光明園 3月例会
植西 武子
念仏と法話の会
3月23日(日)10時~16時、導師は河波定昌上人、参加者38名。
この日はお彼岸の最終日、春爛漫の好天気に恵まれ東海道沿線の各駅は行楽客で賑わっていました。お昼少し前に光明園に着きますと、下駄箱はぎっしりと靴で満たされていました。参加者が多いととても嬉しく思います。
午前中はお念仏と仏教塾の方を対象にお話と質疑応答があったそうです。今期の仏教塾生は17名(うち女性3名)で非常に熱心に意欲的に取り組んでおられます。私たちが刺激されること多々あります。このたび光明園に経机七個を寄贈下さいました。一緒に励まし合って修行させて頂ける機会を大切にしたいと思います。午後は礼拝儀、お念仏、ご法話の順に進行しました。
ご法話
《今月は『念仏信仰の三要素』についてお話がありました》
※その三つの要素とは (1)信、(2)三昧、(3)生活である。
(1)信・・・難思光 五根五力
(2)三昧・・・無称光 七覚支
(3)生活・・・超日月光 行為の充実
念仏は「信」を大前提として成り立つ。その大安心の中で念仏することが何より大切である。竜樹菩薩も「仏法の大海には信を以て能入とす」(大智度論」という有名な言葉を残されている。
浄土真宗では(1)「信」に重きを置き、むしろ「信」に偏るといわれているほどである。『唯信鈔』(法然の弟子、聖覚の著)を重視し、親鸞も「唯信鈔文意」なる本を著して門徒一般にこれを勧めたといわれている。
浄土真宗のように「信」に徹することは大切であるが、それのみに偏ってはならない。一旦信じさえすれば、行じなくてもよいというものではない。法然上人はこの点について 「行は一念十念なおむなしからずと信じて無問に修すべし」(一紙小消息)と述べておられる。即ち、信じて絶え間なく行じる(念仏する)ことが肝要である。
光明会では(2)三昧に偏りがちな傾向にある。(3)生活での実践を重視した共生会の椎尾弁栄匡師は、三昧に偏る光明会をよく批判されたという。三昧の前に信が重要で信の徹底を離れて念仏はない。
名月や 座頭の妻の 泣く夜かな
この句を詠んだ江戸時代の盲目の学者、塙保巳一は心眼で名月を眺めることができたのである。来日した三重苦のヘレン・ケラーは彼を心の師と仰ぎ、深く理解、感銘を受けたという。
「信」が深まればやがて「智慧」と変わっていく。(以信代智)
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる
この歌はまだ秋を経験しない夏の時期に詠まれたものである。肉眼で把握できなくても信じることによってその世界が拓かれていくのである。念仏もかくの如く、「信」を大前提として行じることが大切である。
- 信仰の三要素に関してはヨーロッパでも同様なことが言える。プロテスタントは「信」を非常に重視したが、祈りがない。K・バルトは浄土真宗の「信」に触れて非常に感激したといわれている。それに対してカトリックの修道院では、「祈り」が中心であった。F・ハイラーは、『祈り」という大著を書いている。この「祈り」は後に「神秘主義」へと発展していくのである。最初(4世紀後半以降)ヨーロッパを席巻しつつあったゲルマン民族がやがてキリスト教と会い、自らの「祈り」の信仰とキリスト教の教義との結合によって神秘主義を生み出すに至った。
- 禅の実践者であった西田幾多郎は晩年になってプロテスタントの影響をも受けて「絶対矛盾的自己同一」なる表現をした。この「同一」は汎神論に通じるものとして田辺元は批判している。
- 河波上人は最後に「信」を前提として「三昧」が深まり、念仏が深まると「生活」に及ぶ。この三点が対立することなく、バランス良く保たれる中で真の中道の実践が成立すると結ばれました。
- お彼岸中でしたので、ご法話の後にご回向がありました。まず河波上人は橋爪勇哲上人のご回向をされ、引き続き各人からのご回向をあげて下さいました。私事ながら、50年前の3月23日、ロシア大使になることを夢見て大坂外大受験の朝、交通事故で果てた弟の50回忌、今日がその祥月命日に当たり、この巡り合わせに感謝して感慨深く回向させて頂きました。南無阿弥陀仏
茶話会
一階の階段を上がった所でシンビジウムが窓越しの陽の光を受けて立派な花を咲かせています。光明園の落成記念に頂かれたものだそうです。今年は特に良く咲いたそうです。奥様が丹念に水をやりお世話された結果です。植物は物を言わないが愛情を持って世話をするとそれに応えてくれるといいます。その花を愛でつつ歓談しました。
向こうの部屋からは仏教塾の方達が楽しそうに団欒されている声が聞こえます。こちらの部屋は人数的にはこじんまりとしていましたが、教義について熱心な討議が展開されていました。みなさんとても熱心に、しかもよく勉強されているので感心するばかりです。もっと仏典に親しみ、真剣にお念仏をしなければと檄を飛ばされた思いで聞いていました。今回も心に大きなおみやげを頂いて家路につきました。
3月28日(金)10時~16時、導師は金田昭数上人、参加者8名。
少人数でこじんまりとし落ち着いた雰囲気でお念仏することができました。各自は金田上人の声量豊かなお念仏に誘われて、称名念仏に努めました。また、河波上人がお話し下さった「信」に的をしぼって至心不断に念じました。心の集中、統一はなかなかできるものではありませんが、お念仏の後のさわやかな気分は何物にも代えることが出来ません。
田代悦子さんが持ってきて下さった和菓子と、奥様がご準備下さったお煎餅をおいしく頂きながら楽しく歓談しました。話が弾んで気が付けば時刻は既に4時を過ぎていました。急いで後片づけをして帰路につきました。
大勢でするお念仏、少人数でするお念仏、それぞれに良さがあります。毎月この両方の機会があることはとても有難いことです。
東京光明会 3月例会
植西 武子
3月29日(土)13時~16時 一行院で。
講師は八木季生上人、参加者13名。
桜前線は北上を続け、東京方面は桜花爛漫の行楽日和に恵まれました。昼前に一行院から近い六義園の枝垂れ桜を観賞して、一行院の枝垂れ桜も見事なので期待して門を潜りましたが、まだ蕾の状態で少し遅れているようでした。桜の前で集合写真を予定していましたが、残念でした。
少し遅れて本堂に入りますと皆さん礼拝儀をあげておられる最中でした。その後お念仏を少しして聖歌「歓喜光」を歌い、ご法話を拝聴しました。
ご法話
今月は「弁栄聖者の片影」のNo.159~169についてご法話がありました。
- 「吾人は俳優」(No.159)
- 聖者曰く、「社会は如来の展開される一つの劇場であって、われわれ全ては俳優のようなものである。貴賤、貧富、老若、男女、それぞれ異なり、多種多様であっても、一度劇場の幕が降りれば(死の幕)、登場人物全員は楽屋に引き上げ、化粧を落として衣装を脱げば同じ谷川の水に帰する。これ南枝一場の夢である。しかしながら夢でもっても人生を終わらせてはならない。聖典には此の世一日の修業(演舞)はあの世の百年のそれに勝ると書かれている。凡人はただ人生の表舞台面だけを見て悠久の楽屋を知らないが故に、一時の現象に喜怒哀楽を呈し、夢の浮き世は太く短くあれば良いなどと思っているが、如来常恒にこの両面をご覧になっていて、子等の帰りを厳かにお待ちになっている。しかも一時的な俳優であるため、いつも同じ役柄を演じるとは限らない。演劇の内容によって一流の千両役者が身分卑しき役柄を演じ、駆け出しの役者が高位顕職を演じることがある。しかし演劇の幕が降りて、楽屋に帰ると、高位顕職を演じた役者ではなく、身分卑しき役を演じた千両役者に千金の報酬が与えられる。それはその役者が身分卑しき役に成り切った技能に対する聴衆の喝采を得たことへの報酬である。人生もかくの如しである。如来よし指命された一俳優としてこの劇場で各自の職責に向かって最善の努力をすべきである」
※この地のおける一日一夜は彼の地における百年に相当する。一日一日が非常に貴重である。我々が生を受ける前は顕微鏡で見えるか見えないかの小さい存在であった。それが母の胎内で10ヶ月を経て3000グラムくらいまでに成長して生まれる。胎内の10ヶ月とこの世の10ヶ月では進化の度合いが異なる。その逆に如来の胎内の日数と自然界の日数は異なる。
- 法施(No.162)
- さるところで人々が集まって教会堂の建設について相談していた。その建設費の内いくらかを上人にご援助して頂きたいと末弟を介して懇願があった。上人はこの願いをお許しになった。しかし工事半ばにして不足が生じ、更にいくらかの追加を再び末弟を通して申し出た。上人は「会堂の建設について最初の分は都合したが、もともと全て如来に捧げた身でありどこに御奉公するのも同じであるがそれには限りがある。実際のことを言えば、宗教家は法を施し、在家はそれに報いるために財をもってするものである。それを一々この老いたる弁栄を煩わすのはかえって禍となり、如来の冥助にも漏れて彼等自身の功徳を損い、罪業を増やすことになる。在家の者はこのことを知らないので弁栄に代わってよく教え、説いてやるように」と末弟に申された。
- 「上人の財物観」(No.164)
- 上人曰く、「光明主義は一切たとえ幾千万人であっても、同じ如来の子としての同胞であるので、財物等も誰彼のものではなく、皆如来の物として道を伝える者に資すべきものである。わずかではあるが、弁栄の所有不動産等も暫く名義は弁栄のものとなっているが、実際は光明主義のもので皆々方もそのつもりで伝道者のために用いるべきと思って頂きたい。-中略-
本より弁栄はこの身さえも自分のものではなく、全て如来に献げたものである。まして所有物に私物があるはずが無く、もり仮に弁栄の名義となっていてもそれは暫く借りたものである。皆様方もこの弁栄の意志を理解して如来の聖意に使われるようお勧めする次第である」 - 「解脱偏重は幸福主義たるを免れず」(No.168)
- 上人曰く、ただ解脱だけを求めてそれに安んじている者は未だに幸福主義の域を脱していない。これより進んで如来の目的に沿った活動をするための天職を果たすことを怠ってはならない。無上道心を発せずして、彼の国の愛楽無間であることを聞いて、自分の楽のためだけに彼の国に生まれんと願っていては往生は得ることができない。
- 「意志の信仰」(No.169)
- 上人曰く「意志の信仰を菩提心と言う。これは実行信仰であって不断光に霊化されて阿弥の聖意を実現して活動する行動のことである」既に心情の信仰において阿弥の真我に中に安立し平和で安静な自己の霊福を内面に感じることがあっても、更に進んで神聖主義に、また恩寵により霊化した意志として実行するに至らなければ、未だ真の聖意に協力したものと言ってはならない。この霊化菩提心とはこの阿弥の目的にかなって活動するという意志のことである。
※聖意とは如来様の御意志のことである。聖意を理解し、それを自分の信仰の中で生かし、実現していくことが仏教徒の役目である。
現代の世相を見ると善悪の基準がないかに思われる。自分の意志に合うか合わないで決めていく傾向があるように思われる。自分の意志に合うか合わないかで決めていく傾向があるように思われる。「善」とは聖意に従うもの、それに反するものは「悪」である。理性では善悪の判断はできない。理性の根底は煩悩(貪り、怒り、愚痴)である。宗教心が欠如していては善悪の判断ができない。如来の意志は大自然の意志でもある。大自然の一部である我々人間と阿弥陀仏とを繋げる配線作業が必要である。現代の世直しにはこの配線作業が大切である。配線作業とは念仏することに他ならない。
茶話会
今月は都合のつかない人が多く、参加者が少なくてやや淋しく感じました。いつもご法話の後、甲斐々々しく机を片づけられる河村さんのお姿も見えないのでどうされたのかと思いました。毎回のことながら会場の設定や茶菓に準備は大変です。お菓子一つを選ぶにも手間がかかることと思います。申し訳なく思いながら席に着きました。ご労苦に感謝しつつ茶菓を頂きました。個々に歓談をして4時前に散会しました。外へ出ますと、ぼけの花が色鮮やかに見事に咲いていました。すっかり春の陽気に包まれた一行院の庭をしばし眺め、帰路につきました。