光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成21年5月

一行三昧の会

植西 武子

◇日時 3月12日(木) 10時~16時
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 9名

空はきれいに晴れ渡っていましたが、風が冷たく感じられる日でした。まだ冬枯れの名残を止める光明園の庭に白とピンクのボケの花が春の訪れを告げていました。午後のお念仏に先立って金田上人から礼拝やお念仏の仕方について細かく指導がありました。その後、3時過ぎまでお念仏に専念しました。

お念仏の後、別巻にある図書室がきれいに整備されたとのことでみんなで拝見しました。

河波上人ご自身の蔵書ですが、四方の壁面を天井まで埋め尽くしているその冊数はいうまでもなく、ジャンルの広さにも驚きました。一般に開放して下さるそうで、いつの日かここで読書三昧するという至福の時を過ごしたいと思いました。これは谷慈義氏、炭屋昌彦氏を中心とする仏教塾の方々のご奉仕のたまものです。

また、同期の一人である佐藤蓮洋尼様が2月から光明園の別館に越して来られ、園のお仕事をいろいろお手伝いして下さっています。電話の取り次ぎや事務的なことでいろいろお世話になっています。そのお働きに頭が下がる思いです。

念仏と法話の会

◇日時 3月15日(日) 10時~16時
◇導師 河波定昌上人
◇参加者 36名

ご法話は仏教塾の方たちを対象に土曜日と日曜日の午前にお話があり、引き続いて午後は「念仏と法話の会」としてお話されました。日曜日の午前の終わり頃からお話を拝聴しました。

ご法話(午前)

前半は五種正行(称名・読誦・観察・礼拝・讃歎供養)、五根五力、八正道等についてお話があったそうです。そして念仏の仕方と同時に「信」「三昧」「生活」の三つがいずれかに偏することなく一つとなることが大切であると説かれました。そして後半のお話は・・・

真言宗で説く(羯摩蔓陀羅)は弁栄聖者の超日月光の世界である。真言宗の中にも光明主義があると言える。決して浄土宗の中にもの埋没してしまってはならないのである。

キリスト教はその教えの中に自然科学等を取り入れている。弁栄聖者もしかりである。弁栄聖者はホルモン(ギシシャ語で「目覚めさせる」の意)を性的ホルモン、知的ホルモン、霊的ホルモンと分類し、「細胞(現代では遺伝子と表現)の中に宇宙の力(選択本願)が働いている」と『人生の帰趣』で述べておられる。念仏と科学が一つになっている証しである。

念仏をしていると自律神経における交感神経と副交感神経のバランスがとれるのである。天台宗に「掉挙」「昏沈」なる言葉がある。「掉挙」は交感神経を、「昏沈」は副交感神経を意味するのである。

これらのことを総合的に考察すると弁栄聖者の教えが如何に広大甚深であるか伺い知ることができる。

ご法話(午後)

午後のご法話の前にみんなで「聖きみくに」を歌いました。「聖きみくに」は浄土の様子を歌ったもので、世親菩薩の『浄土論』(浄土宗では『往生論』という)の内容を分かりやすく歌にしたものである。この『浄土論』は『無量寿経』に基づいている。

「浄きみくには朗らかに・・・」は「空」の世界を表現している。田中木叉上人によれば「朗」は「空」の形容詞のようなものである。世親菩薩も「究竟如虚空 広大無辺際」と説いておられる。

世親菩薩についてはその研究の大家である大谷大学の元学長・山口益氏によればパキスタンのペシャーワルに生まれ、兄は無著(大乗仏教)、弟が世親(小乗仏教)である。そして『倶舎論』を更に兄の勧めによって大乗仏教に帰入し、唯識、『十地経論』と至り、後に『浄土論』を著す。

世親菩薩は浄土を「円」で説明された。しかもこの円は「無限円」である。この「無限円」という思想は次の二つの背景から生まれたものと考えられる。

  • その一つはアフガニスタン、パキスタン地方はギリシャ文化(円の思想)とインド文化(無限の思想)がぶつかり合う所である。
  • 二つ目はインド海洋経験がそんの基盤にあると考えられる。『華厳経』の中にも海印三昧なる言葉があるように、海は大空を写し、鏡のように輝くことがある。さらに行けども行けども続く水平線は無限円の思想と結びつく。

キリスト教の学者、ボナベントゥラも「神様は無限円である」と述べている。仏教では「大円鏡智」となるのである。

弁栄聖者は科学、哲学に深く通じておられ、とくにプラトンの思想に共鳴されていた。念仏とプラトン哲学がドッキングして弁栄聖者の教学が生まれたと言えるのである。

プラトン哲学の核は「エロス」(信楽=しんぎょう)にある。なお信楽の「楽」は「らく」を読むときは「楽しい」を意味し、「がく」を読むときは「音楽」を、「ぎょう」と読むときは「愛する」を意味するのである。「深心」は深く信じること、「信楽」は深く愛することである。「深心」(『観無量寿経』の立場)と「信楽」(『無量寿経」の立場)は同じであると言える。
・人をして 欣募せしむるの法門は 暫くは浅近に似たれども 自然悟道の蜜意 きわめて深奥なり(大原談義)
・三心(1至誠心 2深心 3回向発願心)まちまちに分かちたれど 要をとり 詮をつめれば 深心の一句におさめたり(法然上人『和語燈録』)

また世親菩薩の『浄土論』の中に「愛楽仏法味 禅三昧為食」なる言葉がある。「報身」の「報」はsambhoga
kaya でsambhogaは「食身」を意味し、「自受用身」である。法のよろこびを「受用法楽」という。
お念仏は食べることである。弁栄聖者は「霊の糧(manna)」と表現された。mannaとは霊の糧、霊養に相当するラテン語である。ニコラウス・クザーヌスもその著「神を見ることについて」(「visio Dei」1453年)の中でmannaという言葉を用いている。このことからも弁栄聖者は西洋哲学やキリスト教に精通されていたと言える。さらに霊養、恩寵なる言葉からもそれを伺い知ることができるのである。

茶話会

今月もお念仏の後、和気藹々と歓談しました。月に一度の顔合わせで、近況やいろんな情報を交換する良い機会です。

4月26日に予定されている勉強会についての意見を持ってきて下さる方がありました。会をより充実させようと積極的に働きかけて下さることは何より有難いことです。このような意見がどんどん出てくれば会は一層高まっていくと期待されます。4時少し前に後片づけをして散会しました。

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