光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年12月

念仏と法話の会

植西武子

◇日 時:平成24年9月23日(日)10時~16時
◇会 場:光明園
◇講 師:河波定昌上首
◇参加者:32名

当日はお彼岸中でした。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われてきましたが、この日の残暑は尚も健在でした。午前中は参加者が少ないのでしたが、午後からはいつもの人数になりました。

今回は田中木叉上人の五女、まや子様がお亡くなりになったと言うことで、そのご子息とその息子さん、そしてご息女の三名方々がお彼岸の回向のためにご参加下さいました。古い光明園におられた木叉上人がこの新しい光明園に帰ってこられたような懐かしい気分になりました。

ご法話はお彼岸ということで回向の話から導入されました。

ご法話

田中木叉上人は「『死んだら何もない』と言う、これほど大きな間違いはない」といつも言っておられた。
臨床医は人の死に立ち会うことが多い。大抵の人は怖い、苦しい中で死んで行くことが多いと言う。お念仏をする人にはこれがない。
法然上人は亡き人のために念仏することが大切と『和語燈録』の中に説いておられる。『無量寿経』の中にも「若し三塗勤苦の処にありて此の光明を見たてまつらば・・・」とある。

河波上首は回向の大切さについて三つのエピソードを紹介されました。

  1. 弁栄聖者は千葉の或る村で通りがかりの井戸端で立ち止まり、一心にお念仏をされていた。村人によるとその井戸で以前に自殺した人がいたと言う。聖者にはその姿が見え、その霊に回向されていたのである。
  2. 平重盛は法然上人に会って以来、熱心な念仏者であったと言う。念持堂を建て、その堂の四方に十二光佛を祀り、死者を弔うために灯を点し、行道したと言う。
  3. 終戦後、時を経て硫黄島に配属された自衛隊員は毎夜、雄叫びとも言える叫び声と軍靴の音に悩まされた。平成6年、天皇・皇后陛下が慰霊のため島を訪問された。

その際に皇后陛下の詠まれたお歌は・・・

銀ねむの 大木茂りいる この島に
いそとせ眠る 御霊(みたま)悲しき

この「大木茂りいる」は草一本も生えていなかった当時に比して、今は銀ねむが大木に成長するほどの歳月が流れたことを意味し、「いそとせ(五十年)眠る」は五十年間も放置されていたことへの申し訳ない気持ちが込められている。
此の後、その声は聞かれなくなったと言う。
「亡くなった人への回向は必ず通じる」と木叉上人は繰り返し説かれた。
その一方で「我々は死んで行く。死は我々の前に厳然と存在する」と言うことを誰しも自覚することがより重要である。『勝鬘経』の中にそのように説かれている。
『勝鬘経』はまた、我々の心の中に仏様の命が宿っていることを説いている教典である。

そのことを田中木叉上人は

青い稲葉はその中に
白いお米のみのるため
死ぬるからだはその中に
死なぬいいのちの
そだつため

と詠んでおられる。ひとりひとりの心の中に仏の命、即ち如来蔵、仏性がそなわっているのである。この歌を通して人生の意義の深さを知るのである。

京愍覆護我 令法種増長 此世及後生 願佛常摂受
(どうかこの世も後の世も我々が仏様のお護りの中にありますように)

哲学者 カール・ヤスパースは死を「限界状況」と表現している。
念仏によって死の恐怖が取り除かれていくのである。このことは『六時礼讃』の中でも繰り返し用いられている。
法然上人の北条政子に宛てた手紙にも「専修念仏は現当二世の利益となり候」とある。現当即ち、この世にもあの世にも及ぶのである。
現在の浄土宗では死後にウエイトが置かれ、各寺の状況を見るに他界信仰に傾斜しているように思われる。それに比して弁栄聖者は現世にも力点を置かれている。

柳田国男は仏教界の現状を他界信仰と評しているが、法然上人は決してそうではなかったのである。

生けらば念仏の功積もり
死なば浄土に参りなん
とてもかくてもこの身には
思いわずらうことぞなし     (法然上人)

浄土の世界は虚空の世界である。「虚空」とは宇宙全体に遍満している状態を言う。良く用いられる「西方」は一転集中させるための方便である。

この「西方」の思想は鳩摩羅什が心を一点に集中させんがための手段として用いたとも言われている。「一点集中」のことをP・ナトルプは「点化」(punktualisierung)と表現した。一点に集中することによって自分が無くなっていくのである。
ドイツの哲学者であり、アーチェリー選手であったオイゲン・ヘリゲルは自分の腕を競うでく、ある日本の弓の道場を訪ねた。しかし、そこで彼は弓を射る自分が無くなった時に初めて的を射ることが出来ると言うことを学んだのである。これこそ、点化に他ならない。即ち点化は自我の消滅点でもある。

自己集中→点化→消滅である。

この思想こそ新しい教養の理念でもある。念仏も点化である。私が無くなり、空の世界が展開する。そこにこそ新しい自己形成があるのである。
「南無阿弥陀」は近代を越えていく。いわゆるポスト・モダニズムである。
理性衷心の近代を代表するヘーゲルはその著『法の哲学』で「現実的なものは理性的である」と述べ、理性を謳歌している。
しかし、ヨーロッパ近代の最終結論は理性を越えたもの、即ちa-mita(計量することが出来ないもの)に移行しつつある。「南無阿弥陀仏」はポスト・モダニズム(近代の後、後近代)と言える。時代の最先端を行っているのがお念仏であるとも言えるのである。

ご回向

お彼岸ですので今月はご回向がありました。最初に最近、亡くなられたと言う田中木叉上人の五女、まや子様のご回向がありました。
弁栄聖者、田中木叉上人には深い思いを込めてご回向しました。感謝、感謝の極みでした。その後、各自が志す個人や各家へのご回向がありました。
秋のお彼岸には郷愁と言うか、魂に浸透する透明感がひとしお深く感じられました。

茶話会

今月は大変珍しいお客様として田中木叉上人のお孫さんに当たる方々がご参加下さり、初めてお会いできてとても嬉しく思いました。

茶話会はこのお客様を中心にお話は弾みました。お話と言うよりは、皆さんが一方的にいろいろと質問したり、各自が持つ木叉上人との思い出話に花が咲きました。その中で木叉上人のお厳しい面と大変おやさしい面を垣間見ることができました。

お話を聞きながら在りし日の木叉上人のお姿を懐かしく、慕わしく思い浮かべておりました。お客様がお帰りになった後、しばらく歓談しました。

先月頃から一人の若い男性の方が参加されています。いつも控え目に、いつの間にかお帰りになったりで、後でお話し出来なかったことを後悔する始末です。今回も、お客様の方に関心がいってしまい、ついついお声かけができませんでした。新しい参加者には一人一人が気配りをして温かい雰囲気づくりをすることが大切だと思います。日常の細やかな心配りこそ念仏のあるべき姿と反省しました。

一行三昧の会

佐藤蓮洋

◇日 時:平成24年10月7日(日)
◇会 場:光明園
◇講 師:高橋敏子(妙智)様
◇参加者:11名

午前中はお念仏、如来光明礼拝儀を称え、聖歌を唱い、午後は、お念仏と高橋氏のお話がありました。
お話は、「七覚支について」でした。

宗教で一番大事なのは「安心」これを手に入れることです。安心とは「絶対者への憑依」とも表現します。これは寄りかかること、頼りにすることを言う意味です。そのよりかかるところの絶対者は宗教、宗派によって異なりますが、阿弥陀如来もあれば、大日如来など、諸々の絶対者があります。そして安心を手に入れるためには、三昧入神が大切であり、そのためには修行が必要となります。七覚支は戒・定・慧の戒の修行について択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支・念覚支の七つの段階をのべております。これらの段階を経ると念仏三昧の心霊を開き人格を形成することができ、一心に鍛錬を繰り返すならば妙を得られるというのです。

とお話になりました。

「如来光明礼拝儀」にある「念仏七覚支」の聖歌を詠うことがありますが、修行にプロセスがあるという教えは、お念仏の励みにもなり大変興味深くお話を伺いました。

  • おしらせ

  • 更新履歴

  •