光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成19年9月

光明園7月例会

植西 武子

◇日時 7月15日(日) 10時~15時15分
◇場所 光明園
◇内容 念仏と法話の会
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 10数名

この日は生憎の悪天候となりました。九州地方で猛威をふるった台風4号が関東方面へ接近するとの予報があり、早朝から激しい風雨に見舞われた。

行こうか止めようかと迷いつつ光明園に電話を入れると積極的に実施するとは言えないが来られた方があれば行いますとのこと。途中で電車が止まる可能性もあり、残念ながら断念しました。後日お上人様よりご法話の概要を頂きました。

ご法話

関東では7月15日はお盆で、法話の内容もお盆が中心になりました。なお、正確には盂蘭盆はサンスクリット語からの誤訳で、むしろインドに隣接する東イランの先祖祭ウルバーンから由来していると言った説が紹介されたりもしました。
お盆には浄土宗でも禅宗等でも「唯心偈」(破地獄の偈)が唱えられ、それは「華厳経」所蔵のもので

若人欲了知 三世一切仏
応観法界性 一切唯心造

(もし人、三世一切の仏を知せんと欲せば、まさに法界の性は一切唯心の造るところと観ずべし)の偈を三回唱えることになっています。ここで、「一切唯心造」が肝心で、地獄も極楽も、実は私たちの心から造られているとの説でこれによって弁栄聖者も「一心十界」「一念三千」等の内容も展開されました。

それはあたかも夢の中の世界が、夢を見ている人にとって事実そのものであるように見えて、実はその世界が夢を見ている人の心そのものの内容であるようなものです。

その心を追求したのが「法総唯識」で説く阿頼耶識のことで、それについて説明がなされました。それは私たちの心そのものでそれに気づかない根本識で、ちょうど夢を見ている人がその夢を見ている心に気づいていないようなものです。それが夢であることに気づくとき、そのこころは夢の世界から解放されてゆくことになります。
古来、「意識睡りて一夜の夢を見、アラヤ眠りて生死の夢をみる」と説明されたりもして来ました。

しかしながら、「唯心偈(破地獄の偈)」にもまして「南無阿弥陀仏」こそが何よりも地獄から解放されて真理に目覚めてゆく実践そのものに他なりません。

なお、間もなく弁栄聖者の「無辺光」が刊行されるとの由ですが、これは唯識を超えた絶対の世界から逆に唯識を根拠づけてゆくすばらしいご本である旨等も説かれました。

茶話会

悪天候の中、10名の方が出席されたそうでした。お上人様のお話によりますと、少人数で終日落ちついた雰囲気の念仏であったそうです。茶話会も興味深い積極的な質疑応答がなされたそうです。

結果的に台風は10時頃までにあっけなく去り、正午頃には薄日が射すほどのお天気となりました。こんなに早く回復するのなら参加すべきだったと悔やまれました。光明園の例会は8月はお休み、9月は千葉の大厳寺様のお別時tp合流のため、今月を入れて3ヶ月間のご無沙汰となってしまいました。遠方という理由で、交通機関のストップを懸念して、取り止めた自分を責めることしきりでした。参加された10名の方々の熱意に敬服いたしました。

東京光明7月例会

植西 武子

6月28日(土)13時~16時、一行院で。導師は八木季生上人、参加者12名。

新橋駅の改札を出ると灼熱の太陽が広場一面に照り輝き、盛夏到来を否応なしに実感し、モグラの如くひたすら地下鉄三田線の穴を目指してもぐり込みました。

一行院に着きますと本堂から木魚の音が響いて来ました。急いで本堂に入りますと冷房がきいた椅子席で皆さんが真剣にお念仏をされておりました。非常に恵まれた環境設定に「もったいない」「ありがたい」の感謝の気持ちでお念仏させて頂きました。お念仏、礼拝儀の後、「清浄光」を歌ってご法話となりました。

ご法話

今月は「弁栄上人の片影」のNo.101からNo.125までについてお話がありました。項目数は非常に多いのですが、大部分の項目は短いお話が中心となっています。

霊性を失うな(No.102)
上人いわく「信仰の進んでいる人は死後、地獄の火に焼かれる心配をするよりも得られるべき永遠の生命を失わないようにすることが大切だ。このことを非常に恐れ、悲しく思うのである」
生ける間必要な念仏(No.103)
又、上人いわく「人の一生は八十年、生きている間は食物を必要とするように、心の種である念仏もまた生存中にこそ必需必要である。」
◇「塔婆世界でのみ我々は念仏ができる。貴重な日々を無駄に過ごすことなく念仏精進すべきである」と八木上人は付言されました。
此の世が五月蝿くて(No.105)
八十を過ぎた一人の老婆がある日、「まことにこの世は煩しくて困る。どうすればよろしいか」と上人に質問すると、上人答えて「この世煩わしく思うのも皆お慈悲である。大ミオヤは如何にして更に聖きみくにを仰慕せしめんとの思し召しである、お迎えの準備をさせて下さっていると感謝すべきである。」
老婆は更に、「日常の生活も面倒で、洗濯の手伝い等も煩わしく、出来れば一切から開放されて念仏にできればと願うものであるが・・・」と言えば、上人答えて、「否、念仏を申しながら洗濯すれば洗濯、即ち念珠なり、木魚なり。大ミオヤは聖名をもって心を洗濯して下さる」。又、重ねていわく、「身体は休息していても体中はいつも活動しているのである。胃袋も血管も休止せず働いているのは如来の霊力に他ならない。生かされているこの身を殺し置くことは実に済まないことである。」
◇八木上人は内容的によく似た法然上人のことばを紹介して下さいました。「たとえば余事を営むとも 念仏を申しこれをなす思いをなせ 余事をしつつ念仏すとは思うべからず。」
入棺念仏(No.110)
聖者は明治32、3年頃、自坊の善光寺に院代をしていた弟子の心如に手紙を送り、それには「近々弁栄に他界するのでそのための棺を準備してくれ」と形、寸法まで記してあった。心如は非常に当惑したが師命のままに準備してご帰院を待った。帰院された聖者は棺中に端座して時の移るのも忘れて至心念仏をされた。その間御便用と小食のみに僅かな時間をさく以外は念仏専心。時あたかも極寒殊に新開地の五香の寒気は骨身にしみた。昼夜を分かたぬ念仏の声は周りの人の肺腑に堪えた。あまりのいたわしさに心如が火鉢を用意すると聖者は感謝しつつも「死者に火鉢は必要なし」と辞された言う。心如は仕方なく涙して引き下がったと言う。
人生の目的(No.112)
人生の最大の目的は吾が霊性を発揮することにある。知識と道徳と能力の発展である。人生は短くて一瞬に過ぎ去る。この瞬間に永遠不朽の大業を成し遂げるのである。長寿者とは年数に関係なくよく人生を覚った人にことを言う。
人は働くために生まれてきたのである。人生を全うするとは人の為になることだけではなく、人間としての義務をよく果たすと言うことである。人生を安泰たらしめるものはその人の行動の正否による。さらに義務をつくせば一種の愉快感を味わう。人生に真意義を与えるものは精力主義奮闘精励実行である。自殺は人生の強盗である。
※八木上人は「精力主義奮闘精励実行は一瞬間に大きな仕事をなされた弁栄聖者の生き方そのものである」と話されました。
音響忍(No.115)
菩薩の悟道の一つに音響忍と言うものがある。すべての物事を音が響くように悟了するものである。音響はどこからともなく生じ来て、いずこに滅し去る。
万法何れも音が響く如しである。声といってもある因縁によって生じ、またどこかに消えてしまうものである。松風の音、蛙の鳴き声についても考察しなさい。貧、怒のようなものもまた、声や響きのようなものである。
※八木上人は音響忍について説明下さいました。
[三法忍]
①音響忍・・・音を聞いて真理を悟る。
②柔順忍・・・心柔軟にして道理をわきまえる。
③無生法忍・・・悟りの最高の境地を言われている。

茶話会

今月は最前列のいつもの席に川村昌一氏のお姿がなく淋しく思いました。多分厳しい暑さのためにお宅でお念仏されていることと思います。

いつもより参加者がやや少なかったが、男性の方が6名参加されて積極的に発言され、ご法話についての質問もありました。お上人様から仏典に関してのお勉強も必要であるが、おくまでお念仏を行いながらが大切であるとアドバイスを頂きました。会の終わりに親子別時と唐沢山別時へのご参加をお願いしました。

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