光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成23年7月

一行三昧の会

◇日時:平成23年5月8日(日)
◇会場:光明園

念仏と法話の会

植西武子

◇日時:平成23年5月15日(日)
◇会場:光明園
◇導師:河波定昌上首
◇参加者:30数名

木々の若葉が目にしみるさわやかな五月晴れの日でした。いつものように午前中はやや参加人数が少なかったですが、午後になると道場はほぼ満席となりました。
今回は3時より光明園役員会が予定されていたため、お念仏とご法話は少し短縮して実施されました。

ご法話

今年は法然上人800回忌の年でありますので、ご法話は法然上人伝記とその教えを中心にお話を展開されました。(本来はこの5月に京都・総本山知恩院でその式典が挙行される予定でしたが、東日本大震災のため秋に延期されました。)

法然上人の徳を偲ぶ式典は勿論大切であるが、ひとりひとりの念仏の中に報恩感謝の気持ちが起こることがより大切である。

従来、法然上人を語る時、その伝記である『勅修御伝』によって伝えられてきた。これは後伏見上皇の勅命によって、上人滅後百年に天台宗の僧によって編纂されたものである。

その後、時を経て大正6年に醍醐寺(真言宗)にて別の伝記が発見された。これを通常『醍醐本』と呼んでいる。これは法然上人の直弟子達によって記されたものであるので、かなり詳しく上人とその弟子たちのやりとりがまざまざと描かれている。特に法然上人の臨終のお姿が詳しく記されている。

例えば、
①その頃は死んで行く人の後ろに仏像等を立てる習わしがあった。しかし、法然上人はそのようなものは不要とされたこと(当時は臨終念仏がよく行われたという背景があった)。
②また、法然上人の前世のことが語られてもいる。嘗ては天竺に生まれ、今は日本に生まれて天台の僧となっている。等々。
③また、『醍醐本』の中には法然上人の「悪人正機」についても一言及されている。従来は『悪人正機』は親鴬上人が説き、法然は「善人正機」説とされていたが・・・
④更に、次のようなエピソードも記されている。ある日、誰かが「お上人様よ、あなたはお浄土に行かれるのですか?」と尋ねた。すると上人は「私はもともとそこに居たので、還るのです。」と答えられたと言う。

「行く」ではなく、「還る」が重要な意味を持つのである。日本に仏教が導入されるまでは「他界信仰」であった。「行く」は「他界信仰」の概念である。しかし、民俗学者の柳田国男は「日本は仏教国になったように見えるが、他界信仰の範囲に止まっている」とも評している。他界信仰の枠から超えられていないと言うことである(根源を忘れ、形式化した仏教への痛烈な批判である)。

法然上人の「還る」は、それを突き破っている。その根源は「本国に還る」に尽きるのである。この思想は古くから西洋にも根付いていた。例えば、古代ギリシャの哲学者タレス(Thales)は常に「万物の根源」を追求していた。また、プロティノスは
「一者」なる表現を用いて、「万物は一者から出て一者に還る。」とし、「一者は根源にして目的である。」と言った。

弁栄聖者も同様に「阿弥陀から出て阿弥陀に還る」と説かれている。

「私は何処から来て、何処へ帰っていくのか?」

ここに「ふるさと」の観念が生じる。ハイデッガーは1950年代に「20世紀は水素爆弾の危機にあるが、それよりも更に最大の危機は『ふるさとの喪失』である」と述べている。

死の恐怖からの脱却は安心して帰って行く「ふるさと」があることを知ることである。念仏することによって還って行く故郷、お浄土を知ることは大きなよろこびである。

プロティノスの研究者であるバイエル。ヴァルテコ(ドイツ)の弟子の小田川方子は弘法大師に興味を持ち、研究する中で次のような詩を引用している。

阿字の子が 阿字の故郷 立ち出でて
又立ち還る 阿字の故郷

田中木叉上人も「ふるさと」について一首詠んでおられる。

坂三里 つらさが楽し 里帰り
青葉の彼方 桃の咲く家

河波上人はご法話の最後を次のように結ばれました。
現代は混迷の時代である。21世紀後半に向けて人類はどうなっていくのか? 宗教界(浄土宗)ではその危機意識も無い現状にある。この800年忌に光明会も何らかのアピールをすることが大切である。
聖者の『宗祖の皮随』は非常にすばらしい内容であるにも拘わらず、宗門で注目する人が少ないのは至極残念である。
かつて、九州に波多野諦道上人なる人が弁栄聖者の偉大さを理解し、九州にご縁を結ばれた。
その尽力によって、光明主義がまず九州に成立し、更にその光明主義の大系が構築された。
弁栄聖者は全国各地にご縁を結ばれたが、それが充分に伝わっていない処もある。

善導大師の『広開浄土門」の精神で、広く開かれた宗教として光明主義の発展に各自が努力していかねばならない。800回忌を一つの契機として・・・

茶話会

今月は阿部久米さんが初参加の娘さんを伴って参加下さいました。阿部さんは人生の後半になって京都佛教大学で仏教を学ばれました。その学友が岩崎念唯上人でした。そのご縁で河波上人に会われ、ご法話にすっかり魅せられて、光明園に来られるようになりました。過日の「婦人の集い」でも大変前向きな意見を述べて下さいました。自分の意志で自ら求めて得た宝物は人から与えられたものより一段と素晴らしいものと思います。親子共々で参加されるようになればとひたすら願っています。途中退座しながらも、心温まる茶話会でした。

柏市主催「山崎弁栄展」拝観記

田代直秀

6月9日、関東支部の役員6名で、柏市郷土資料展示室に於いて開催されている「山崎弁栄展」を拝観に参りました。

この展示会は、弁栄聖者の生誕地鷲野谷が平成17年3月に当時沼南町鷲野谷であったものが、柏市に合併された事を記念して今回5月21日から911日まで、開催されることになったものです。この展示場は、柏駅と聖者の生家の丁度中間に位置しており、子供図書館の2階にある新しい建物です。

会場に入りますと、真ん中に聖者がこれを弾きながら布教された光明園収蔵のアコーデオンが展示され、その周りを聖者直筆の書画・机等記念品がすべてで39点の展示品として飾られておりました。
正面には「鷲野谷が生んだ大正の法然」として弁栄聖者が紹介され、阿弥陀三尊図を始めとして観音様や菩薩様の活き活きとしたお姿が紹介されておりました。
そして、どの作品にも保存されていた方のお名前が書かれており、その協力いただいた十余人の方たちは、高柳・片山・泉・名戸ヶ谷といったこの近くの土地に住んでおられ、直接聖者から頂いた作品を大事に保管されておられた事が、展示品からもうかがえました。
此の展示会を担当されている高野博夫氏に作品蒐集の経緯をお聞きしました。

「昭和60年に同様の遺墨展が開催され、その記録が市役所に残っており、その時に出展された方々にお願いして集めました。紛失しているものもありましたが、実はまだまだ沢山の遺品があるのですが、場所の関係で今回は39点に限らせていただきました。」
そして、折角の企画なのに、地元では聖者の事を知らない人が多く、この企画展も少々淋しい状態とのお話で、次にシンポジウムを予定しているとの事でした。
時期は8月27日(土)午後で、昨日河波上人から講師承諾のお返事を頂いたと喜んでおられました。
未だ当分続くこの展示会、そしてシンポジウムを通じて、郷土が生んだ素晴らしい聖者を理解する人々が増えることを念じつつ展示館を後にしました。

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