光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年9月

一行三昧の会

高橋敏子

◇日 時:平成24年7月1日(日)
◇会 場:光明園
◇講 師:佐藤蓮洋
◇参加者:18名

光明園の庭で実った枇杷がお供えされた本堂で、午前10時よりお念仏が始まり、礼拝儀・聖歌が称えられました。午後からご法話とお念仏があり、蓮洋さんから「如来光明歎徳章」についてお話がありました。

まず、弁栄聖者の『如来光明礼拝義』の中にある「如来光明歎徳章」は『無量寿経』の経典から引用されたものであるということで、現代語訳と対比した資料が配付されました。いままで、称えていた内容をより詳しく知ることができました。さらに、河波上首の『如来光明礼拝儀講座』の「如来光明歎徳章」に書かれている文を引用し、蓮洋さんの日頃の体験をまじえて説明されました。光に遇うことによって、「私たちの霊性仏性が、無限に向上せられ、育てられてゆく」という弁栄聖者のお話や、「如来光明の救いにより、私たちの心の中に道徳心が目ざめ、道徳的な行為がおのずと如来の仏力によって実践せられることができるようになる」という河波上首の解説の紹介によって光明のはたらきの素晴らしさをあらためて感じました。

その後、念仏を1時間ほどおこない、茶話会で喉をうるおしました。

念仏と法話の会

植西武子

◇日 時:平成24年7月15日(日)
◇会 場:光明園
◇導 師:河波定昌上首
◇講 師:佐々木有一氏
◇参加者:30名

関東の大部分の地方では7月がお盆の月となっています。そのため、光明園の会員でこの1年に亡くなられた方、3名へのご回向がありました。在りし日の河村昌一氏、阿部久米さん、そして仏教塾の女性の方のお姿を思い浮かべつつ心よりご回向しました。その後、ご法話を拝聴しました。

ご法話

1、佐々木有一氏のご講話の概要

佐々木氏は「光明主義の七不思議」というテーマで「ひかり」誌(昨年8月号)に記事を掲載されています。今回はその第四の不思議(起行)について、更にフォーカスして「高声念仏の大切さ」というテーマでお話を展開されました。いくつかの法語を例示して高声念仏の大切さについて話されました。

  1. 法然上人の『和語灯録』(十二問答)から、口にて称えても名号、心にて念ずるも名号、いずれも往生の業とはなる。ただし仏の本願は称名の願であるから、声をたてて称うべきであるとある。また、『観無量寿経』には「声をして絶えざらしめ十念を具足す」と説かれている。更に『往生礼讃』には「我が名号を称し、下十声にいたる」とも説かれている。
  2. 「弁栄聖者御垂示」(『光明の生活』)には「口に弥陀を称え・・・」とあり、弁栄聖者「年頭法語」には「声々大悲の霊養を被る」とある。
  3. 起行の用心として(『人生の帰趣』)には念仏三昧について起行の用心はここにあり。口にみ名を称え、・・・とある。
  4. 『人生の帰趣』には、念仏とは仏と離れぬこととし、「我らは弱き凡夫である。必ず大悲のミオヤを離れてはならぬ。そのミオヤが我らの念頭に往来して我を助け給うその心のあらわれが即ち称名の声である。その称名の声を発する心の奥には大悲のミオヤが在す。・・・」とある。
  5. 「年頭法語」には親縁について「彼此の三行相捨離せず。」とし、「道士よ、み名を呼べば現に聞きたまい・・・」とある。
  6. 『阿弥陀仏の信仰』(藤本浄本上人著)では名体不離について「また、念仏するとき、六字の名号を聞きながら念仏することが大切である。・・・ただ相好ばかり見たい見たいと思って名号を気にせぬのは名体不離の念仏とは言えぬ。如来との連絡はつかぬ」

ナムと呼ぶ 子のなき声に アミダブの
めぐみも乳は ふくめますなり  (弁栄聖者)

2、河波定昌上首のご法話の概要

お盆に因んで「回向」からお話を導入されました。
「回向」については『華厳経(60巻)』の中に次のように説かれている。

若人欲了知 三世一切佛
応観法界性 一切唯心造

『華厳経』に我々衆生に代って菩薩が苦を受けて下さると言うことが繰り返し出てくる。これを代受け苦と言う。閻魔王は地獄に落とした衆生を救わんがため、自ら地獄に入って共に苦しんで救済して下さると言う。

キリスト教でも同様なことが言われている。ドイツの神学に圧倒的な影響を与えた北森嘉蔵は『神の痛みの神学』を著している。渡しの苦しみを神も一緒に苦しむのである。

「破地獄偈」。中国でもこの偈文は重視された。死を目前に迎えた富裕の人、王氏が死後に不安を感じて僧に尋ねたと言う。人は夢を見ている時、夢の中にいることに気づかないものである。まさに、「意識眠りて一夜の夢を見、阿頼耶識眠りて生死の夢を見る」である。「阿頼耶識」とは「蔵」を意味し、迷いの世界でもある。

一心に念仏する中で突破するものがある。阿弥陀様からの働きがあってそれに気づくのである。即ち、「転識得智」である。「阿頼耶識」が転換して「大円鏡智」となる。念仏する中で如来の四智が生じてくる。

観音菩薩大慈悲
己得菩提捨不証
一切五(六)道内身中
六時観察三輪応

と心の問題を大切にしている。そして霊的実存が限り無く深められていくのである。

プロティノスによって初めて主体性の概念(一者即ち、「究極の存在である私」)が確立された(山本空外上人説)。仏教も同じで「浄土とはそこで私が本当の私となるところである。」弁栄聖者によってギリシャ哲学と東洋哲学を包含した見事な展開がなされている。「心の広大無辺性」が説かれたのである。

「大円鏡智」は『仏地教』の中に初めて出てくる。大円鏡智即ち無限円の思想はどこから生まれてきたのだろうか?大円鏡智と唯識が交わって新しいアイディアが生まれてくる。そして我々の中に躍動して働くのである。聖者はこの状況を次のように歌で表現されている。

阿弥陀仏と 念う心の ますかがみ (=大円鏡智)
限りなきまで 照りわたりけり

そして更に弁栄聖者は光明主義の念仏は心の問題と深く関わっていることを次のように詠んでおられる。

十万の 億と説きしも まことには
限りも知れぬ 心なりけり

お念仏のありがたさにつくづくと考えが及ぶのである。

茶話会

今月は人数的にやや少ないようでしたが茶話会はにぎやかに話が弾んでいました。河波上首も非常にお元気で最後まで話の輪に加わって下さいました。

見かけない青年がおられましたので声をかけますと、以前にも一度参加されていたそうです。やはりインターネットで検索しての参加でした。熱心な方とお見受けしました。続いて参加下さるよう、温かい受け入れ体制が必要です。唐沢山別説きにもお誘いしました。この尊い教えを特に若い方々に引き継ぎたいものです。8月は例会はお休みです。

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