光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成20年8月

第6回仏教勉強会

植西 武子

光明園6月例会は関東支部の年間行事の一つである仏教勉強回と兼ねて実施された。

◇日時  平成20年6月22日(日) 10時30分~15時30分
◇講師  河波定昌上人
◇テーマ 「光明主義と西洋文明」
◇参加者は44名。

田代直秀支部長の司会で定刻の10時30分に開会した。日程は午前と午後に講話があり、その後で提出されていた質問に解答して頂く予定であったが、河波上人は最初に少しご講話をし、その後関連した質問を適宜とり入れて解答する形で進められた。

ご講話

光明主義と西洋文明
  • 光明主義とは法然上人の流れを汲みながら、時代の進化に従った新しい立場で仏教を説かれたものである。換言すれば伝統仏教に新しく流入した西洋文明をも取り入れ、時代に即応した形で仏教を説かれたのである。
  • 仏教と西洋文明との関係について三つの立場が存在していた。
    • 一つは西洋文化(とくにキリスト教)を排除しようとする立場…その例として東洋大学創設者 井上円了氏。
    • 二つはキリスト教に関して無関心、無関係の立場…その例として大正大、仏教大(とくに浄土学)
    • 三つは西洋文化(キリスト教)を全面的に受け入れようとする立場…その例として弁栄上人はその主たる存在である。

      弁栄聖者は宇宙を体系的に捉えようとされた。聖者は西洋で発達したキリスト教も外かた入ってきたものではなく、阿弥陀の心が西洋で展開されていたと解釈された。東洋思想と西洋思想が弁栄上人によって初めて融合したと云えるのである。

  • 弁栄聖者と西洋思想の関わり
    • 一つは「科学思想」の側面から…当時は西洋諸国からめざましく進歩した科学思想が流入した。
    • 二つは「哲学」の側面から。
    • 三つは「宗教学」の側面から…19世紀後半にヨーロッパでは「宗教科学(science
      of religion)なる学問が誕生した。1904年に日本にも導入され、東京大学で初めて「宗教学の講座」が設置された。担当教授は柿崎正治氏で、椎尾弁匡上人は最初の学生であった。
    • 四つはキリスト教の面から。

      ※この四つの側面についての具体的な内容として、参加者から前もって提出されていた質問を選んでお話を展開された。田代支部長が質問をまとめてプリントして、当日全員に配布された。7名の方から13点についての質問があった。質疑応答については後日、河波上人が「ひかり誌」に別稿で紹介される。7名の方から寄せられた多岐にわたる質問から、如何に皆さんが良く勉強し、日々の修行に実践を積み重ねておられるかを伺い知ることができた。

茶話会

熱心にメモを取りながらご講話を拝聴した緊張の後で茶菓を頂きながら歓談した。個々に歓談が始まった頃、司会者は感想を聞くため5名の方を指名された。
初参加の方、遠方から参加の方、光明園の会員、仏教塾の代表、古くからの立場の方…など、それぞれの中から選ばれたそうである。
田代夫人がご準備下さったお菓子を頂きながら、それぞれのお話を傾聴しました。みんなの顔がほころび、とても和やかな雰囲気でした。

雑感

参加者について

往復ハガキで70名に案内状を発送し、44名の参加申し込みがあったとのこと。6回目となる勉強会で最高の参加人数で、会場は襖を取り払うほどの満席となった。初参加の方が5名おられた。また、遠路九州から菅野真慧さんが東京近郊の友人を誘って参加下さった。真摯で熱心な態度にいつもながら感服するばかりである。さらに仏教塾の方々の参加が本勉強会を一層意義深いものにしてくれた。とくに今期生13名の方々は平素から非常に熱心で一致団結して勉強や修行に取り組んでおられる。今回も様々な視点からの質問が出された。参加者は刺激され鼓舞されること多大であったと思う。

ご講話について

私事ながら光明主義の教えに触れて早半世紀が経った。21歳で受けた感激は今も脳裏に鮮やかに甦ってくる。多くの素晴らしいお上人様のお話は心の糧となってお育て頂いた。
一方この50年間に外的環境は著しく変化した。とくに科学技術の進歩は止まるところがないように思われる。しかしこの科学万能の風潮も陰りが見えてきたのも事実である。昨今この科学の対極にあると考えられがちな宗教の存在がクローズアップされている。
河波上人はまさにその時流に合った視点からお話を展開された。かねてよりお上人は「21世紀は科学と宗教がドッキングする時代」と言っておられる。弁栄聖者の光明主義を西洋文明、とくに科学、哲学、キリスト教の視点から説いて下さり、これからの若い世代に宗教の必要性を説く上で、非常に重要な内容のお話であった。
余生幾ばくもない我々にとって、若者がこの機会にめぐり合う場を如何にセッティングするかが課題と思った。大きな宿題を課せられた思いでお話を拝聴していた。

質疑応答について

今回は午後の質疑で少し時間の余裕ができたので、司会の田代氏はFree Questionの時間を設けられた。するとかなりの方から質問が出された。さらに良かったと思う点は従来の質疑応答は1対1のワンチャンスで終わっていたが、午後の後半ではお上人様の解答に対してさらに質問をする方があり、それによって一層理解が深まったり、復習になった点が多くあった。
とくに印象に残った点として、「仏教共生主義(椎尾弁匡師)の立場から光明主義への批判があるのは何故か」という質問があった。これに対して河波上人は『確かに一般的な傾向として、浄土真宗は「信」(難思光)を重視し、光明会は「三昧」(無称光)を重視し、共生会は「生活」(超日月光)を重視する感がある。しかしながら光明主義はどこまでも念仏三昧を高揚しつつも、信・三昧・念仏の三者の偏らぬ中道的実践が大切である』と話された。これは日頃から折りに触れ感じていることで、光明会も組織を維持することで精一杯の現状ながら、実生活に根ざした活動や社会に向けての発信がより求められており、そうあらねばならないと思った。

※今回も田代支部長の綿密な計画の下に実施された。そのため予定通りに会は進行し、参加された方々に充実した時間を過ごしていただけたのではないかと思う。ただ内容的に初参加の方には理解しかねる点も多々あったと思われる。また、観念に走り過ぎとの感想を持たれた方もおられたと思う。しかし今回はあくまでも勉強会であったので、勿論、修行の両輪である「お念仏」は各自でしっかり励んでいかなければならないと思う。
非常にお忙しい中をご指導下さった河波上人様に心より感謝申し上げます。
また、ご参加下さった皆様方大変ご苦労様でした。

光明園・一行三昧の会

植西 武子

6月27日(金)10時~16時、導師は金田昭教上人、参加者6名。

いつもながら金田昭教上人が率先して大きな声で称名念仏されるのに導かれて、少人数ながらも皆一心にお念仏をしました。聖歌は「光明歌集」を中心に歌いました。

どこでも最近あまり歌集が活用されていないように思います。木叉上人を偲びながら歌いました。渡辺雅之前支部長が久しぶりに午後から参加され、大分お元気になられたようで嬉しく思いました。数十年前からの唐沢山の写真をたくさん持ってこられ、若かりし日の先輩諸氏のお姿に往時を懐かしみながら拝見しました。

大勢でするお念仏、こじんまりとした雰囲気のお念仏、それぞれの良さを月に2回経験できる幸せを感謝しつつ帰路につきました。

東京光明会6月例会

植西 武子

6月28日(土)13時~16時 一行院で。
導師は八木季生上人、参加者17名。

先月は「法のつどい」に参加して、一行院様の例会に出席できなかったため、2ヶ月ぶりの訪問となりました。庭はすっかり夏模様、新緑から深緑へと衣替えをしていました。

受付で奥様と世話係の本郷さんにご挨拶しますと、隣室に故河野恒雄氏のご家族から、氏が生前から所有されていた掛軸や仏画が展示してあるとお聞きして、早速拝見してから本堂へと急ぎました。すでにお念仏が始まっていました。暫くして聖歌「歓喜光」を歌い、ご法話となりました。

ご法話

ご法話に入る前に八木上人は本堂の右前に安置されている「徳本行者のお像」について話されました。6月22日は徳本行者のお誕生日で今年は生誕250年。節目の年であるため、お像を修復し21日に開眼供養とお施餓鬼をされたそうです。お像は寄木造りで出来ていて、修復は完全に解体して行われたそうです。過去に一度修復されていて、その時の塗料をすっかり剥がし、非常にスリムに変身されておりました。解体した時、背中の部分に仏師の名前が記されていたことや、それにまつわる歴史について興味深いお話をして下さいました。お像は私たちを一時、タイムスリップさせてくれました。
今月は「弁栄上人の片影」のNo.187~No.194までした。

「仏そは何ぞや」(No.187)

聖者は事あるごとに仏の意義について質問をされるので、これをかわすべく末弟が「仏とは何ぞや」と逆襲すると、聖者は響くように即座に反応して「仏に三身あり。一に法身、二に報身、三に応身…天地万物に秩序あり条理あるは法身の一切智にして一切の運転活動は即ち一切能の功用なり…乃至、三身たるや本来一身なり」と答えられたと言う。
(山崎弁誡上人はその時 のことを「そのいきいきとした語調やバネのように響く一語一語が今もなお、はっきりと耳底に残っている。それを知らずに聖者はお亡くなりになったが、今は何処に在すのか。そよ吹く風にその昔を懐かしく思う」と述懐されている)

(八木上人の解説)

三身 - 法身=毘廬遮那仏…東大寺大仏
- 報身=阿弥陀仏 …鎌倉大仏
- 応身=釈迦牟尼仏
これは三つの方面から仏を見ての表現である。働きによって呼び名が変わっただけのことで、あくまで「即一身」である。この「即」は「イコール」を意味する。法身、報身は肉眼の対象ではない。

「浄土西方説は印度の古説」(No.189)

上人曰く「西方十万億の彼方に仏身仏士があると言うのは釈尊の自説ではなく、印度古来からの伝説に美しい夕日の沈む彼方に不寒不暑常楽無悩の楽土があり、それを須摩堤と呼んで憧れていた。それに順応して自説の弥陀を説かれたのである。この自説弥陀とは『阿弥陀経」に説かれている光寿二無量の阿弥陀仏である。光寿無量なるが故に今現に此処に在して説法し給うのである」

更に付言して、「奈良の大仏も真下から拝んだのでは鼻の穴が見えるくらいで少しも有難みを感じない。美術品でもある一定の距離を隔てて見るから価値が生じる。そのように六十万億の仏身は奥行き十万億の本堂に安置してそこから拝むとちょうど有難く拝まれるのである。
「念仏者の心本尊は六十万 十万億の奥行きの堂」と詠まれた。

(八木上人の解説)

西方浄土説はそういう世界があるのではなく、心がそういう状態になって感じる世界のことである。「指方立相」とは十万憶の彼方に西方極楽があるという考えを言う。「光寿二無量」の「光」は空間、「寿」は時間を意味する。「二無量」とは『無量寿経』では「無始無終」の弥陀と説かれ、『阿弥陀経』では法蔵菩薩が四十八願をたてて修行し阿弥陀仏となられた、即ち「有始無終」の弥陀である。

「起てよ起てよとの如来の勅命」(No.189)(一部のみ)

上人曰く、「起てよ起てよの如来の勅命の声、如何に聞こえるか?」…如来の慈光とその実在を認め得ることができるか…更に重ねて問われている。「如来の光明と衆生の心の区別と関係は確固としてわかるか」(この問いに対して聖者が答える形で以下の様に説かれている)

この件に関して、かつて法然上人と叡空上人との論争があった「戒法」について叡空上人は「心法戒体」と言って「戒」の「体」は人の心に属すると説かれた。法然上人はそうではなく、「戒体は色法である」と主張された。その理由として天台大師は「戒体は無作の仮色」、即ち起さなければ止まってしまう「性無作の仮色」である。このことが理解できるか?と問われた。(以下省略)

(八木上人の解説)

「戒」は仏教のきまりを言い、守って初めてその存在理由があるのである。なお、「戒」は理性的守るものではなく、自分の心の中に起こってくるものである。その「戒」を守らせるものが「体」である。「性無作の仮色」とは存在するが形が具体的に現れてこないものである。

「戒体発得」について 八木上人は具体的な事例を示してお話し下さいました。

電源と電球の関係=電源は大宇宙の存在する阿弥陀様、電球は衆生で光る性質を持っている。しかしこの両者の配線作業をしないと、いくら光る性質があっても電球は光らない。その配線作業が念仏である。念仏によって心底に眠っていた霊性が目覚める。

茶話会

久しぶりにほぼ全員のお顔がそろったようで、和やかに歓談しました。

八木上人から「河野恒雄氏のご家族からのお軸や書籍は皆さんよろしければお持ち下さい」との事で、それぞれに頂きました。書籍はかなり残っておりますので、どなたでも希望される方があればと思いました。勿論本のリストが必要な事と、送料の負担があります。

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