光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年7月

婦人部発会式

植西武子

◇日 時:平成24年5月4日(金) 13時~16時
◇会 場:光明園
◇参加者: 14名

前もって設定した日でしたが、連休の真っ最中でしたので、若い方は旅行や帰省等の予定があり、参加者が少なかったのが残念でした。 日程は開会式・念仏と礼拝儀・回向(為・東日本大震災犠牲者)・聖歌(法の糸)・ミニ法話(佐々木有一氏)・写経・懇親会の順で予定通りに行われましたが、最後の懇親会でいろいろな意見が続出し、一時間近く延長となり5時過ぎに閉会しました。

佐々木有一氏のミニ法話

佐々木氏は「念仏のありがたさ」についてお話し下さいました。初めて参加の方が一人おられましたので、非常にわかりやすく噛み砕いてお話しされました。そのため、よく理解できたとみなさんから好評を得ました。その概要は・・・

  1. 念仏する自分と如来との関係は「親子の関係」であること。
  2. しかし、親子と言えども、親(如来)と同様にはいかない。それは人間には生まれる前からの煩悩(阿頼耶識)があるためである。けれど一方で人間には仏性がそなわっている。仏性を磨けば煩悩を取り除くことができる。その手立てとして「念仏」がある。
  3. 念仏をした結果、どうなるのか? 死んで極楽往生ではない。生きている私が日々変わって行くのである。即ち「人格の向上」であり、「清き心によみがえる」のである。

念仏の心構え(起行の用心)についてもお話しされました。

  • 念仏する時は面前に如来を見て、お慕いし、集中して念仏すること。(如来面前有相)
  • 「南無阿弥陀仏」と声に出しはっきりと称えること。

また、「南無の二義」についても言及されました。即ち、「救我」と「度我」で、「救我」は文字通り自分が救われていくということであり、「度我」は自分が他人を救い、共に導かれていくことである。この他人の救済は何より大切であると結ばれました。

写経

前回の会議で活動内容の一つとして「写経」から始めようと言うことになりました。担当の森井摂子さんが用具の準備から指導まで、全てを引き受けてくれました。

内容は「聖者より大谷仙界上人へ賜わりしお慈悲のたより」でした。

約1時間、皆さん一心に集中して取り組んでおられました。非常に好評でした。

懇親会

卓上には沢山のスイーツが並びました。皆さんがそれぞれに銘菓を持参して下さいました。さすが「女性の集い」の雰囲気に満ちていました。最年少(小学校1年生)参加の田代華ちゃんが皆さんの写経中に甲斐甲斐しくお菓子の配分を手伝ってくれました。

田代支部長、佐々木、伊藤両副支部長、志村教務担当の4名の男性も参加しての懇親会でした。親睦をはかりながら、婦人部の今後の運営方針について討議するのが主たる目的でした。男性はオブザーバーとして参加していただきました。

話し合いを始めると様々な意見が出され、今まで以上に活発な意見交換ができました。実施回数としては2ヶ月に1度くらいの割合で開催することになりましたが、内容に関しては多種多様で司会者としてどの様に集約しようかと考えていました。

その時、意見交換を聞いていた佐々木氏が現役時代の営業の方式に当てはめて意見を整理する方法を助言して下さいました。それは①既存先の深耕と②新規先の開拓の二面に分けて意見を整理することが必要と言うことでした。

即ち、婦人部の活動を①既存先の深耕(既に信仰ある人が更にそれを深めること)にウエイトを置くか、②新規先の開拓(新しい会員の勧誘)に力点を置くかを整理することが必要と言う助言でした。両方を意図していた欲張りな司会者に大変貴重な助言を頂きました。

まず、②の新規先の開拓(新しい会員の勧誘)に力点を置くことから取り組むことにしました。写経を中心に開かれた光明園の取り組みから始めようと言う事になりました。佐藤蓮洋尼さんと森井摂子さんが中心となってスタートすることになりました。

終了予定時刻の大幅延長と言う不手際を詫びて5時30分に閉会しました。充実感のある会合でした。帰途、夕日を浴びながらよちよち歩きの婦人部の前途に希望の光が差し込んだように感じました。

一行三昧の会

佐藤蓮洋

◇日 時:平成24年5月6日(日) 10時~16時
◇会 場:光明園
◇講 師:鍵和田充生氏
◇参加者: 11名

ゴールデンウイーク最後の日曜日。光明園の庭では、梅・琵琶の実がふっくらし始め、ふきは(味つけは別として)、食卓の友となりました。

午前中は、お念仏、礼拝儀を称え、聖歌を詠いました。午後から、お念仏とご法話があり、鍵和田さんは「覚鑁上人と弁栄聖者」についてお話になりました。

ご法話の内容

廿歳の覚鑁が冬の高野山に入ったのは弘法大師空海が没して280年余後の時である。当時の真言宗は東寺、仁和寺、大覚寺などの拠点に分立し、年分度者の奪い合い、又貴顕加持祈祷、その効験を他宗派と争うというような状況で、空海の意思を継いで教学を発展させる意思を貫こうとする者は少なく、真言教団の低迷が続いていた。

平安後期には律令国家の崩壊と共に、日本仏教の性格が、貴族中心から民衆中心へと移す一つの移点でもあり、いわゆる末法思想が身心を強く支配するようになった。

巷では多数の造寺、僧兵の横暴、その他教会の頽廃、天災、社会秩序の混乱等の中で末代の凡夫にも「覚りやすく行い易い」浄土教は不安な時代の人々の心を益々捉えることなり、浄土信仰は広まっていった。

覚鑁は、29歳までに九度にわたり「求聞持法」を修した。彼は伝統的な大日如来信仰の立場を貫きながら、「五輪九字明秘密釈」を著し、大日如来が阿弥陀如来と同体異名を主張し、浄土信仰を巧みに真言宗に取り入れようとした。

弁栄聖者は浄土宗に出家する前に、真言宗善竜寺で、後豊山派管長となる広瀬堅信上人の感化を受け、真言関係の書物の読誦等もしており、「求聞持法」も修していた。

弁栄聖者の『人生の帰趣』で密教の所謂大日が今教の阿弥陀仏と同体異名に外ならず。又『無量光寿』において、弥陀とキリストの神とは同体の異名、絶対なる神に別体あるとなし。と。浄土宗における覚鑁ともいうべき性格が弁栄聖者に見られる。

茶話会では、弁栄聖者と求聞持法の関係などが話題となり、大いに盛り上がりました。

念仏と法話の会

◇日 時:平成24年5月27日(日)10時~16時
◇会 場:光明園
◇導 師:河波定昌上首・佐倉聡氏
◇参加者: 34名

11時過ぎに光明園に着きました。玄関先の参加者ノートには10数名の名前しか記入されていませんでした。最近全般にこの傾向にあるようで、午前中のお念仏こそ貴重な時間であるのにと深く自省しました。午前中の内容は晨朝の礼拝・聖歌・念仏でした。午後になると急に参加者が増えました。また、今回は河村昌一氏(この5月10日に104歳でご逝去)の特別回向がありましたので、ご子息様がお二人ご参加下さいました。

ご法話

今月は河波定昌上首と佐倉聡氏がお話しされました。ご両人の共通テーマは「宗教と音楽」についてでした。

河波定昌上首のご法話

河波上首はお話に先だって、お浄土に還られた河村昌一氏について、お話しされました。ご戒名は「攝光院念譽三昧得道居士」(by 熊野忠道副首)。

河村氏は長年、関東支部長として光明主義の信仰一筋にご尽力下さった。ご戒名をそのままに実践された一生であった。(この戒名を見て思わず息を飲み込みました。)河波上首はウイーンの宮廷礼拝堂を訪問した時にウイーン少年合唱団が歌う「死者のためのミサ」を聞いた経験からお話を導入されました。

音楽は人間形成に、また宗教に非常に重要な役割を持つ。『無量寿経』の中に「正覚大音響流十方」とある。人格が完成してくると聞こえないはずの音楽が聞こえてくるのである。

同様のことは日本だけでなく、ヨーロッパのギリシャでもピタゴラスが「天上の音楽」(musia mundana) を常に聞いていたと言う。

音楽は洋の東西を問わず、宗教に大きな影響を与えた。その例を示しながらお話されました。日本では「六時礼賛」の声に魅せられた松虫、鈴虫のエピソードや、聞こえない音が聞こえるようになると言う馬鳴菩薩の話。西洋ではルターはプロテエスタント信者であったがそのルター派の中からバッハ音楽が誕生した。バッハの音楽は第五の福音書とまで言われるほどである。

また、音楽の二つの柱として音楽の超越性と(2)遍在性についても触れられました。

音楽の質(内容)については鳴り響く音楽は佛性であり、法声であり、僧声であり、寂静であり、空・無我であり、大慈悲声であり、般若波羅密であり、十方無尽であると。

また、西洋では「グレゴリオ聖歌」が宮廷音楽から一般へと広がって行ったことなどを話されました。 弁栄聖者も音楽に深い関心を示されていた。

  あふりかの 山の奥にも 聞こゆらん
  風の音さえ 般若波羅密

  あめりかの 山の奥にも 聞こゆらん
  その風の音 般若波羅密
               (弁栄聖者)

佐倉聡氏の講話

佐倉氏は前半は「音楽と宗教」について語られ、後半はご自身でのフルートの演奏とキリスト教の賛美歌を詳しく解説を入れながら聞かせて下さいました。

宗教の中で音楽は非常に重要視されている。特に宗教儀式の中の音楽には伝統の重みが感じられる。

弁栄聖者はなぜヨーロッパの手風琴を用いて音楽を取り入れたいと思われたのかが理解できる。(聖者が当時、愛用されていた手風琴が光明園に保管されており、佐倉氏の依頼で当日仏前に置かれていた。)

禅宗が哲学的であるのに比して、浄土宗は情感的である。弁栄聖者は当時、実際にバッハの音楽を聞いておられたのではないかと思われる。

「グレゴリオ聖歌」は当時はラテン語のみで歌われていた。しかもそれが聞けるのは一部の富める人達であった。

マルチン・ルターの出現によって、(いわゆる「宗教改革」)ドイツ語でも歌われるようになった。 ルターは音楽は我々の人生に重要であり、生きている間のみならず、死後も我々のために働くと説いた。(法律や医学は我々にとって死後は不要であると)

当時の時代背景として宗教戦争(1618年)があり、ペストが流行してドイツ人は死に直面していた。そのため神への祈りは他民族とは異なる状況にあった。

バッハと宗教音楽の関係については、彼は13歳から22歳までライプチヒのトーマス校で音楽を学んだ。この学校では教会音楽を学ぶことが義務づけられていたのである。そのことがバッハをして後世に多くの優れた宗教曲を生ませるに至ったのである。

ヨーロッパ音楽(特に教会音楽)と弁栄聖者の礼拝儀には多くの共通点がある。

聖者は「至善に在します如来よ」と親しみを込めて呼格を用いられている。バッハも神をduを呼んでいる。あなた(英語ではyou)をドイツ語ではsie 又はduと言う。sie は形式ばった表現であるのに対してduは親しみを込めた表現である。

弁栄聖者の礼拝儀には大乗仏教の長い歴史を踏まえた宗教の根幹が記されている。
バッハは音楽の分野でそれらを表現たとも言える。

佐久間氏はフルートの奏者のエキスパートで、自宅には幾種類ものフルートを持っておられる。美しい調べを聞かせて頂きました。
その後、ドイツ語と日本語の歌詞と楽譜を印刷したプリントを配布して、詳しい解説を入れながらキリスト教の聖歌の数々を聞かせて頂きました。荘厳、荘重の調べは人の心の中に深くくい込んでくるように感じました。感性に訴える力強さを実感しました。

最近、ご法話の内容が多様化してきたことはとても良いことだと思いました。

茶話会

美しい音楽を聞いた後で、皆さんの顔もにこやかで笑顔に満ちていました。卓上のお菓子を頂きながら4時近くまで会話が弾みました。もっとお話ししたい気分でしたが、この後光明園の役員会があるため中座しました。

光明園役員会

 

4時より階下の応接室で役員会がありました。昨年度の予算報告、今年度の予算審議の後、本年度行事内容にウエイトをおいて話し会いました。6時近くに閉会しました。

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