光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成22年4月

念仏と法話の会①

植西 武子

◇日時 平成22年1月17日(日)
◇会場 光明園
◇参加者 28名

新年最初の会で何となくお正月気分がまだ少し残っているような雰囲気でした。玄関の下駄箱は満杯で、2階の道場はお念仏の熱気が感じられました。午前中にも仏教塾の方を対象としたご法話が一席ありました。

ご法話

「浄土宗と光明主義」と言うテーマでご講話がありました。

  1. お話は浄土宗の定義から。その定義とは「浄土に往生する教え」である。しかしこれでは不十分であり、最低必要条件に過ぎない。「何のために」と言う目的が欠落している。「浄土による救済の完成を説く宗教」または「浄土による菩薩道の完成を説く宗教」で初めて完全十分条件となる。
  2. 仏教伝来以前の宗教は他界信仰であった。やがて法然上人が浄土宗を説かれ、他界信仰と習合していった。換言すれば他界信仰を根底として浄土宗が拡がって行ったとも言える。それは禅宗の盛んな処では念仏が普及しにくい状況にあったこともその一因である。浄土教が「浄土に往生する教え」のみに止まっていると他界信仰の域を出ない。菩薩道の完成が求められるのである。
  3. 唐の時代に宗教詩が生まれ、音楽と合流し、やがてそれが『往生礼讃』を生む。彦琮の「晨朝礼讃」に触発されて、善導大師が「日中礼賛」を生み、一日に6回仏を讃歎する「6時礼讃」へと繋がって行った。佛の讃歎と修行が求められる。彦琮の「晨朝礼讃」に「洗心甘露水 悦目妙華雲」とあり、また「讃佛乗」には「到彼華開聞妙法 十地願行自然彰」と浄土に行って十地の修行が自ずと実現されて行くのである。
  4. 『無量寿経』には念仏が深まると「三法忍」が現れるとある。即ち、
    ①音響忍(音楽によるさとり)
    ②柔順忍(柳のように柔らかく。空のさとり)
    ③無生法忍(永遠の生命)である。
    「忍」は「悟る」という意味で菩薩の修行のことである。
  5. 浄土に行くと「触光柔軟」になると言う。触は皮膚感覚、菩薩道を意味している。勢至菩薩の宗教体験として「蒙光触増上智慧超三界。」とある。
  6. また、『無量寿経』にはお浄土で人格が完成されていくと説かれている。四十八願を悟っていくと一人一人の人格は輝いてくるとも言われている。「三十二相成就願」には「顔貌端正超世希有 容色微妙自然虚無身」とある。
  7. 念仏をして真理を悟っていく。臨終は特に大切で、未だ命が終わっていない生きている間に光明の世界が開かれていくよう「此世及後世願佛常摂取」を信じて念仏するもとが肝要である。他界信仰で終わることなく、大乗仏教の原点に立ってしっかり修行することが大切である。

茶話会の後で

帰り際に奥様が玄関で私たちを見送って下さいました。とてもにこやかにいつもよいも一層お元気に見えました。「お元気そうでよかったね。」とみんなで話ながら帰路に就きました。あの最後のお姿が今も瞼に浮かびます。

念仏と法話の会②

植西 武子

◇日時 平成22年2月7日(日)
◇会場 光明園
◇参加者 125名

この日は春が来たような暖かい陽気でした。少し遅れたため、道を急いで光明園に着き、道場に入りますとみなさんの熱気と相まって汗が出るほどでした。

河波上人様は奥様とお別れされてから日も浅く、心身共にお疲れだろうと案じておりましたが、いつもと変わらぬご様子でご法話下さいました。さすがと感じ入りました。

ご法話

最初に宇宙論からお話を始められました。ルネッサンス時代の宇宙論は閉ざされた宇宙と言う考えが一般的でした。いわゆる階層的宇宙論、キリスト教的宇宙論とも言われていました。この考えを「宇宙は無限である。」と言って打ち破ったのがニコラウス・クザーヌスでした。まさに「包含」(complcitio)から「展開」(explcitio)への転換でした。「神は宇宙に遍満している。」という考えです。

『阿弥陀経』に「従是西方過十万億佛土有世界名曰極楽」とある。この「西方過十万億」を超越と捉えてもよいし、非神話化した上で超越と捉えてもよい。

『如来蔵三部経』には「如来様が我々を抱いて下さる。」とある。即ち摂政となる。この世も後の世もお救い下さいと願う光明の生活である。また法然上人のご法話の中にも「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん、とてもかくてもこの身には思いわずらうことぞなし」とある。

『無量寿経』では光明のことを「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」と記されている。

弁栄聖者は光明を全体系として捉えられた。いわゆる「光明大系」である。法然上人の「選択本願」が万徳として発展していく中で、光明遍在に気づかされていくのである。「選択本願」は万徳で、それを開くと十二光となる。宇宙の真理は専ら十二光によりて示されているのである。光明主義出現の意味はここにあるのである。

この光の思想は仏教のみならず、キリスト教にも見られるのである。ヨハネ伝の中に「神は光であり、道であり…」とある。このキリスト教との出会いも大きい。

人が真理を求めてその信仰が深まっていくことはありがたいことである。現在も死後も念仏者は光の中にあるから念仏者にはターミナルがないのである。

茶話会

いつものように二つのグループに分かれて歓談しましたが、光明園の役員会が8時からありましたので、途中で10数名は退席してそちらに参加しました。
役員会では来年度の予算審議と奥様の「偲ぶ会」について話し合いました。

一行三昧

志村 稔

◇日時 2月13日(土)10時~16時
◇会場 光明園
◇導師 金田昭教上人

今回は精進について御法話を頂きました。精進は釈尊が入滅に臨んで弟子たちに遺した最後の説法である『遺教経』に、「少水の常に流れて石を穿つが如し」とあり、「僅かな水でも常に絶え間無く流れ続けることで硬い石をも突き抜くように、修行に精進するなら、成らぬことは何もない」と修行を勧めています。もちろん精進する修行はお念仏ですが、精進には相続(続けていくこと)と集中していくことという二つの意味が含まれています。法然上人は念仏の精進を撰択しましたが、弁栄聖者は念仏の精進を弥陀への信愛なる貞操と述べています。

お念仏の精進の仕方について、『一枚起請文』に「安心起行」という「信仰の目的と念仏修行」を法然上人は述べています。「起行の用心」については弁栄聖者が「一心弥陀に対して真正面に心を向けて念ずる」よう述べ、「雑念」を戒めています。しかし、法然上人は明遍との問答の中で「源空も力をよび候はず」と答え、また更に「おおらかにお念仏を称えることが第一」と述べているのは、雑念を肯定しているのではなく念仏の功徳を肯定しているのであり、両者の立場は矛盾するものではありません。これは、『一紙小消息』を見ても「安心起行」について、「十悪五逆の者も生きると信じて→小罪をも犯さじと思うべし」や「一念十念なをむなしからずと信じて→無間に修すべし」と述べていることからも、妄念(雑念)について心構えとしては法然上人も一心に念仏することを勧めていることは明らかです。また、法然上人は念仏を称える心について
①「往生するぞ」
②「助けたまへ」以外にも
③源空はすでに得たる心地にて念仏は申す也」
と述べており、最後の③は「起行の用心」を説いているものといえ、弁栄聖者の光明主義と同じく如来様に今お会いしている心持で念仏を称えるものといえましょう。

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