一行三昧の会
内野 廣行
◇日時 5月8日(土) 10時~16時
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 17名
若葉の一枚一枚がキラキラと快晴の青空に微笑み返しているような心地よい穏やかな温もりに満ちた一日でした。
お念仏の波長が一体となって大きな「うねり」にまとまってくると、、あるで三昧仏様からお念仏を戴いて、私たちがそのお声に唱和させていただいているように感じられてきました。
「ドッ!ドッ!ドッ!」と室内に満ちる響きの中で姿正しくお念仏をリードされる導師の後姿に日常のご精進の錬度の高さを感じつつ、お念仏が心に染み入ってくる得難い一時でした。
お念仏に引き続いて「光明主義における人生の意義」について導師のご法話がありました。導師の人生経験を縦軸に、人生とは「如来様のお力を戴いて仏種をお育てするために日々精進(修行)すること」であると、『宗祖の皮髄』『お慈悲のたより』等を引用されて「この世に出でたる目的」について詳しくご教示下さいました。
例会終了後に関東支部の役員会が開催されました。
念仏と法話の会
植西 武子
◇日時 5月24日(日) 10時30分~16時
◇講師 河波定昌上人
◇参加者 34名
午前中はいつもより参加者が少ないようでしたが、午後のお念仏が始まる頃は平常通りの人数となりました。1時間弱のお念仏をいて、聖歌を歌い、ご法話となりました。
ご法話
弁栄聖者は光明主義をいわゆる現象学的にお説きになられました。聖者のご活躍された頃はまだ「現象学」phaenomenologieという言葉は殆ど使用されていませんでした。しかしながら1807年に、すでにドイツの哲学者ヘーゲル(1770~1831)は『精神現象学』を書き、自らの哲学を現象学的に展開し、その後のヨーロッパの哲学において決定的な影響を与えたのでした。そしてその影響はその後継者例えばE・V・ハルトマン等を通じて弁栄聖者の思惟の上に大いなる影を投げかけていたことが考えられます。
ヘーゲルに先行する偉大な哲学者としてカントが挙げられますが、カントは現象学とそれを超えた大叡智界との両者を考え、前者の後者への方向を基幹として自らの哲学を構想していました。それは娑婆世界とお浄土の世界の両者をただ対立的に考え、いわゆる「捨此往彼 蓮華化生」の立場に立っていた従来の浄土宗の教義と酷似しています。このように世界を二つに分けて考える立場を「二世界主義」と言いますが、そのような立場を否定していったのがヘーゲルであり、また弁栄聖者でした。
ヘーゲルにおいて絶対者(神)とは単に現象界、又私たち自身と対立するだけのものではなくその絶対者が現象界、とりわけ私たち自身の上に現象し、働き出すところのものなのであります。ヘーゲルはもはや自らの哲学を従来のように神から出発するのでなく、最も現前の事実-それは例えば感覚そのもの-から出発するのであります。ヘーゲルはその著である『精神現象学』において「感覚的確実性」から出発するのですが、実にその感覚においてすでに絶対者たる神が働き出し、そして言わばこの私自身において神が現象し生成する、と言うのです。それはカントのように神を自己の外に置いて理念的、超越的のみに考えるのでなく、むしろ神が私の中にはたらいていると言うことが言えるでしょう。その点から言えば弁栄聖者の光明主義はカント的でなく、どこまでもヘーゲル的であります。
例えば超越的な浄土の世界におけるその清浄性は清浄光となって私の内にはたらき、私たちを清浄化し、また極楽世界の歓喜の世界がそのまま歓喜光として私たち自身を苦悩の存在から喜びの存在へと転換せしめてゆくといった具合にであります。(ただし法然上人ご自身も「心を浄土にかくれば 心浄土の法にて候」=北条政子への手紙=といった文にも見られるように、その真実態から言えば現象学的な内容も見られます。)
阿弥陀仏がただ私たちと対立するだけのものでなく、念々にその阿弥陀仏が私の内に入り、私の内に現象し、私と一体化してゆく点から言えば、それはそのままが「無対光」のはたらきそのものであります。
聖者は私たちの信仰に上に目には見えない阿弥陀仏が現象してくる点については、たとえば『古今和歌集』の冒頭の歌を引用して説明せられたりもしています。(「難恩光」の項で)すなわち、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかされぬる
の歌において、目に見えぬ秋(仏)が私たちの感覚の上に出現している旨が歌われているのですが、私たちにとって最も身近な感覚の上にも絶対者の現象が説かれるのであります。それをシェリングという哲学者は「高次の経験主義」と言ってヘーゲル以降の新しい精神の地平を開いていったのでした。
私たちのささやかな念仏の実践においても高次の経験の世界が開かれ、そこに阿弥陀仏が現象してくるのであります。かかる意味で弁栄聖者の光明主義はまさにそのままが現象学的展開そのものと言えるのであります。そして又伝統的な浄土教も改めてヨーロッパ哲学における最先端の学としての現象学ともどこまでも対応してゆかねばならないのであります。
そこに私たち念仏者にとっての新しい課題があるのです。
茶話会
お話の後、2ヶ所に分かれて歓談しました。若い方が多いと活気があり、あちこちで賑やかに会話が弾んでおりました。もっと皆さんとお話がしたかったのですがこの後、光明園の役員会が予定されていたので、途中で退座しました。
光明園役員会
3時10分より階下の応接室で臨時の役員会がありました。議題は20年度の予算報告と光明園の別棟の一部改造についてでした。