光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成22年5月

念仏と法話の会(河波 諦様を偲ぶ会)

植西 武子

◇日時 平成22年3月14日(日)
◇会場 光明園
◇導師 河波定昌上首
◇参加者 40余名

遠方九州より金田隆栄理事長様が、また卒業式シーズンでご多忙な長谷川匡俊上人様が、岐阜県から渡辺義文ご夫妻がご参加下さいました。
午前中の日程は主として仏教塾を対象としたご法話一席と念仏三昧でした。午後は通常一般を対象としたご法話と念仏三昧ですが、今月は河波上人の奥様の四十九日の法要を兼ねて「河波 諦様を偲ぶ会」が挙行されました。

※偲ぶ会は田代直秀支部長の司会、伊藤力副支部長の維那によって光明会様式で執り行われました。式次第の概略は以下の通りでした。

  1. 開会の辞 聖歌斉唱「聖きみくに」
  2. 晨朝の礼拝
  3. 念仏三昧(この間にご焼香)
  4. 聖歌斉唱 心田田植え歌「光のくらし」
  5. 河波上人のおことば
  6. 追悼のことば(4名)
  7. 念仏三昧
  8. 昏暮の礼拝(ご回向)
  9. 聖歌斉唱「のりのいと」
  10. 代表挨拶(2名)
  11. 河波上人御礼挨拶
  12. 閉会の辞

河波上首のおことば

奥様は去る1月24日に心臓発作によってお亡くなりになったこと、東京都の文京区にお生まれになったこと、淑徳大学に勤務され長谷川よし子先生とのご縁で光明主義の道をより熱心に歩まれるようになったこと、お念仏一筋のご一生で、特に光明園でのご活躍は最高の喜びであったと思うと述べられました。お亡くなりになっても、いつもそばにいる感じで永別したとは感じられない。明るく充実した感じでいられる。これはお念仏の功徳である。お念仏をしていると自然と明るくなる。皆さんもこれからもしっかりとお念仏に励みましょうと結ばれました。

追悼の言葉

奥様のご一生を偲ぶことばは、いろんな立場で接して来られた4名の方々によって述べられました。奥様が過ごされた時代の順にお話をして頂きました。(その概略のみ)

(1)渡辺雅之様

昭和29年の大学入学時に上京し、東京光明会の青年部でよくお念仏をした。奥様とはお念仏を通して出会い、あちこちのお別時で一緒にお念仏をした。特に鉢伏山のお別時は印象に残っている。奥様はいつも若い人を多く連れてこられた。私が今日あるのも奥様のお陰である。海外勤務で30年間のブランクがあっても再び光明園でお会いして、一緒にお念仏ができたことは喜びに絶えない。

(2)山本サチ子様

奥様と初めてお会いしたのは今から44年前の大正大学の女子寮でした。福島県より上京して一週間ばかりで、大変不安な時でした。突然寮の玄関に「○○さんいらっしゃいますか。」と友を訪ねて入ってこられたのが奥様でした。大きな声ではきはきとした話しぶりに豪快な方と言う印象を受けました。友達が不在でしたので応対してお話しする中で「この人について行けばまちがいない。」と確信し、奥様とお会いしたことで一筋の光が差したように感じられました。

それからは誘われるごとに松戸の善光寺のお別時に参加したり、東京青年光明会で一緒にお念仏をするようになりました。二人で田中木叉上人を訪ねた時も上人の奥様と親しく、堂々とお話しされる姿に感心しました。

また、第三子を亡くして悲しんでいる時に親身になってお念仏を勧め、励まして下さいました。いつもお念仏の大切さを熱心に説いて下さったのが奥様でした。奥様はいつも「私は河波の妻と言うよりも、上人の健康を護るのが私の勤め。」と言っておられました。

(3)伊藤旭栄様

今から20年前に大正大学に入学し、その時から光明園での生活が始まった。当時、光明園はまだ宗教法人と認定されていなくて維持、管理は大変だった。特に留守を守る奥様の仕事は大変で、ご親戚の方々も随分と協力された。広い庭の草むしりも奥様と一緒に汗を流した思い出がある。学生たちがお念仏に来ると大変喜んで食事を準備して下さった。カレーの味が忘れられない。大学から帰るといつもタオルを渡された。手を洗いすぐに仏様にご挨拶のお念仏をするようにと言う計らいである。

ごく最近に奥様とお話した時に、新しい建物ができて、図書室も整備され「弁栄聖者の研究」の場ができたと大変喜んでおられた。

(4)菅野真慧様

(菅野師は祭壇の写真に向かって、奥様に直接語りかける形式で追悼のことばを述べられました。菅野師は最近まで光明園に下宿してお手伝いをしたり、留守番をしたりと大変ご活躍下さいました。それだけに奥様との思い出も新しく、インパクトのあるお話しでした。)

奥様はいつも「お念仏に会えたことは何よりもの喜びよ」と言っておられましたね。あっけなくお浄土にお帰りになり、在りし日のお姿が今も瞼に浮かびます。車を押してお買い物に行かれるお姿、仏様にお供えをされるお姿がはっきりと懐かしく蘇ります。交通事故に遭われてからお体の調子が優れない時も何事にも一生懸命取り組んでおられましたね。そんなお姿に大変尊敬しておりました。そしていつも先生のことを考えておられましたね。

ある日、三人でお食事をしている時、奥様はご自分の黒豆を手つかずに残されました。すると先生がお召し上がりになりましたね。なぜお召し上がりにならなかったのかと後で伺いますと、「主人は黒豆が大好物で体にも良いから。」とおっしゃいました。大変心に残る場面でした。

私が九州に帰る日、奥様はお土産を買いに出られ、なかなか戻られないので、帰りかけました。途中でお会いできましたね。お土産を頂いて、お別れして振り返ると奥様は道端のセメントに腰を下ろし、いつまでも手を振って下さいました。あれが永久(とわ)の別れとなりました。あのお姿が忘れられません。

いつもお念仏のご縁と大切さと説いておられた奥様、光明園が今後一層輝きを増していくようにと祈念してお別れのことばとします。合掌。

代表挨拶

(1)長谷川匡俊様(淑徳大学学長・光明修養会参与)
河波諦様は昭和37年に淑徳短期大学の女子学生寮の初代寮監として勤務された。寮の学生に念仏の大切さを説き、あちこちの別時に学生を連れて参加するなど、縁づくりに臆することなく取り込まれた。その後、高等科の家庭科の教師として10年間勤務された。また大巌寺別時が開催されるようになると長谷川よし子先生に協力して尽力された。
(2)金田隆栄様(光明修養会理事長)
光明主義を発信していく上で東京はその中心地であると思う。光明園はその拠点として大変意義深い会所である。ここを守って来られた奥様のお働きに心より感謝申し上げます。特に「縁づくり」の推進力となって、その生涯を捧げて下さいました。それに応えるべく、今後の光明会の更なる発展を祈念してやみません。

聖歌斉唱

聖歌はいずれも谷慈義氏によるオルガン伴奏で斉唱しました。それぞれの場面で歌詞の内容を味わいながらみんな心を一つにして歌いました。河波上人がよくご法話でお話しになるように、宗教的情操は音楽によって培われるのが実感できました。特に「のりのいと」は歌詞、旋律共にひとの心を捉える何かがあると思います。

茶話会

閉式の後、テーブルにご馳走が並びました。久しぶりにお会いする人もあり、あちこちで会話が弾みました。奥様がお浄土から満足そうに微笑んで見ておられるだろうと思いつつ歓談しました。河波上首上人のお礼のことばにもありましたが、3月14日は善導大師のご命日でもあり、大変意義深い一日でした。
この会の準備から後片づけに至るまで献身的にご尽力下さった佐藤蓮洋様を始め、仏教塾の皆様に心より感謝申し上げます。

一行三昧

田代 直秀

◇日時 3月6日(土)
◇会場 光明園
◇導師 金田昭教上人
◇参加者 15名

一昨年春から、毎月の念仏会に金田昭教上人に導師をお願いし、念仏会の指導に合わせて、ご法話を頂いておりましたが、光明園の都合によりご指導は今月をもって終了する事になりました。
最後の念仏会では、午前中にお念仏の発声法や呼吸法についての実践指導があり、2名ずつ順番にお念仏を唱え、個別指導を受けました。今まで余り気をつけずに唱えていたお念仏をそれぞれに再度見直した有意義な会でした。
午後のご法話はこの一年のお話の集大成ともいえる「念仏実践法」という題で、多くの資料を用意され、

  1. 見仏
  2. 間口と奥行き
  3. 高声念仏と呼吸
  4. ホルモンと精神との関係
  5. 和顔と念死念仏

とどれも、大変有益なお話を分かり易く熱をこめて話されました。

中でも私には2.の話が強く印象に残りました。法然上人が其の時代に即して多くの大衆を救う事を第一義に考え間口を広げる説法をされたが、決して奥行きを深める事を軽んじられたわけではなかったという事。

いつも時代背景が大切で、当に現代の宗教もこの事を充分考えねばならないと思いました。

念仏会が終わり、しばし金田上人を囲んで次々と思い出を語り合った後、植西さんから感謝の花束が贈られ、一同記念写真を撮りました。

若さ溢れる力強い昭教上人のお念仏の声を思い出して、今後に受け継いでいかねばと思っています。

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