光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年3月

念仏と法話の会

植西武子

◇日 時:平成24年1月22日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇導 師:河波 定昌 上首・佐倉 聡 氏
◇参加者:36名

新年初めての例会であるので今年こそ心を引き締めて頑張ろうと言う決意の下に早朝に家を出ました。正月気分はすっかり抜けて、池袋の街は買い物客で賑わっていました。光明園に着くと既に10数名の方がお念仏を始めておられました。
今月は河波上首上人の体調が未だ充分回復されておられないので、前半は佐倉聡氏が、後半は河波上人がお話しされました。

佐倉聡氏は河波上人の教え子(大学時代)に当たる方で、現在は川越方面で神官をされています。非常に熱心な河波上人の心酔者でもあります。御家族4人(奥様、二人の男児)そろってよく光明園の例会に参加されております。

ご法話

1.佐倉聡氏のお話の概要

まず、人前でえらそうなことを言う前に自分に謙虚であれと言うことを、江戸時代中期のある尊者への母からの戒めの手紙を例にお話を導入されました。弁栄聖者の場合も説法とか講話といった表現でお話しされたことは少ない。

弁栄聖者は晩年、新潟での説法の中で大ミオヤと衆生との結縁を願って語っておられる。一つは阿弥陀様と全ての衆生との絆について、そして二つにはその絆のためのお念仏の大切さについて。要は念仏の生活に尽きると言うことである。

光明会について言えば、大ミオヤと言う語をよく使う。『礼拝儀』の中に見られる大ミオヤに対して兄弟と言う表現は大ミオヤの中の血の通った仲間といえる。大変暖かいものが感じられる。

最近のヨーロッパの宗教の動向を見れば、カトリック信者の数が減少している。そしてイスラム教徒へと転向している。教会に人が来なくなって、そのメンテナンスに苦慮していると言う現状にある。日曜日に教会に行く人はわずか2%である。その一方で「あなたはこの宇宙の中の何かを信じますか?」と言う問いに98%の人が「ハイ」と答えている。これは既成宗教に対する拒否反応である。

彼等は何か別の偉大なるものを求めている。宗派性を超えた何かである。阿弥陀(a-mita)即ち計ることの出来ない何か大きなもの、宇宙の something great である。ここに弁栄聖者の光明主義の重要性が浮かび上がってくる。

何よりもリアリティに富んだ宗教的実感が大切である。一番注意を引くことは人間に生まれた尊さと念仏できることの有り難さを説く言葉である。

2.河波上人のお話の概要

今回は四苦(生、老、病、死)についてお話し下さいました。まず、①生まれてくる時の苦しみは大変なものである。それは前世の苦しみを背負っているからであるが生まれる時に忘れると言われている。

次に②老いの苦しみは大半の人が個人差はあるが日々経験している事である。

③病についても誰も避けることが出来ない問題である。お釈迦様も弁栄聖者も経験されたことである。

④の死の克服は最大の課題である。厳然として死者の世界が在る事実を認識することから、日常生活の中で「死」をどう克服していくかが問題である。それには「念仏」しかないのである。どうすれば生死を脱却できるか? 『選択集』の16章の中に述べられている。法然上人も、善導大師もこれに取り組まれている。それに関して『往生礼讃』の中で6回繰り返されている偈文とは「哀愍覆護我 令法種増長 此世及後生 願仏常摂受」である。

「発願文」の中にある「命終の時、心錯乱せず、失念せず、顛倒せず」である。

生きている時も死ぬ時も阿弥陀様に護られていることを信じて念死念仏することが大切である。

ご回向

今月は河波上人の奥様と光明会員の阿部久米さん(女性の頁に投稿下さった方「昨年の8月号」)と仏教塾の若い女性の方のご回向がありました。つい最近までご一緒にお念仏をさせて頂いていたお姿を思い浮かべて心よりご回向しました。まさに「会者定離」を実感させられました。

南無阿弥陀仏

茶話会

今月は新年最初の会でもあり、参加者が多く盛会でした。久しぶりの「念仏と法話」の会でしたので、誰もがゆったりとした気分でおられるように見受けられました。特に始めての方が何人かおられ、和やかに歓談しました。佐倉さんの小学生のお子さんは男の子ですが、とても気転がきいて甲斐甲斐しく、茶菓の接待を手伝ってくれました。

お上人様はお疲れですのに最後まで付き合って下さいました。お上人様も久々の会をお喜びだったと思いました。奥様のご回向をみんなでできたことは嬉しいことでした。

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