光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成19年6月

東京光明会4月例会

植西 武子

◇日時 4月14日(土) 13時~14時
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者16名

うららかな陽をうけて一行院の庭は春爛漫を謳歌する草木の息吹で満ちていました。生命の躍動する季節の到来がとても嬉しく感じられました。

本堂では既に数名の方がお念仏を始めておられました。お念仏も後、聖歌「如来の光」を歌ってご法話を拝聴しました。

ご法話

ご法話は「弁栄上人の片影」をテキストとしてシリーズで行われていますが、NO.76「如来光明歎徳章要解の序」は内容的に重要であるため、2月に前半、3月に後半を解説してお話し下さり、今月は総復習として後半部分を中心に、更に詳しくかみ砕いてお話し下さいました。続いてNO.76「十二光を開顕けば」までお話が及びました。

※「礼拝儀」の十二光仏は弁栄聖者が独創的に展開下さったものであるが、「如来光明歎徳章」そのものはお釈迦様のことばであり、「無量寿経」の中に説いておられる。如来の光明を讃えたものである。
その「光明」とは、定義づければ「如来がわれわれにお与えくださる霊的エネルギー」である。

  • 自然界に存在する「光線」は物質を育み、目で確認することができるが、「光明」は肉眼では確認できない。太陽光線は自然界にあらゆる生物の命を生み出し、育てる、その光線には三つの機能がある。①光線は明るさをもたらし、②熱線は物質を温め、③化学線は物質に化学変化をもたらす。日常生活の中での具体的な例を上げれば、天日に布団を干せば熱線で温まり、化学線で雑菌を殺す。また、渋柿を日光に干せばやがて渋は甘味に変わる。
  • 心霊界に作用する「光明」はこれと相応して働き、我々の内面を育てる。①光線は我々の心を照らして「智慧」となり、②熱線は心を温め「慈悲」となり、③化学線は「神聖(威神力)」となる。煩悩に基づく「知」は絶対的な「智慧」と根本的に異なり、まちがいが生じ易い。光明は「知」に変わる「智慧」として作用する。

このことをお上人は一行院の門前に掲示してある言葉を引用してお話し下さいました。

道心の中に衣食あり
衣食の中の道心なし  最澄

これは「道を求めて生活していると自ずと衣食住がそなわってくるが、衣食住のみを求める生活をしていると道を求める心は育たない」という戒めである。

稲を育てようとすれば稲ばかり育ち、肝心の稲穂は育たない。稲穂を実らせようと思って育てると稲穂は勿論、稲も自然と育ってくる。

また威神力は「煩悩」を「菩提心」に転じる働きをする。渋柿に譬えれば渋は煩悩であり、甘味は菩提心である。

※聖者は更に霊的智慧といえる一切智(全智)と、一切のものを生み出し変化させる能力である一切能(全能)に言及して、「この霊光の及ぶところ、その類にしたがって化を被らないものはない。一切の聖者はこの光をもって永恒の光を得られた。釈尊がガヤの道場で正覚を証されたのも、キリストがヨルダンで聖霊を感じられたのもこの霊光に接せられたからである。また、この霊光は自然界の中に存在し、種々の相をもって衆生のために現れ給う。経典にある観音の三十三身はその示現身であり、龍樹、天親、ソクラテス、マホメット智者、善導、空海、源空はその人格体である」と述べておられる。
そして最後に「諸々の賢者よ、願わくば、この終局目的の光を信じ、聖旨に帰命し、無明の眠りより覚め、聖き霊となりて涅槃界に生じ、正覚の華開きて三身一如の身とならんことを・・・」と記しておられる。※NO.77「十二光を開顕せば」
弁栄聖者は「十二光を開けば一切を尽くす。自分は念仏を十二光に開いたが、後はみんなの仕事だ。みな完成してしまうとみんなの仕事がなくなるから」と言われたそうである。これを補って山崎弁誡上人は「如来の十二光については既に先徳も着眼され、親鸞上人等も称揚しておられるが、ただ客観的に謳歌しているに過ぎない。弁栄聖者は自らの宗教的体験に基づいて説明下さり、特に最後の難思、無称、超日月の三光は聖者のすぐれたご創見であり他師の追随を許さない独創的なものである」と述べておられる。
八木上人はこの点について補足して下さいました。

  1. 難思光(喚起位)・・・「目を覚まさせる」(五根五力の修行)
  2. 無称光(開発位)・・・「眠りから覚めて働き出す」(七覚支)
  3. 超日月光(体現位)・・・「意識しなくても行動に表れる」(八正道)

特に修行には基礎(五根五力)が重要であり、如来と我々を結び付ける者、それが「光明」であると結ばれました。

茶話会

※茶菓を頂きながら歓談しているとお上人様がぽつりとおっしゃいました。ご法話で話されたご門のところに掲示されている最澄のことばについてでした。ある方が「ここ(一行院)は浄土宗のお寺ですのに、最澄のことばを掲示されているのですね」と尋ねられたそうです。内容についてではなく、浄土宗と最澄(天台宗)が結びつかなかったようです。一般的にはもっともな質問かも知れません。平素からキリスト教をも包含する光明主義のご法話を拝聴している立場から、何の違和感も無かった自分。指摘されて初めて気付くこのギャップ。まだまだ宗派仏教健全なり。光明主義に化せられた大きな課題の一つだと思いました。

※東京光明会の会員であった柴晴美様が関西の方にお帰りになるとのことで、今月が最後でご挨拶がありました。また一人お姿が見えなくなり淋しい限りです。私的なことでお父上である柴武三先生には大変お世話になりました。「唐沢山別時」や「法のつどい」での再会と関西でのご活躍を心から願ってお別れしました。

第5回 河波上人を囲む易しい仏教勉強会

植西 武子

◇日時 4月22日(日) 10時30分~15時30分
◇場所 光明園
◇導師 河波定昌上人
◇テーマ 「現代と光明主義」
◇参加者 38名

4月例会の「念仏と法話の会」は関東支部年間行事の一つである「易しい仏教勉強会」と合わせた形で実施されました。したがって参加者の大半はいつものメンバーでしたが、初めて参加の方が10余名あり、いつもより若い方が多く、他県から参加された方もありました。そのため非常に活気に満ち、やや緊張感のある雰囲気がありました。10時30分の開会時刻にはほとんどの方が受け付けを済ませておられました。

ご法話

ご法話は午前と午後に各1席ありました。ご法話と質疑応答に関してはお上人様が「ひかり」誌の別項目にてお書き下さることになりましたので、テーマと感想のみ記します。

※「現代と光明主義」というテーマでお話がありました。
・「現代」とは何か。それは「近代」と比較するとによって明らかになる。
・「現代社会」の特徴の一つは「情報社会」である。・・・という視点から午前は「情報と念仏」、午後は「ポスト・モダニズムと念仏」というサブテーマでご講話下さいました。
※河波お上人様はいつもながら非常に広い視野からユニークな切り込みでお話をして下さいました。最初、お念仏と情報がどう結びつくのかと、興味深く拝聴しました。お話を聴きながらさすがと感心し、このようなお話はここでしか拝聴できないのではないかと感じ入りました。お忙しくお疲れの中を午前と午後の2回にわたり、立ちずくめでお話下さいました。この機会に恵まれた幸せに感謝、感謝の気持ちです。
※質疑応答については事前に提出されたものと当日のご法話に関しての質疑とがありました。本誌の「光明主義Q&A」にてお上人様がお書き下さいます。

茶話会

大変短い時間でしたが、準備した茶菓をお配りして各自の席で歓談しました。

お上人様の密度の高いご法話を皆さん熱心にメモを取りながら拝聴しておられたので、ほっとひと息のリラックスタイムでした。なおこの日、大変ありがたく思ったことは九州の養生寺・日隈お上人様からのお饅頭のご供養です。以前にもお送り下さったあの素敵などらやきでした。みんなで「大きいね。おいしいね」といいながら感謝して頂きました。温かいご配慮、どうもありがとうございました。

雑感

勉強会も第5回目、すっかり定着してきたように感じました。今回は特に、若い人、初めての人を一人でも多く参加して頂きたいとの願いがかない、若い方が増えたのはうれしいことでした。また遠方の九州から菅野真美さんと今井上人のお嬢さんが参加していろいろとお手伝い下さいました。菅野さんはいつもお友達を誘ってきて下さり、若い人の力に期待しています。それに養生寺様のお檀家で東京在住の敷田やす子様と娘様も参加下さり、茶菓の接待までお手伝い頂き恐縮しました。他支部の方の参加が増え、交流が深まり、活性化につながればとてもうれしいことと思います。関東支部からも他支部のお別時にできるだけ参加するよう努めようと思っています。

勉強会がこのように順調に実施できたのは田代理事長のご尽力があったからです。企画、連絡、運営の全てを一人でして下さいました。非常に綿密に計画し、懇切丁寧に連絡をとり、手際よく会を運営されました。このように全力投球をして事を処して下さる方があって、関東支部も頑張っていけるのだと思いました。次回も是非、他支部からのご参加をお待ちしています。

横浜光明会例会

犬飼 春雄

◇日時 3月15日(木)
◇場所 慶運寺
◇参加者 8名

例会は河村昌一先生のご指導により、晨朝の礼拝・帰命三礼・至心に帰命す・如来光明歎徳章・至心に讃礼す・光明摂取の文・念仏三昧・総回向の文・至心に発願す・帰命三礼・聖歌と運ばれた。

法話は「弁栄聖者ご法語」を拝読しつつ進まれた。笹本戒浄上人の解説を併載した同書は、奥付によると昭和44年4月発行で、編集者・田中木叉とある。その頁には河村先生が木叉上人より頂いたとの添え書きもあり、貴重な本と認識され内容ともども感銘した。

笹本戒浄上人七十回忌は今年の秋に行うことが決まりました。これに関連して河村先生と慶運寺住職・笹本心華上人の御文を頂きましたので、併せて掲載します。

笹本戒浄上人七十回忌を迎えて

河村 昌一

平成19年7月26日は上人の祥月命日、七十回忌に当り、ご遷化前後を追慕してご高恩に拝謝いたします。

(1)最後のご法話(慶運寺例会)
昭和12年6月3日午後6時より念仏三昧。上人より「甘酒を用意したが不良のため取り止める、これも如来様のお取り計い」と申され、紅茶を頂きながら次の様な法話を拝聴しました。
①映画、芝居などには足を運び易いが生死輪廻の原因を作るばかりである。
②善導大師のお言葉の如く、たとえ業事成知升しなくとも至心に念仏出来るのは如来様のお蔭であります。
③聖者のお言葉に偽りはありません。礼拝儀に「如来の在さざる処なきが故に」とある通り、親様は絶対的に尊く在さざらない処ありません。生きた如来様がご絵像と一つになって我共をみそなわしていてくださいます。聖者より拝受された三昧仏様を仰いで篤と申された。
その後、横浜市内二ヶ所で法話をされました。
6月13日(成仏寺) 三性(天性・理性・霊性)に就て
6月23日(信業社) 進徳の祈願に就て
(2)御長子笹本浄光上人の話された「父の思い出」
昭和12年9月12日 慶運寺本堂にて四十九日法要のあと、午後6時より横浜光明会主催の追悼会の席で次の様なお話をされました。
①父は7月18日の施餓鬼を済ませ、19日京都古知谷別時(20日より21日まで)に参加して、26日夕方に帰宅し、入浴、夕食をすまして就床しました。夜中異様のいびき声がしたので駆けつけた既に脈は止まっておった。
②父は平素より死んだら骨をそこらの庭にばらまくように申しておりました。
③聖者は8年間慶運寺に随時立ち寄られましたが、都度とても大事にお持て成しをしました。母は台所でお食事の用意などに専念し、聖者にお逢いする機会は少なかった。聖者は少食であらせられ、市内風月堂の銀紙包みの菓子を好まれた。お召し物一式供養し、脱いで行かれたものは父が着させていただきました。
浄光上人は将来を嘱望されましたが、昭和15年応召され、昭和18年5月19日ニューブリテン島ラバウルの野戦病院で戦病死され、痛恨の極みであります。行年三十三歳。謹んでご冥福を祈念いたします。慶運寺法燈はご四男の第三十九世心華上人により護持されております。合掌
父が亡くなった日のこと

笹本 心華

昭和12年7月26日の様子を、母から聞いていた事と私の記憶で申し上げます。

(古知谷へ出発前、掛かり付けの先生に血圧を測っていただきました。210あって危ないですと云われましたが、布教に行って倒れるのは本望でございますと父が云ったので、先生は返す言葉がなかったと申されました。)

26日夕方帰ってきて、京都は暑くて重箱の中に入れられたようだったと云って居りました。入浴をすませて家中そろって夕食をすませ、ベランダで涼みました。聖者のお伝記が出来たのは田中先生のお骨折りのおかげ・・・と兄に云って居りました。その後就床し、母は廊下に居りましたが部屋の中からものすごい音がして思わず天上を見上げました。もう一度ものすごい音がして、いびきのようになったので部屋の中へ入りますと(仰向けに寝て手にじゅずを持って居りました)息は引き取っていました。掛かり付けの先生がすぐに来られましたが、何もする事はなかったとの事です。兄は離れにいて母に呼ばれて駆けつけました。

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