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関東支部だより

関東支部 平成23年10月

平成23年8月関東支部報告

第九回企画展シンポジウム 山崎弁栄 ―鷲野谷が生んだ大正の法然―

伊藤 力

◇日 時:8月27日(土)
◇会 場:企画展 郷土資料展示室(千葉県柏市沼南庁舎第一庁舎2階)、シンポジウム 沼南公民館大ホール
◇参加者:支部より13人 シンポジウム300名

企画展

その資料の「はじめに」を読むと、

明治の終り頃、アコーディオンを弾きながら手賀沼のほとりを布教する、一人の僧侶がありました。その後には子どもたちが列をなし、説教所には大勢の人々が集まりました。
彼の名前は山崎弁栄、地元の人々は親しみを込めて弁栄上人と呼んできました。良寛和尚のように教科書には載っていませんが、その生涯をかけての教学研究・布教活動から「近代日本を代表する宗教思想家」「大正の法然上人」というような評価をうける傑僧です。

とあり、この展示を通じて鷲野谷出身の聖者の遺した書画などを、人々に教え広めたいということで、企画主催たる柏市教育委員会は「鷲野谷が生んだ大正の法然」という表題をつけたことがわかりました。

展示室に入ると早速目に飛び込んできたのが青色の手風琴です。アコーディオンというと、え込む大きさのものをイメージしますが、実際には両手で軽く操作できる小さなものであり、非常に凝った芸術品で手風琴とはよくいったものです。

基調講演で河波先生からお話がありましたが、ドイツ製のこの品は今や一つもドイツには残っていないそうです。それだけ大変貴重なものといえます。

展示室は大きくは「郷土の偉人 ―弁栄上人誕生―」「インド巡礼」「上人の遷化 ―越後・極楽寺―」に分かれ、その間には「如来さまのおつかい ―墨蹟と仏画―」ということで書画が展示されています。それらは私たちが目にしたことのある火防の「火伏せの竜」や両手同時書きの和歌、いろは歌、短冊、またインド巡礼の折、ブッダガヤ菩提樹下から持ち帰った砂、土で作成した釈迦聖像もありました。他にも大日如来の画、細字線描釈迦三尊など。

ところで、聖者は鷲野谷の生地をどのように詠んだかという歌がありました。

ふるさとはいづこと聞わば下ふさの
手賀の浦べのわしの谷の里
12歳の作と伝承

基調講演

河波先生は『弁栄上人の生涯と思想』というテーマで講演しました。

一、禅と念仏。禅と念仏は本来別のものでなく一つのものとしてあった。それは時代が下がるとともに別のものとみなされ宗派として確立した。しかし、聖者は念仏を徹底することで宗派を超え、聖者の中で統合されていった。

二、浄土宗を徹底的に広められたが、やがて他宗派とのへだてを超えてキリスト教にもおよび、「仏教の中にキリスト教の真理があり、キリスト教の中に仏教の真理がある」とまで自内証を深めていった。

「日本的霊性」。これは昭和19年に鈴木大拙も発表している。鈴木大拙は日本的霊性の始めを鎌倉時代とみている。一方、聖者の日本的霊性の発言は鈴木大拙よりおよそ50年先駆である。

20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「人間の最大の危機は核の脅威ではなく、故郷の喪失が最大の危機だ」といった。聖者もまた得度前は篤農家の長男として大地に根ざした人であり農事に励まれた。それは日本的霊性を育んだともいえる。そうであるならば日本的霊性の始まりは一万六千五百万年前の縄文期まで遡ることになる。

三、従来の浄土教は死後を大切にするけど、念仏は現世の救いとなる。

シンポジウム 『弁栄上人を語る』

パネリスト紹介(3名)
河波昌先生 浄土宗の僧侶。1960年京都大学大学院文学研究科博士課程終了。東洋大学において同大学付属東洋学研究所所長などを歴任。現在、東洋大学名誉教授、光明修養会上首、米国学士院終身名誉会員、日本宗教学会名誉会長。比較思想学会、日本ヤスパース教会、日本クザーヌス学会等の理事評議員を務めるとともに、宝塚造形芸術大学大学院講師。
川本勝彦先生 時宗善照寺(柏市布施)僧侶。柏市史編纂委員。藤沢市の藤嶺学園の理事長。
八木英哉先生 浄土宗医王寺(柏市鷲野谷)の副住職。鷲野谷は弁栄上人が生まれ育った地であり、医王寺は、弁栄上人が明治12年、21歳のときに得度式を挙げて出家した寺。

シンポジウムの概略

八木英哉先生──

聖者が得度する前に、『鷲野谷学校』なるものが医王寺内にできた。そこに千葉師範学校を卒業したばかりの新進気鋭の教師が赴任してきた。名を石川倉次といい後年(フランスの盲人ブライユの考案した方式を五十音に応用して)日本式点字を考案し「点字の父」といわれた。当然若き日の聖者との出会いを調べたが、分からないということであった。

医王寺には薬師様があり眼病や耳の治療にご利益があるとされ、それらの病に苦しむ者も多く訪れたという。これが点字考案の動機としている。

また聖者の名の「弁栄」の由来を、当時の医王寺住職の山崎徳恵上人の誉号が弁誉と称したので「弁」を採り、恵は呉音でエと発音するところからエに「栄」を採用したのではないかとしている。

近くに善竜寺という寺があり広瀬堅信なる僧侶と親しく36寺の往来もあった。後年広瀬上人は真言宗豊山派の管長になり、聖者と旧交を温めたという。

川本勝彦先生──

パネラーの後ろに聖者のお写真が大きく映し出されているのを指して、この写真は大正7年9月新潟県長岡市法蔵寺で撮ったもので、最も脂ののった頃であり、時宗の様子が伺える。それは手にお持ちのものが時宗独特のもので『持蓮華』という。聖者はその翌月の十月に当麻山無量光寺の六十一代のご法主になられるが、その一月前に手にしていることを指摘された。

また、川本先生が理事長を務める藤嶺学園は藤沢市にあり、箱根駅伝で通る遊行寺坂のある寺ですと紹介された。遊行寺の本来を清浄光寺といい、無量光寺とともに十二光仏と関わりがあることもまた指摘された。環境においても、手賀沼と田園地帯、相模川と田園地帯と似た風土に共感を持ったのではないかと推論した。

河波昌先生──

アコーディオンを発端として聖者は、音楽に興味をもたれた。音楽の重要性として、大乗仏教の起こりも音楽を伴ったものである。また『華厳経』も音楽経典といわれる。新しもの好きの聖者はアコーディオンの他にオルガンも弾いたとのことでした。

筆者の感想

弁誡上人のご本によれば、地元では念仏好きな弁栄さんということで親しまれていたそうです。この会場もなにかとご縁のある方々が多いようで大変熱気がありました。地元でしか聞けない話もあり有意義な企画でした。

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