光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年4月

念仏と法話の会

植西武子

◇日 時:平成24年2月26日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇導 師:河波 定昌 上首・佐倉 聡 氏
◇参加者:34名

午前中は二十数名でのお念仏でしたが、昼前からだんだんと参加者が増えてきました。お念仏の途中で聖歌「聖きみくに」を谷慈義氏の伴奏で歌いました。
午後は1時間ほどお念仏をして、聖歌「七覚支」を岩下玲子さんの伴奏で歌いました。その後、ご法話となりました。今月は前半を佐々木有一氏が、後半を河波定昌上首がお話し下さいました。

ご法話

(1)佐々木有一氏のお話の概要

佐々木氏は昨年5月の「法のつどい」でお話しされた「ありがたいとは不思議ということ―光明主義の七不思議―」の内容を少し詳しく掘り下げてお話し下さいました。

その前に光明園から毎月刊行されている『光明短信』1月号に掲載された『御慈悲のたより』からの抜粋文をみんなで声を合わせて読みました。人が読むのを聞いているより、自分で声を出して読むことによって、意識化され、理解が深まるように感じました。

また、その中の一文「光明のなかに新たに生まれし初蓮のきよき我同胞よ」について解釈して下さいました。この「新たに生まれし初蓮」には両方の意味がある。一つは「蓮のうてなに化生する」と、もう一つは「蓮のつぼみに胎生する」である。

物が生まれるには四通りの形がある。即ち、①胎生(親と同じかたちで生まれてくる)、②卵生(卵として生まれて孵化する)、③湿性(カビが発生するように、じめじめしたところから生まれる)、④化生である。①~③は自然界での現象で、④は心霊界でのことである。これいよって「本仏」と「迹仏」が強調されている。

本題の「ありがたいとは不思議ということ―光明主義の七不思議―」については平成23年8月号の「ひかり」に掲載された記事のコピーを配布して、それに基づいてお話しされました。(内容は重複するため省略)

はじめにチャート(佐々木氏自作の光明大系図―「ひかり」誌25頁)についての説明がありました。うまく図式化されているので理解しやすく思いました。

本論では特に第一の不思議の「無量寿如来と念仏衆生は親子の関係」を中心にお話しされました(特に付加された部分のみ)

我と汝(客体)の関係について弁栄聖者は「如来は主観的客体である」と述べておられる。これは「法身に人格あり」に疑問をもった恒村夏山先生の質問に対して答えられたと言う。「主観的」とは「信仰によってのみわかる」を意味し、「客体」は自然界の人ではなく心霊界の存在である。

主体と客体の関係はあくまで仮の関係であり、信仰が進むに随って「主客未分」に気づかされるのである。即ち大我に目覚めるのである。

(2)河波定昌上首お話の概要

今月は「聖者より大谷仙界上人に賜りし御慈悲のたより」についてお話しされました。まず冒頭に「これは大乗仏教二千年の歴史が集約されており、その神髄が含まれている」と述べられました。

  1. 「すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ」
    「すべて大ミオヤにおまかせして」は本覚法門であり、「常に大ミオヤを念ず」は始覚法門である。この二つが分かれて対立していた。例えば浄土真宗は「おまかせ」のみで、浄土宗の鎮西派はおまかせを重視しない。
  2. 「大ミオヤはいつも離れずにあなたの真正面に在して」
    これは「不離仏」「値遇仏」である『大品般若経』では空のみでなく、念仏三昧を説いている。
  3. 「あなたは其のみをおもうて専らにしてまた専らなる時は」
    これは一心不乱に念仏することである。『阿弥陀経』の中に「一心不乱する」とある。一心不乱にはならなくても、一心不乱することはできる。それは阿弥陀様の中に「三昧定力」という力が働いているからである。(真言宗では「法界定力」と言う)
  4. 「あなたの心は弥陀の御慈悲の面にうつり御慈悲の面はあなたの心にうつり」
    この「うつる」は「移る」、「映る」、「写る」を含み全面移動するのである。「すむ」も同様で「澄む」「住む」「済む」の全ての意味が含まれている。実に日本語のことばの深さに感じ入るのである。
  5. 「面するとそれがだんだん深くに入るに従いてあなたの心はなくなりて」
    最初、自分が念仏をしていても、やがて自分が無くなり、空が実現するのである。念仏すると空が悟られるのである。そして観自在、平等の境地に至るのである。
    『華厳経』の中で「平等」とは何かを追求している。また『維摩経』でも「男も女も平等である」と説かれている。男性とか女性とかから解放されて、そして自分自身も無くなっていき、最終的に阿弥陀様と一体化されていくのである。『維摩経』(vimala)に「念仏三昧をもって父となし、般若波羅密をもって母となす」とある。この二つはずっと一体化して展開されてきたのである。

阿弥陀仏と 心は西に 空蝉の
もぬけ果てたる 声ぞ涼しき   (法然上人)

この歌のひとことひとことに深い教えが凝縮されており、しかもそれが事実として我々の上に実現してくるのである。

茶話会

この後に光明園の役員会がありましたが、3時半頃までみんなで歓談しました。二ヶ所にわかれてなごやかなひとときを過ごしました。最近新しく二名の女性の方が積極的に参加下さるようになってとてもうれしく思いました。

その一人の岩下さんは今回、聖歌の伴奏をして下さいました。谷さんがおられない時は伴奏なしで歌ったり、河波上人ご自身が伴奏して下さっておりました。

午後の聖歌を歌う時に河波上人が突然、岩下さんをご指名された時、大変驚きました。まず、お上人様はどうして岩下さんがピアノを弾かれることをご存知だったのか。さらに、その方のお力が生かされる場をさりげなくつくられた事にさすがお上人様と感心した次第です。人に対する細やかな配慮こそ、組織の運営に欠かせないものと思いました。

一行三昧の会

佐藤蓮洋

◇日 時:平成24年2月5日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇講 師:高橋敏子(妙智)氏
◇参加者:10名

光明園の庭の紅梅も今年は寒さのために開花が遅れていましたが、やっとほころび始めて楽しみになってきました。

午前中は、お念仏、『如来光明礼拝儀』を称え、聖歌を唱いました。午後は、お念仏と高橋氏の「如来光明礼拝儀と六時礼讃(日没礼讃偈)」というテーマでお話がありました。高橋氏は昨年の暮に浄土宗伝宗伝戒道場を成満しました。その時の道場での体験をもとに「毎日、晨朝法要、日中法要、日没法要、初夜法要、中夜法要、後夜法要を繰り返しお称えしました。これら法要の中で、道場生は善導大師の六時礼讃(往生礼讃)を称えながら礼拝をしました。その中の日没法要で称える日没礼讃、日没礼讃偈が私の一番心を惹かれた偈文です。

日没礼讃以外の5つの礼讃は、「南無至心帰命礼西方阿弥陀仏」という句頭で始まり、阿弥陀仏一仏を奉るのですが、この日没礼讃は「南無釈迦牟尼仏等一切三宝我今稽首礼」という句頭で始まり、釈迦牟尼仏と一切の三宝に帰依し奉るのです。そして、十二の光仏を讃嘆し、称名し礼拝するのです。弁栄聖者の『礼拝儀』に「如来光明歎徳章」があり、光明主義は『無量寿経』の「如来光明歎徳章」を拠り所とし、核心に据えています。宇宙の真理はあまねく十二光によって尽くせり、と光明三昧をもって主義となされたのです。明治34念、弁栄聖者43歳の時でした。『無量寿経』『六時礼讃』『如来光明礼拝儀』とつらなる十二光仏を称えていたことに感動しました」と述べられました。

お念仏後の茶話会では、3週間の道場で六千回の礼拝が行われたことなどが話題となり、道場に参加された方々へのご苦労がねぎらわれていました。

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