光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成21年9月

一行三昧の会

鍵和田 充生

◇日時 7月4日(土)10時~16時
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 18名。

今回の金田上人の法話は前回に続き『信』についてでした。
信じるためのきっかけとしては四つあり、①苦難にあって ②人に出会って ③教えに出会って ④特に重要な実践を通して信じられていきます。

①苦難(苦しみ)にあって
一行院で61歳で示寂した徳本上人(弁栄上人も慕われた)の話でした。上人の信仰を求めたきっかけは、4歳の時に仲の良かった近所の子どもの死により無常を感じ、悲しくて泣いた。自分自身どうしてよいのかわからず、母に尋ねると「もう友達とは会えません。念仏をしっかり唱えなさい」と。念仏をすることにより信仰が得られた。
②人に出逢って
イ、熊野宗純上人の場合
熊野宗純上人の場合は、16~17歳頃までは純粋な信仰を持っていたが、科学や哲学を勉強するに及んで、これまでの宗教心が脆くも崩れていった。その後仏教の経典を諸々読んだが、概念の阿弥陀様しか見えず、41歳まで20年間悩み続けた。
大正8年8月、広島で弁栄聖者にお会いする事ができ、聖者から「あなたは阿弥陀様を親のように思えますか」との質問にあい、躊躇して「その様に皆さんに説教しています」と答えた。すると聖者から「それではいけません。自分の罪を懺悔して、南無阿弥陀仏と唱えなさい。自然と親のように思えますよ」と諭され、嬉しさのあまり涙が止まらず、お念仏を唱えられた。
ロ、遊蓮房円照上人
法然上人の生涯に決定的な影響を与えた人として、洛西の善峰の往生院で高声念仏に励まれた遊蓮房円照上人がいる。法然上人43歳から2年間の短い付き合いだったが、「浄土の法門と遊蓮房とにあえたことこそ、この世に生を受けた思いである」と恢述懐された法然上人はこの上人との出会いより、よりよい信仰を深めることができ、臨終にも立ち会っている。
ハ、金田上人の場合
金田上人は芦屋中学で吹奏楽部に入った。指導者は40歳位の先生で、指導の仕方が非常に厳しく、みんなの前でガンガン怒るし、初めはこれが本当に音楽の先生かなと思った。
この先生の下で、何故2年半もの間続けられたのか。一には、全国大会へ行くぞという高い目標があったこと。二には指導者は鬼のように厳しかったが、音楽的にセンスがよく、みなみ信頼があった。三には仲間がいたから。猛練習の末、地区・県・九州大会と金賞を得て、全国大会に出場出来た。それを実現できたのは、目標のために仲間60人が先生に怒られながらも支えあい、それでいて決して仲良しクラブでなく、自分が皆の足を引っ張ってはいけない気持ちだった。それはまさに「一人は皆のために、皆は一人のために」の精神があったから。これこそ大乗仏教の精神と同じ。お念仏も同じで、ただの仲良しクラブでなく、厳しく仲間と一緒になって念仏を唱えていこう。

午後の念仏は、金田上人の法話のように友達の輪を大切にして、午前にも増して熱のこもった念仏でした。

念仏と法話の会

植西 武子

◇日時 7月12日(日)10時~16時
◇講師 河波定昌上人
◇参加者 29名

空模様を気にしながら光明園へと急ぎました。やはり途中で降り出し、今年の雨の日の多いことにやや閉口しました。
※午前中に佐々木有一氏により講話が一席有りました。佐々木氏はA4紙8枚綴りの資料を準備してお話をされました。

前半は「人生の節目」についてでした。
中国の例として・・・「人生五計」即ち
①生計=如何に生くべきか 
②身計=如何に身を立てるか 
③家計=家庭を如何に営むか
④老計=如何に年をとるか 
⑤死計=如何に死すべきか
及び孔子の人格的成長等についての話でした。

インドの例として・・・「四往期」即ち古代インドの婆羅門の生涯の理想型として
①梵行期 ②家長期 ③林往期 ④遊行期、「四有」即ち①生有 ②本有 ③死有 ④中有。
「輪廻」について話されました。

後半は「インド思想としての仏教」についてでした。
主に「輪廻」と「業」について、更に「苦」と「解脱」に関するお話でした。
平素、仏教について詳しく勉強する機会がありませんので、大変興味深く拝聴しました。

※午後は河波上人のご法話。7月は東京のお盆であり、そのため専ら心の問題を中心にした内容でした。(河波上人様がまとめて下さいました)

ご法話

-心の問題について-
お盆には浄土宗でもまた禅宗でもいわゆる「唯心偈」が唱えられます。
前者は呉音で、後者は漢音で唱えられるので別の経典のように聞こえてきますが実は同じ経文です。その経文は、
「若人欲了知 三世一切仏 応観法界性 一切唯心造」 『華厳経』
(もし人三世一切の仏の了を知せんと欲せば まさに法界の性、一切唯心の造るところなりと観ずべし)
ここで仏と法界(世界)と心の三者が三位一体の関係で展開されています。それ故に仏様を論じる時、同時に又心と世界との全体が取り上げられることになり、仏と同様、心についても世界についても同様のことが言えます。

それ故に地獄の世界と言ってもそれは心を離れて別に存在せず、それはたとえば夢の中で恐ろしい世界の展開に恐怖に戦いていても、その世界は夢をみている人の心の作り上げたもので、その世界がどこか別の所にあるのではなく、それが夢だと気づくことによって恐怖に充ちた夢の世界から開放されてゆくことになります。すべては心の所造ということで「一切唯心造」と言われるのであります。この偈を唱えることによって地獄の衆生も救われてゆくことになるのであり、それ故に「破地獄の偈」とも言われ、お盆の回向に唱えられる所以でもあります。

この「唯心偈」を中心として中国の天台宗の創始者智顗(天台大師538~597)は「一心十界」、「一念三千」等の思想を展開されたのでした。

弁栄聖者は光明主義を主唱される以前、一時「一心十界」説で仏教の真理を説かれたこともありました。そして「一念三千」もその線上での展開ですが、京都左京区大原にある三千院はそれに因んでつけられた寺院の名に他なりません。

このように仏教では「心」を中心にして展開されている点から言えばそれはまさに主体性の実践そのものであります。それ故に心は私たちの生活を離れては考えられません。私たちにとって最も身近な心の問題が仏教と根本的に関わっているのであります。

かつて明治維新志士高杉晋作はまさに亡くなろうとする時に「面白きことの無き日を面白く」まで言って、そこで息絶えんとするに際して、付き添っていた尼僧が「すみなすものは心なりけり」と補った由、伝えられています。

しかしながら心が肝心と言っても、その心の制御は日常生活においてはなかなか容易なことではありません。そうした場合、明るい、そして積極的な言葉を発することが一つの善方便になります。

面白きことの無き日を面白く
すみなすものは言葉なりけり

最近の脳科学では、プラス思考の言葉を発することによって脳細胞に変化が生じていることを示している実権もなされているようです。(NHKテレビ実演)。

日常生活の上にも、また仏道修行の上にも言葉は決定的に重要です。そしてその極めつけが南無阿弥陀仏の名号に他なりません。それ故に田中木叉上人も『慈悲の花摘み歌』の中で、

面白きことの無き日を面白く
すみなす今日のナムアミダブツ

と詠われています。

なお脳科学の進歩はめざましく、私たちの脳の中に描かれた像(イメージ)がそのまま電像となって映し出されるようにさえなって来ております。(NHKテレビでの実演)。しかしながら、そこまでは科学の営み。しかしながら念仏の世界はかかり解釈を遙かに超え出ています。それはこのように私たちの脳(心)に浮かんで来るその姿形も実に如来様から来現してきているからであります。

そのことは『観無量寿経』の中で「仏を想わんものはまずまさに像(イメージ)を想うべし」と延べられ、それが「全宇宙(全法界)に遍満したまう如来(法界身)がその仏を想う私たちの心の内に一点集中的に入り下さるからである。」と延べられています。法然上人の「月かげの歌」もその消息を述べたものに他なりません。

この仏を想念する心のはたらきは哲学的な用語では構想力、あるいは想像力(ドイツ語ではEinbildungskraft)と言いますが、これは像Bildと一つeinになってはたらく心の営み、あるいは私の中へ像となって突入してくるein=into像の形成力を意味しています。(たとえばドイツ近代の哲学者シェリングの展開した理論)。何か私を超えたもの(超越者)が私たちの心の中に突入してはたらくという点から言えばそれはまさに『観無量寿経』の内容と深く関わっており、脳科学の領域を遙かに超出しています。しかしながらまた弁栄聖者が試みられたように、その時代時代の近代科学を全面的に念仏の教えの内に取り込んで考えてゆくべきでもありましょう。

茶話会

今月も参加人数はそんなに多くありませんでしたが、皆さん真剣にお念仏をされていました。
久々に参加された方もあって楽しく歓談しました。いつものように二つのグループに分かれて賑やかに会話が弾みました。この歓談の時間を大切にしたいと思いました。「和」の雰囲気の中から人の「輪」が広がって行くことを願っています。

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