光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成21年1月

極楽寺と弁栄展の訪問記

田代 直秀

朝から晴れ渡った11月14日(金)、金田昭教上人のお勧めもあって「山崎弁栄展」を拝観するため、関東支部の佐々木有一氏・秋山佳香さん・小生の妻悦子の四人で長岡経由柏崎に向かいました。

11時過ぎに柏崎に着き、皆この地は初めてなので、タクシーで先ず極楽寺に参りました。
駅から5分程度で着いた極楽寺の本堂の屋根は青いシートが覆われており、地震の後遺症をまざまざと感じました。

奥様の丁重なお迎えを受け、本堂に通されました。広い本堂の太い柱は筋交いの太い木で補強されており、改めて大地震のすごさを感じました。ご本尊の前で一同朝の礼拝をし、暫しお念仏を致しました。

次に聖者のお胸像が真ん中に飾られた遷化の間に通されましたが、床の間は傾いています。奥様のお話では漸くなんとか応急手当をしたが本堂と一緒に本格的修理が必要とのことでした。聖者のご遷化の様子もお伺いし、一同感無量の思いで、記念写真を撮らせていただきました。

地震の復旧工事で業者も決まり、来年の雪解けを待って先ず本堂の工事をし、次に客殿の順番で、春から夏は工事の最盛期となり、秋頃には一応の工事は終わるのではとのことでした。次に、お寺の入り口にある弁栄聖者のお墓に参りました。こちらは周りの石垣も新しく、既に修復されておりました。奥様の話では、お寺にあるボサ期は地震により、倒れたものが多かったそうですが、聖者の墓石は殆ど異常なかったそうです。
一同参拝した後、柏崎市立博物館へと向かいました。

極楽寺の籠島浩恵上人は現在この博物館にお勤めで、その御縁で今回の弁栄聖者の展覧会が開催できたとのことです。お上人の案内で、展覧会場に入りました。

一階の広い展示場一杯に聖者ゆかりの御遺品が飾ってありましたが、入り口でまず目を引いたのが、米粒に書かれた御名号でした。かねてお話には聞いておりましたが、実物を目にしたのは初めてでした。正確に書かれた御名号が1分間に六十粒くらいの速さで書き上げられたとは、到底人間業とは思えず深い感銘を覚えました。

聖者が使われた念珠や極楽寺宛てのお手紙の展示に始まり、籠島上人が聖者ゆかりの各地より集められた写真には懐かしいお寺や石碑がありました。

圧巻は壁一面に展示されている聖者の御遺墨で、十数点が展示されてありました。三尊来迎図に始まり、三昧仏や釈迦三尊・釈迦立像・虚空蔵菩薩・瀧見観世音・地蔵尊と、その素晴らしいお姿に暫し見とれました。

そして細字勢至菩薩に始まり、幾つかの「経文」細字の菩薩像を見ましたが、中には未完成ではなかろうかと思える珍しい絵もありました。

書についても名号に始まり十二光それぞれの和歌や日中礼讃偈・光明歎徳章・祖師一枚起請文など見事な筆跡を拝見でき、こんなに沢山の御遺品を拝見できた今日の幸せを感謝しました。

籠島上人のお話では、これらの御遺品の保存には大変心を配られ、毎年秋のお彼岸の時期には数日間かけて風を通されているとのこと。そのお蔭で当時のままの作品を見ることが出来ましたことを心より感謝して博物館を後にしました。

この素晴らしい展覧会を見て、残念に思ったのは、会期が既に終わりに近づいている所為もあったかもしれませんが、広い会場が閑散として観客が殆ど居なかったことです。籠島上人の話によると、残念ながら今では、柏崎近くでは光明主義を信ずる方は非常に少なくなっているとのことです。

ただ、我ら光明主義を信奉するものは、籠島上人御苦心によるこの展覧会に倣い、人の集まりやすい東京近郊、また全国の縁の有る所で開こうと希望しつつ帰路に着きました。

一行三昧の会

植西 武子

◇日時 平成20年11月6日(木)10時~16時
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 15名

今月は参加人数が今までの最高となりました。遠方岐阜県から渡辺義史ご夫婦が参加下さいました。上京の機会に光明園を訪ねて下さることはとてもうれしいことです。渡辺雅之前支部長夫妻も一緒に参加されました。熱心にお念仏をされてお帰りになりました。若い頃よりご家族あげてお念仏されているお姿はとても貴く思われました。

金田昭教上人はいつも早くに来て会場準備までして下さり、先頭に立ってみんなを導いて下さいます。声量豊かなお念仏に誘われてみな熱心にお念仏に専心しました。茶話会の時に金田上人が柏崎市立博物館で行われていた『山崎弁栄」展(10月18日~11月16日)に行ってこられたお話をされました。その時の資料を見せて頂きながら、みんなの心は新潟の空を馳せているようでした。

念仏と法話の会

◇日時 平成20年11月16日(日)10時~16時
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 30余名

今月の例会はリンゴ狩り念仏会と重なったため参加できませんでした。参加された田代悦子さんに会の様子をお聞きして、ご法話のメモを見せて頂きましたので概要のみ報告致します。

ご法話

ご法話は今期より新たに仏教塾に入会された方を対象に入門的な内容だったそうです。

※まず、「念仏をもって先とす」(法然上人『選択集』冒頭のことば)とにかくお念仏をすることが大切である。一心に念仏をしていると「一切皆空」の世界が開けてくる。その心構えとして、仕事をする中で念仏するのではなく、念仏の中で仕事をすることである。(法然上人法語)
「道あゆめども 道あると覚えず」(弁栄上人の書簡文)「行往座臥」「不問時節久遠」を目標に念仏に専心する努力が必要である。

※念仏に三種の行儀がある。
①尋常念仏 ②別時念仏 ③臨終念仏 である。日常の念仏で散心の念仏も良いが、集中することが大切である。平生の念仏、また別時の念仏ができていると臨終の念仏ができる。
『和語燈録」に「三愛こもごも起こる」と記されている。「愛」は仏教では迷いの言葉として用いられている。「三愛」とは臨終に起こす三種の愛着心のことである。即ち境界愛、自体愛、当主愛である。

※また『発願文』に「願わくば弟子等命終の時に臨んで心頴倒せず、心錯乱せず、心失念せず・・・」とあるように、このような状態になるには、平生よりお念仏をしっかりしていると、臨終に際して身心もろもろの苦痛から解放され、身心快楽の状態になる。お念仏によって霊的ホルモンが作用して脱ターミナル・ケアとなる。

それに続く発願文における「虚空法界尽んや、我が願もまたかくのごとくならん、発願しおわんぬ」は『華厳経』十地品の初地(歓喜地)の菩薩の発願の内容によっている。弘法大師もそれに依拠して願文を書いておられる。

(註)三愛における「境界愛」は自己をとりまく対象、家、家財等、また親子夫婦等、近親者等を指す。「自体愛」は自己自身に対する執着、「当生愛」は業によって未来生へと生まれてゆく執着愛のこと。それらも念仏によって脱却せられ、救われてゆくのである。

茶話会

今月も仏教塾の方たちが多数参加されていたようでした。今まではどうしても二つの部屋に別々に集まってしまいますが、出来るだけお互いの会話が弾むように今回は一緒に団欒されたそうです。求める道は一つ、みんなで助け合って精進していきたいです。

東京光明会 11月例会報告

植西 武子

◇日時 平成20年11月22日(土)13時~16時
◇場所 一行院
◇導師 八木季生上人
◇参加者 14名

この日は途中で所用があり、少し遅れての参加となりました。玄関に入りますと白や紅色の花が満開の立派な胡蝶蘭の鉢は「祝」の札をつけて並んでいました。おや?と思いながら本堂に入りますと、普段はお念仏の最中のはずが既にご法話が始まっていました。お上人様のご都合でお念仏と法話の時間帯が入れ替わったそうでした。ご法話の冒頭にお上人様から、増上寺のご法主におなりになった旨、お話があったそうでした。そして3時頃には増上寺の方に行かれるため、ご法話を先にすまされることになったと云うことでした。

ご法話

10月の例会が教学研修会(光明園)に合流されたので、一行院での会は2ヶ月ぶりでした。
今月は『弁栄上人の片影』のNo.210からNo.217まででした。

※「天眼通」(No.210)

弁栄上人は日々伝道にお忙しく、そのため随行する弟子も日によって代わっていた。そんな中で、長く上人に仕えた侍者の一人に魔が差したというか、その言動が堕落し、上人に非常な迷惑をかける者があった。そこである弟子が上人に「外道にも許されている天眼ですら、他人の心を見抜くことができるのに、法眼円かなるお上人がどうしてその侍者の心境を看破して善処して下さらないのか」と尋ねた。

すると「その通り、天眼のみに専心しておればそのようにすることもできる。しかし弁栄はそんな方面にはあまり心を向けていない」と言われたそうである。

八木上人の解説 五眼=①肉眼(人間の肉眼) ②天眼(天人の天眼) ③恵眼(声聞・縁覚の慧眼) ④法眼(菩薩の法眼) ⑤仏眼(仏の仏眼)

※「雲の美を増す如く」(No.211)

上人曰く、「我々の心をみだす煩悩は恰も明月を遮る浮雲のようなものである。しかし見方によればその雲は彩雲となって却って月の美を増すことがある」

※「誓うことに付て」(No.215)

さる師が「礼拝儀の晨朝の発願文に、『我らも宗徳の鑑たる世尊にならいて如何なる境遇にも姿色を換えるさることを誓い奉る』と、ありますが、実際に劣機薄徳の愚僧(わたくし)には到底これを完全に如来へ約束できるとは思えません。そうすると妄語戒を破ることにならないでしょうか」と尋ねた。
上人曰く、「仏教の戒法には小乗戒と大乗戒の二種がある。小乗戒の方では一度犯せば破れてしまうが、大乗戒では金剛宝戒と言って、例えば金剛石が一度腹中に入って遂に消えないように、一得永不失と言って、一度受けた戒法は決して滅失するものではなく、やがてそれが薫発されていくのである。そのため全受持分として、受ける時は真心に全分受けてその分に応じて保っていくのである。勿論初めからそれを当てにした横着な考えではダメです。」

八木上人の解説 戒には体が有り、体は戒を守るものである。これを戒体という。戒体は決して消滅してしまうものではない。戒体発得は持続されていく。
中野善栄上人はよくロウソクの例をもって話をされた。即ち芯のないロウソクには火が灯らない。ろうと芯を一体にして初めて火が灯る。「芯」は「信」に通じ「信」のない人間には火は灯らない。信仰あることによって人間らしさが得られるのである。もし「信」を無くせば人間性の喪失となる。現代の世相にはその傾向が見られる。
大宇宙には大きなエネルギーが満ちている。それが我々を育ててくれる。いくら「法」で縛っても自分を守る力は戒体である。
大乗戒と小乗戒では戒の働きが違う。大乗戒では戒体は一得永不失といって一旦得るとなかなか失われないのである。

八木上人はこの法話の後で、ご法主となって、今後増上寺にお住まいになる旨話されました。そのため一行院でも例会は従来の形では出来ないので今後についてみんなで話し合って欲しいと告げられました。

茶話会

茶話会は悲喜交々といった雰囲気で始まりました。勿論お上人様のご法主になられましたことはみんな大喜びで、お祝い申し上げました。光明会としてもこんな嬉しいことはありません。しかし一方、これからはご指導頂く機会がなくなり、親しくお話しすることもなく、雲上人になられたようで一抹の寂しさも感じました。

前もって予想しておられた方や、今日突然知って驚いている方など、表情は様々でした。今日の例会がおそらく最後となるようで、大きな喜びと小さな淋しさを胸に一行院を後にしました。

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