光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成20年1月

光明園 11月例会

植西 武子

11月18日(日) 光明園で「念仏と法話の会」 維那は河波定昌上人。参加者30名。

この日私は長野での「弁栄聖者ご祥当念仏会とリンゴ狩り」に参加しましたので、田代悦子さんからの聞き書きです。

今月は仏教塾の新期生の方々が14~15名参加されました。初めての方が多かったので、ご法話もその方たちを中心にお念仏の大切さについて詳しく分かり易くお話されました。詳細は、これから河波上人が「ひかり誌」に掲載されるお話の中に含めてお書き下さいます。

※茶話会も和気あいあいとした雰囲気でした。毎年、新しい方が加わられ、1人でも多くの方がお念仏とのご縁を結ばれることはすばらしいことと思います。来月皆さんとお会いできるのがとても楽しみです。

一行三昧の会

11月27日(火) 光明園で「一行三昧の会」。維那は金田昭教上人。参加者13名。

金田昭教上人が中心となって10月より再開した「一行三昧の会」は今月で2度目です。関東支部もこの会に協力することになっていましたが、役員の方が何人か都合がつかず、参加者はやや少ないようでした。しかしとても嬉しいことがありました。下関市の判野悦子さんが埼玉に嫁いでおられる娘さんと3歳のお孫さんを伴って参加されました。また、健康上の理由でしばらくお顔を見なかった金子実さんが元気な姿をお見せ下さいました。

お念仏はとても落ち着いた雰囲気で始まりました。金田上人のボリュームたっぷりの美声に乗せられて、全員真剣にお念仏をしました。お母さんのバイに手を添えて一緒にお念仏する子供さんの姿はとても可愛いかった。お念仏が大好きだそうです。その内にお眠になって、お念仏の合唱を聞きながら夢の国へと素晴らしいひとときです。幼児期からお念仏に触れる機会があることはなによりです。21世紀後半の有望な後継者の一人として健やかに育って下さることを至心に念じました。

午後のお念仏の中頃に聖歌「心田田植歌」を歌いました。最近は別時で木叉上人のお歌を歌う機会が少ないので、心をこめて歌いました。金田上人は色々と配慮して会を進めて下さいます。
やがて河波上人がご執務よりお戻りになり、会に参加下さいました。後半のお念仏は一段と深まったようでした。やはり1時間、2時間と時間をかけてゆったりとした気分でお念仏することが大事だと実感しました。河波上人は大変お忙しい中を急いでお帰り下さいました。会の終わりにご挨拶下さいました。来月は木叉上人のご命日に当たる12月12日(水)に「一行三昧の会」が予定されています。

※奥さんがご準備下さったお菓子を囲んで楽しく歓談しました。個々に会話が弾み、こころ温まるひと時でした。参加者は満ち足りた気持ちで光明園を後にしました。
金田上人大変お疲れ様でした。有難うございました。

東京光明会 11月例会

植西 武子

11月24日(土) 一行院で。導師は八木季生上人。参加者14名。

一行院の本堂前に植えられた一対の枝垂れ桜は春には花が爛漫と咲き誇り、秋には枝が錦の衣に包まれます。この日はその紅葉もやや盛りを過ぎておりました。

本堂に入りますと既に「晨朝の礼拝」が始まっていました。その後、約1時間のお念仏をして聖歌「報身の讃」を歌い、ご法話を拝聴しました。

ご法話

10月の例会が教学布教研修会に合流した形となりましたので、「弁栄上人の片影」の本は久しぶりといった感じがしました。

「元政法師の言葉」(No.135)

元政法師の言によると「草子を折るのもこれ修行の一つであり、戸の開け閉めも音を立てないようにするのは外見上、よいためでなく心を修めるためである。日常茶飯事どんなことも修行にならないことはない。そんp正否を論ずるのは根本ができていないからである。」とあるが「これは念仏行者として如何なものでしょうか」とある人が弁栄聖者に尋ねた。
聖者は「念仏行者を比べる時、その人が心から弥陀と同化しておれば例え口に称名しなくても一切の所作(身口意の三業の事)は全て念仏にならないものはない。その三業が弥陀の聖意の現れであるのでむしろ立派な仏行である。念仏といえば口に称えるばかりでなく、如法の心よりする業は仏を自分の業に現すことであるので、口で称える以上の念仏である。今までの念仏行者は口称ばかりを重視して身に仏業を敢えてしないのは発展の程度が低いからである」と答えられた。(作業仏業)

八木上人は徳本行者のお話をされました。徳本行者が東漸寺の住職を訪ねた時、ある人から日課念仏について質問を受けた。毎日何回念仏するかとの問いに即座に答えて「いちいち数えてはいない。声に出して念仏しなければならないことはなく、日々の生活の中で全てが念仏である」(脈拍の念仏)

「三日間念仏を休んで」(No.136)

昔、江戸に熱心な念仏行者がいて、世事を捨て終日、聖で念仏三昧に耽っていた。人々はその行者を生き如来様だと言って長年にわたって仰信した。
しかし晩年になり病の床についたが看護する妻子もなく、近所の人々が順々に世話をした。余命幾ばくも無くなったある日、近所の人が行者に「何事でも遠慮なく叶えて欲しいことを申されよ」と言うと「いや、今は別に何もありません。ただ一つ、長年念仏をしてきたのでもはや飽きてしまった。願わくば二、三日念仏を休みたい。それだけです」と答えた。弁栄聖者曰く「そんな念仏が駄目である」。

「意念業を本と為す」(No.137)

弁栄聖者曰く、「仏教は意業(心の持ち方)を以て本とす。念仏も従来、ただ口ばかりに偏重しているのは、未だ宗教意識が低いからである」

「免囚保護と少年教会」(No.138)

ある日某氏が来て、雑談中に免囚保護会設置の必要性を説いた。それを聞いた弁栄聖者はおもむろに「それは誠に結構なことであるが、免囚を保護することは後であって、はじめから免囚をつくらない様に教えた方が良い。それには少年教会の設置が急務である」と言われた。

「如来は尽くせる力の多少に看給う」(No.140)

さる僻地の住職は長年にわたって地方伝道に尽力してきたが、その効果のあまりにも微々たることに嫌気がさして、その地を捨てて他に移ろうと迷っていた。それを漏れ聞いた弁栄聖者は励まそうとその住職に次の話をされた。

あるところに二人のキリスト教の伝道師がいた。甲は都市に派遣されて十年、百人の信者を得た。乙は僻地に赴任して同じく十年留まり、一人の信者を得たのみであった。果たしてこの二人の功勲はどちらにあると思うか?
弁栄聖者は「キリスト教の意はむしろ後者を義とせり」と言われ、さらに付言された。甲が派遣された所はもともと信者が定着していた土地でむしろ幸運であったが、乙は人心荒廃する蛮地で心田開発に苦心惨憺の結果一人の信者を得た。その数の比較はさておき、布教のために努力した腐心の軽重からいえば乙の方がすぐれていると言えよう。神は世間の考えと異なって、その人が捧げた努力の多少を看られるのである。いわゆる縁の下の力持ちと言って、陰徳こそ宗教上の秘義である。あなたも縁があってその地に行かれたのであるから、数学的なものにとらわれずたとえ一人でも自分の全力をつくして邁進されてはどうか。

これを聞いたその住職は全てを理解して聖者にひれ伏し、喜び勇んで退去されたという。

「上人の進化論」(No.143)

(当時の社会的背景として、人類の起源についてはキリスト教ではエデンの園のアダムとイブの話や仏教でも法華教嬰児の比喩のような退化的考察は時代の科学に抵触して相互に応酬する状況にあった。とくにアメリカの教会ではダーウィンの進化論と衝突し波乱を巻き起こしていたと報じられていた)

進化論と光明主義の関係について質問された弁栄聖者は「昔は鶏から卵が生まれたと言っていたが、最近の学説では卵から鶏と言っている」と前置きして・・・。
地球がまだ高等動物を保有する状況が整っていない時は、アメーバのような極小動物が発生すに止まっていた。しかしアメーバにも法身より受けた伏能があって、外縁の状況と共に進化発展して遂に人類となり、その人類もまた原始不完全な状態から次第に完全に進化してきた。
動物進化の目的を宗教上の立場から言えば生理機能、即ち肉体は手段であって精神の方に永遠不滅なる目的を獲得することになるのである。動物に天性が具わり、本能的衝動を感じ、人類に至って理性と霊性を開発する可能性が具わっている。教育(科学)は理性を開発して物事の是非を判断するものであり、宗教はその奥底に霊性を開発して人類最終の目的である神と一致せしめんとするものである。

(八木上人は念仏は進化の先取りと言える。しかも万人にとって最も可能な方法である。人類の最終目標に向かって真剣にお念仏に励むようにと結ばれました。

茶話会

今年も中野浩子さんからお菓子のご供養がありました。中野さんはご高齢でご自身がお参りにこられなくなっても、心は共にあり、ご自宅でお念仏をされています。尊いお心遣いに感謝して有難く頂きました。

初めに、過日有楽町の読売ホールで行われた「法然セミナー」が話題となりました。八木上人がお話をされ、東京光明会から数名の方が参加されました。その後、個々に質問したり、歓談したりで楽しいひとときを過ごしました。

最後に新年会の日を確認しました。挨拶をして玄関を出ますと時計は既に4時を示し、日は西の空を真っ赤に染めていました。

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