一行三昧の会
炭屋昌彦
◇日 時:平成24年3月4日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇導 師:佐藤蓮洋氏
◇参加者:10名
光明園の庭の紅梅は満開となり、白梅もやっとほころび始め、春の気配が楽しみになってきました。とはいっても、本堂の暖房はまだ全開。今回は大木魚を担当したので、汗かきの私としては、途中から手ぬぐいの世話になりました。
午前中は、お念仏、如来光明礼拝儀を称え、谷さんの伴奏で聖歌を唱いました。午後は、お念仏と佐藤氏の「妙好人 荒巻くめ女」のお話がありました。「くめ女は1854年に福岡県粕屋郡に漁師の長女として生まれ、30歳のときに桶職人の荒巻貞二さんと結婚されました。ご家族とのご縁が薄いかたで、両親はくめ女が27歳、28歳のときにつぎつぎに亡くされ、5人の弟もくめ女が44歳までに4人亡くされています。若いころから信心深い方で、篠栗霊場詣り、四国八十八か所霊場詣り、五重相伝、別時念仏等をされています。弁栄聖者とはくめ女61歳の時に値遇され「心にかかる雲が晴れ、死の不安もなく、ただ生きることが嬉しく・・・」と語ったそうです。1925年、72歳で亡くなられるまで、お念仏はもちろん、一千日の朝詣り、山での参籠など厳しい行もされています。50代から道詠歌をつくられました。「火の車おのが作りて我が乗る おのが心は我は知らない」「あみだぶと称うる口で人そしる 悪魔まねきのこととなりぬる」などは、私自身の戒めの歌ともなっています。仏様とお会いされて「阿弥陀仏の親に対面させ給う 元祖の御恩何と報ぜん」と歌われ、大安心の中での光明の生活であったようです。弁栄聖者はくめ女に「法の親の女房を分かつ篠栗の わがともだちのなつかしき」というお歌を贈られています。お念仏に徹し、見仏された方がいらっしゃるということが、とても嬉しいことです。」と結ばれました。
お念仏後の茶話会では、九州生まれの田代支部長に話題が集まり、九州談義に花が咲きました。
第2回 婦人の集い
佐藤蓮洋
「あれから一年、3・11に集う」
◇会 場:光明園
◇講 師:河波定昌上首
◇参加者:14名
昨年の5月3日に金田隆栄理事長をお迎えして第一回関東支部婦人の会を実施して以来、のびのびになっていた第二回目が3月11日にやっと実現しました。
3月は年度末で現職にある方々は一年で最も忙しい時期のため、若い方の参加が少なかったのが残念でした。しかし、この3月11日に実施することにこだわりました。それは言うまでもなく、東日本大震災の犠牲者への鎮魂と今後の復興への祈りのお念仏を、この日に是非やるべきと願ったからです。
※会は次のような日程で行われました。
10:00~11:00 念仏
11:00~11:20 回向・お話
11:20~12:20 座談会
12:20~12:40 後片付けと移動
12:40~14:20 昼食・懇談会
炭屋昌彦氏の大木魚のリードの下にみんなが心を合わせて一心にお念仏しました。一人一人が様々な思いを込めて犠牲者の霊に祈りました。あの日のテレビで見た映像が次から次へと脳裏を駆け巡ります。一時間はとても短く感じられました。
お念仏の後、河波上首がねんごろにご回向して下さいました。前途の夢を一瞬にして絶ち切られ、この世に深い思いを残して去られた方々に小さな小さな祈りですが、どうか通じますようにと如来様にひたすらお願いしました。その後、河波上首から「婦人の会」について、激励の言葉を頂きました。
河波上首のお話
弁栄上人は宗教教育における家庭の大切さを強調された。最近の一般の風潮として、女性が外で働くことが重視されるようになってきた。しかし、家庭を護る女性の役割は今も大きい。
その例として、ロシアはかつてはキリスト教の敬虔な国であったが、宗教を否定する共産主義の影響で、一時は崩壊したかに思われていた。しかし、信仰の伝統は家庭を通してしっかりと守られてきた。信仰における女性の役割は重要である。また、インドの勝鬘夫人と『維摩経』についても言及されました。『維摩経』は最初から最後まで、勝鬘夫人が一人でしゃべり、その後で「ねえ、お釈迦様、そうでございますね」と云った形式で記述されている。女性が活躍している一例である。
また、『維摩経』の中で「人間とは何か」を論じた中で、男女は性を超えて平等であるとも述べられている。
また、『華厳経」の中に「無性なるが故に(空なるが故に)平等である」とも説かれている。念仏の中に性の対立が消えて行き、男女平等の世界が開かれていくのである。
座談会
限られた時間内に全員が発言できるように、二つのテーマ(婦人部会の設立について・東日本大震災に思う)のどちらかで感想なり、意見を述べて頂きました。
- ①婦人部会の設立については・・・
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- 母親としての家庭での役割について勉強したいと思って参加した。
- 「婦人の会」が実現すればいいのにと思っていた。この機会ができたことはうれしい。遊びにきた孫が「食作法」に興味を持って実践するようになった。小さい頃からの家庭での教育が大切と思う。
- 子供にはお念仏の力が及ぼす影響は大きいと思う。
- 光明園は念仏専修道場でお念仏をすると心が落ち着き、素晴らしい会所である。このような会がここで発展することを願う。
- また新しい「法の糸」が紡がれて、光明主義のより強い絆が出来たと思う。
- ②東日本大震災に思うについては…
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- 大震災の後、お念仏をすると近所の子供たちも自然に手を合わせるようになった。
- 福島出身であるので、一年を振り返ると、いろんな支援があったが、物質的な面にウエイトが置かれ、精神的な痛みをどのように復興して行くかが課題と思う。特に子供達がその痛みをどう乗り越えていくかが大事な点である。今日このようなお念仏の会があって嬉しく思った。
- 「婦人の会」が今日、この日に設定されたことに意義があると思う。今回の災害は多くの教訓を残したが、特に「絆」が復活したことの意味は大きい。日本の戦後の復活ができたのは「絆」があったからである。それから久しく、繁栄を極める中で「絆」はだんだんと薄れ、忘れられていった。今回、再度認識させられるに至ったのである。
- 地震の直後に1時間余りお念仏をした。その時、多くの亡くなった人の助けを求める叫びに襲われた。あの経験は忘れられない。
- 二日後に仕事関係の従業員を救うため、車に出来る限りの物資を積んで現地に向かった。サラリーも前渡しした。
- 何でもいいから、理屈はいらない。人として、出来ることを行動化することだ。
- 現地の人と外部の者との意見の隔たりは大きい。外部の者の意見の方が多く報道されている。現地の大衆は多くを語らない。現地を訪ね、行動することによって被災者との交流が深まる。
懇談会
光明園の使用に関して先約があった関係上、午後は近くのイタリアンレストランに席を移して昼食と懇談会をしました。とても和やかに歓談し、今後の計画についても話し合いました。出来るだけ皆さんの意見を取り入れていきたいと思います。
発会の趣旨はしっかりと確認しながらも、あまり形式ばらずに、楽しく一人一人が持てる力を出し合って、みんなで作り上げていく、そんな会が生まれることを願っています。正式の発会式は5月の連休中に実施する予定です。
なお、今回も田代直秀支部長、佐々木有一副支部長、炭屋昌彦氏、志村稔氏の4名の男性が協力な助っ人として参加下さいました。今後もご支援を期待しています。
念仏と法話の会
◇日 時:平成24年3月25日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇導 師:河波定昌上首 谷 慈義氏
◇参加者:24名
久しぶりに日差しの暖かい日でした。10時からのお念仏に少し遅れて光明園に着きました。いつもよりも早かったせいか、玄関に並ぶ靴の数がいつもより少ないので、「おやっ」と思いました。午前中は十数人でのお念仏でしたが、正午頃から参加者の数が増えていきました。
午前中は「晨朝の礼拝」とお念仏でした。途中で小休止として聖歌「清浄光」を谷慈義氏の伴奏で歌いました。
午後はお念仏の後、ご法話とお彼岸のご回向がありました。そして最後に「法の糸」を岩下玲子さんの伴奏で歌いました。有力な伴奏者が一人増えたことは嬉しいことです。
ご法話
今月は前半を谷慈義氏が、後半を河波定昌上首がお話し下さいました。
- (1)谷慈義氏のお話の概要
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谷氏は「『宗祖の皮随』に掲載されなかった三首の道詠」について話されました。
池の水 人の心に 似たりけり
にごりすむこと 定めなければこの歌はある時は人に対してあわれみの心を持ちながら、またある時は人を恨んだり、妬んだりする人の心の定まりなきを詠んだものである。
弁栄聖者はこれおを次のように説明されている。
- 人の心は常に一定したものでなく、種々様々に変転する。一人一日の中に八億四千の念ありと経にあるように、実に頼りにならないものである。それ故にいつも変わらない阿弥陀様に頼むのである。
- 煩悩即菩薩とは、柿の渋をしぼるのではなく、渋が変じて甘味となるように、そのまま霊化するのである。
- 人は本心を同期として活動すれば正しい人となるのに、気質(私癖)を動機として本心を動かし「不正行動」をする。
弁栄聖者は心を水に喩えて、それを「体」「相」「用」の面から説明されている。
- 「体」とは本質を意味する。水の本質は潤、湿であり、「体」は「心の本質」を表す。
- 「相」が現象を意味する。水の現象は流体・気体・固体であり「相」は「心の活動」を表す。
- 「用」は能、即ち「はたらき」を意味する。気体や固体の状態では洗濯はできない。気体では手に触れてもしに存在はわからないが、固体と変化すると例えば流水となり、大船をも破ることができる。このように状態の変化によってはたらきが変わるがその本質である「潤」「湿」の性質は失われなしい。
本心は水であるがその水は土質によって異水、変水にもなるのである。
雪の内に 仏の御名を 唱えれば
積もりし罪も やがて消えぬるこの歌はお念仏をすれば阿弥陀様の光に照らされ、その光に触れて煩悩が消滅し、身も心も柔軟になり、喜びや善の心が生じると詠んでいる。
弁栄聖者は凡夫は修行を深めなければ自分の業障の有無がわからない。御名を唱えることによって如来の不可思議の力を得て、罪が消えるのであると説かれた。
お産の時、母は苦しむ。苦しまなければならない。それは衆生に自らの業障に軽重あることを知らせるためである。(観無量寿経疏・・日想観)
さへられぬ 光もあるを をしなへて
へたてかほなる あさかすみかな
(障らねぬ 光もあるを おしなべて
隔て顔なる 朝霞かな)この歌は地球上の無限の命を育む太陽を遮ることのできる霞といえども、阿弥陀仏の光明は遮ることができないと詠んでいる。弁栄聖者は無礙光中の心相(すがた)、心用(はたらき)のもとで宗教生活をすれば自分と弥陀は相即相入、切っても切れない関係になり、心は極楽そのものであると説いておられる。
- (2)河波定昌上首のご法話概要
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お彼岸の直後でしたので、「回向」についてお話しされました。
お彼岸は過ぎたけれども、ご回向することは亡くなった人にとって意義深いものである。「草場の陰から・・・」とよく云われるように、決して人は死んだらおしまいではないのである。
田中木叉先生は死後の世界を否定することに関してきびしく批判された。
法然上人は『和語燈録』の中で回向について述べておられる。
『歎徳章』に「もし三塗勧苦の処にありて此の光明を見たてまつらば皆休息を得て亦苦悩なく寿終の後皆解脱を蒙むらん。」ともある。
河波上首は回向の力についてある実話を紹介されました。
それは昭和20念、硫黄島で日本軍が玉砕し、多くの兵士が命を落とした。終戦後日本に返還され、自衛隊が駐屯していたが、夜になると軍靴の音や叫び超えが聞かれた。その後、天皇陛下が硫黄島を訪問され、鎮魂の儀式が行われてからはそれが聞かれなくなったと云う。
銀ねむの 大木茂れる この島に
五十念(いそとせ)眠る みたま悲しき
鎮魂の歌は万葉集にもある。665年に朝鮮の白村江での激戦で多くの死者が出た。大伴家持がその回向のために歌を詠んでいる。「海ゆかば」の歌はこれに由来する。
キリスト教でも死者への供養として鎮魂に歌がある。モーツァルトの「死者のためのミサ」がそれである。
人は皆死んで行く。しかし、決してそれきりと考えてはならない。生きることは勿論大切であるが、死後はもっと大切である。
大乗仏教の「乗」とは乗り物(船)のことである。「大乗」とは生きている世界から死の世界に運んでいく船のことである。生きているうちに信仰を確立して死の恐怖から解放されることが大切である。
生きているうちにお念仏の信心を頂いておくことが大切である。更に、自分のためだけでなく、多くの人のための念仏も大切で、(椎尾弁匡師の「共生」の意義)大乗菩薩の念仏となって行かねばならない。
茶話会
いつもは二ヶ所に分かれての茶話会でしたが、今月は人数がやや少なかったので一つのテーブルを囲んで歓談しました。今回はお供えの銘菓が卓上を賑やかにしていました。特に毎年笹本心華上人から河波上首に送られてくる京都の銘菓はピンクと白の花形で、桃か桜か春の季節を演出し、ついつい皆の手を誘っていました。
今月もまた、新しい型が一人参加されました。河波上首の旧友とか、続けて参加くださればと願いました。とても和やかに楽しく話が弾みました。去りがたい雰囲気でしたが、4時近くになりましたので散会しました。