光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成22年6月

一行三昧の会

植西 武子

◇日時 平成22年4月4日(日)
◇会場 光明園
◇講師 谷慈義師
◇参加者 18名

本年度最初の「一行三昧」の会のため、河波上人から挨拶がありました。この会は昭和27年に始まって原則として第一日曜日で実施してきた。途中少し途絶えたこともあったが、昨年は金田昭教上人を講師として第一土曜日で実施した。今年から第一日曜日として、講師は何人かの交代制で実施する旨お話しがありました。
今月の講師は谷慈義氏でした。

講話の概要

谷氏は「岡潔と光明主義」、サブタイトルとして-田中木叉上人の二つのお言葉-のテーマの下にお話を展開されました。
それは高瀬正仁著『評伝 岡潔 花の章』よりの抜粋を11ページにまとめたレジュメを準備して、要点をピックアップしながらお話されました。このテーマを選ばれた理由は、来る6月20日に淑徳大学サテライト・キャンパスで予定されている公開講座、「数学と宗教-岡潔と情緒の数学」の予備学習を意図されたものと思います。
谷氏は膨大な情報を20項目にまとめ、各項目にタイトルをつけて実に手際よく、明快に解説されました。4月は前半の10項目についての講義でした。5月は後半の10項目についてお話される予定です。

今月は岡潔と光明主義の出会い、岡潔と田中木叉上人との出会い、木叉上人のご法話の影響、岡潔の数学的思索とお念仏、岡潔の不死の信念、等について大変興味深いお話でした。参加者に更に知りたい、勉強しようというモティべーションを与えた内容のあるお話でした。

茶話会

茶話会でも話題が岡先生について多く語られました。光明主義の大先輩であり、世界的な数学者の足跡を辿り、今一度その根元的な思想に触れてみる必要があるように思いました。6月の公開講座に多くの方が参加され、内容の深い会になることを願っています。

念仏と法話の会

植西 武子

◇日時 4月18日(日)
◇会場 光明園
◇導師 河波定昌上首
◇参加者 28名

好天気に恵まれ暖かい一日でした。正午少し前に光明園の玄関に入りますと、河波上人のお声と違う講話が聞こえてきました。誰だろうと思って二階に上がりますと、佐々木有一氏がお話の最中でした。拝聴できたのは終わりの部分の僅かで残念でした。

佐々木氏は4ページのレジュメと3枚の資料を準備してのお話でした。「如来様の七不思議」というテーマで3回に亘る講話計画が示されていました。即ち、4月が第一から第三の不思議について、5月は第四と第五、6月は第六と第七の不思議についてと言う予定になっています。後からレジュメに目を通させて頂きました。いつもの事ながら非常によく勉強されていることに感心しました。誰にでも理解できるようにと分かりやすく噛み砕いてお話しされました。

ご法話

午後は約1時間のお念仏の後、河波上人によるご法話がありました。最初に「所依教典(よりどころとなる教典」からお話を導入されました。浄土宗では言うまでもなく、浄土三部経がそれに相当する。即ち、
①無量寿経(スクハバティ・スートラ 2巻=ラージャ・スートラ=大経)
②阿弥陀経(スクハバティ・スートラ 1巻=スモーラー・スートラ=小経)
③観無量寿経

光明主義の「所依教典」は何かという問に対して田中木叉上人は「宇宙全てがその所依教典である。」と答えておられる。即ち、自然界の森羅万象全ての中にもその神髄が秘められていると言うことである。弁栄聖者の次の二首からもそれを伺い知ることができる。

あめりかの 山の奥にも 聞こゆらん
その風の音 般若波羅密
あふりかの 山の奥にも 聞こゆらん
風の音さえ 般若波羅密

※『観無量寿経』について

一つの教典が何通りにも訳されて居ることが多い(時には14通りに訳されているものもある)中で、『観無量寿経』は漢訳一つのみが存している。現在、マックス・ミュラによる漢訳からサンスクリット訳へ、更に英訳へのプロセスを経た経文を見ることができる。(例、「摂取」がprotect and embraceと英訳されている。)「南無阿弥陀仏」の語が出てくるのは『観無量寿経』のみである。

・於念々中 除八十億劫 生死之罪(念々の中に於いて、八十億劫生死の罪を除く)
・無量寿仏有八万四千光明 一々光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(無量寿仏に八万四千の随形好あり、一々(随形)好に複(また)、八万四千の光明あり、一々光明は遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。)

上記二つの文は共に『観無量寿経」の中の文である。唐の時代の善導大師はこの『観無量寿経』等によって『六時(往生)礼讃』中でも「日中礼讃」を編しておられる。達磨大師も最も古い資料である文献では「終日合掌南無」と念仏しておられたのである。

経典の中の「一々各々性」とはどこを取っても一つ一つが絶対であり、その一つの中に全体が含まれていることを意味するのである。即ちその一点に集中している。一つの光明の中に宇宙が出現していると言える。私たちもその一点に集中して念じることが大切である。玄奘三蔵はこれを「一相荘厳三昧」と表した。『文殊般若経』の中では「一行三昧」と表されている。

『観無量寿経』の世界は非常に深いものがある。一点に集中することによって阿弥陀様に触れていくのである。この一点に集中することを、P・ナトルプは「存在の点化」と呼んでいる。

かの有名な俳句 「古池や 蛙飛び込む 水の音」(芭蕉)の古池は「わびの世界」を表し、蛙が飛び込んだ所にわびが点化されているのである。

仏道修行はまさにこの一点に点化することに尽きるのである。沢庵和尚が剣聖、柳生但馬守宗矩に剣道の極意を説いた『不動智神妙録』は最初に「恭敬修」を教えている。「恭敬修」ができて初めて精神集中が成るのである。前後際断はまさに点化なのである。「点」とは「自己の消滅点」なのである。

念仏三昧は一点に集中して、自分が無くなるまで至らねばならない。一点に集中した念仏三昧の中に無限の光明の世界が展開されてくるのである。

称うるも 我にはあらで みほとけの
み声と知るに 尊とかりけり  (跡見花蹊)

ハイデッカーは、「存在について考えることはまさに、存在から呼びかけられているのである。」と述べている。
河波上人は一念一念を大切に精進するようにと結ばれました。

茶話会

午前中少なかった参加者が午後にはいつもの人数となりました。茶話会も二ヵ所に分かれて楽しく歓談しました。今月は九州から90才を越えたご婦人が参加されました。東京に住む娘さんご一家に同居されるようになったぞうです。初めての光明園例会への参加をとても喜んで下さいました。とても90才を越えておられるようには見えず、テキパキとしておられるのに感心しました。熱心にお念仏に励んでこられた証と拝察しました。念仏の功徳の実例に触れさせて頂いたようで、更に精進しなければと励まされました。お孫さんが車で送迎されておりました。ご都合がつかない時もあるかと思いますが、これからもお元気で参加下さることを念じています。

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