一には「煩悩即菩薩」の思想、いわゆる「天台不二法門」を悪用して悪が許容されたことである。二には「悪人正機」の思想が考えられるのである。「悪人正機」は元来、法然上人の言葉であるが、心ない人達がそれを悪用し、道徳の否定に連なっていったのである。
しかしながら実は念仏を通して道徳は根底から確立されてゆくものなのである。たとえば「無量寿経」には「愚趣、自然に閉ず」とあり、また同経「歎徳章」には、「この光に遇う者は・・・善心生ぜん」等の文からも明瞭である。実に念仏の中でおのずと道徳的実践がなされてゆくのである。(念戒一致)
道徳(戒)の実践的行為の根源(そこから道徳的行為が湧出してくる根源)は、古来、「戒体」と称せられていた。この戒体をめぐって仏教では種々、論議されてきたのであるが、その一つの代表として私たちの心の根底にある「仏性」こそが戒体であるとする立場(「仏性戒体節」)がある。しかしながら、それをも含んでたとえば大乗戒経たる「梵網菩薩戒経」では廬舎仏こそが道徳の根源(戒体)として浄土宗等においても受け取られてきた。弁栄聖者のご遺稿にもこの経典の引用は多い。しかしながらそれらをも含んで聖者は十二光中の「無礙光」において道徳論積極的に展開されるのである。そして十二光は実にその全体を挙げて道徳的な光となってはたらくのである。神聖は道徳的な判断、正義はその実践、そして恩寵は悪人をも含んでかかる道徳的実践をなさしめる大慈悲のはたらきなのである。
茶話会
今月は久しぶりに参加された方もあって、お茶を頂きながら楽しく歓談しました。
お昼の時間には白寿を迎えられた河村昌一氏を中心にお話が弾み、聖路加国際病院の理事長で医師として現役でご活躍中の日野原重明先生(95歳)が話題となりました。お仕事のみならず、スポーツに音楽にと趣味を広く楽しまれている生き方に感心するばかりです。お念仏の大先輩である河村さんは、今回もいつもと変わらずお元気で、遠方より参加され茶話会でもいろんな話題を提供して下さいます。
また、仏教塾の方で遠方長野県から参加された方もいました。東京から郷里に最近帰られたそうで、日帰りでの参加でした。毎回非常に真摯な態度でお念仏されておりましたので、お寺のご子息かと思っておりましたが、お聞きすると在家の方だそうです。将来、立派な僧侶となられるようにと祈り、上諏訪のお近くだそうで、唐沢山のお別時にもお誘いしました。
河波上人と奥様はいつも玄関までお見送り下さいます。お上人様の内容の濃いご法話と奥様のこまごまとしたご配慮に心より感謝して帰路に着きました。