1月 関東支部報告
?念仏と法話の会
山本 サチ子
◇日 時:1月18日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:35名
?ご法話は「聖者より大谷仙界上人に賜わりしお慈悲のたより」の朗読から始められました。
すべてを大ミオヤ(阿弥陀仏)におまかせ申し上げて常に大ミオヤを念じ…
念仏の心構えの大切さの説明がなされました。法話は主として浄土宗と大乗仏教の関係を中心とした法話であったと受け止めています。
ご法話の概要
- ●浄土宗と大乗仏教の関係
- 大乗仏教は紀元前一世紀頃にでてきました。仏教には大乗仏教と小乗仏教とがありますがどちらも大事であります。世の中の人達は大乗仏教の中の宗派としての浄土宗を考える傾向があります。しかしながら実はそうではありません。真の浄土宗とは①大乗仏教の全体を包含しつつ②その大乗仏教の全体を完成してゆきました。山崎弁栄聖者はそれを光明主義として受け継ぎ自覚されていきます。
法然上人は問答の達人でした。五十九歳の時『東大寺十問答』において第一の弟子の質問に対し八宗九宗みないずれもわが宗(浄土宗)の中におさめて、聖道浄土の二門とはわかつなり…… (『拾遺和語燈録』巻下所収)と述べられ、更にその浄土宗の中に聖道浄土の二門がありその聖道門をも浄土門の中に包み込んでその聖道門が展開されてゆくとする趣旨が述べられています。その内容を百パーセント展開されていったのが弁栄聖者でした。しかし現代の社会は法然上人の浄土宗ではありません。伝統的浄土宗の立場は二祖鎮西(聖光)上人の『末代念仏受手印』の著書にもみることができます。その冒頭の文に、
「究竟大乗浄土門」……
という句は二祖上人の上記の著書に出てくる言葉ではありますがこの句は法然上人が言われたことばです。法然上人の趣旨からいって間違いないのです。大乗仏教全体を究竟し念仏によって全体が完成していく。法然上人は天台宗で出発して大乗仏教である浄土宗を開かれました。 - ●「文明の出会い」仏像の成立
- 当時インド仏教は姿形を重視しませんでした。紀元前一世紀アレキサンダー大王がインドに滞在したことからギリシャ人は、姿形を通して拝むため仏像を作り礼拝しました(アポロン仏の成立)。このことから一点に心が集中し修行ができやすくなっていったのです。弁栄聖者の作られた礼拝儀に出てくるお歌で、
弥陀の身色紫金にて円光徹照したまえる、端正無比の相好を御名をとおして念おえよ…
は、紀元一世紀頃成立した『般舟三昧経』の文によられたものです。
礼拝儀からも解かるように何か一つお姿を取ってそれに対して拝むと、一点に集中していきます。どこを向いても向いたところに阿弥陀様がいらっしゃり、念仏がしやすくなっていきます。このことは大乗仏教を広めることに役立ちました。
ギリシャ文化+インド仏教=大乗仏教 となります。
しかし禅が盛んになってくると禅と念仏が切り離されていくことになります。これは間違いであります。空に偏していったのは禅宗です。①般若波羅蜜をもって母となし②般舟三昧をもって父となすとあります。(竜樹の『大智度論』)。禅宗では「心を離れて仏あることなし」と相即しながらも「仏を離れて別に心あることなし」へと傾斜がみられ禅の萌芽が考えられます。本来お念仏と空は縁起という思想から一つのものであります。心と仏は縁起の関係で一つなのです。①お念仏をすると浄土が現象してくる②お念仏をしないと単なる世界主義になる。念仏をすると主観主義から脱却していくのです(形相主義からの脱却)。まさに念仏は観念論ではなく縁起なのです。
「真空に偏せず、妙有に偏せず」は般若波羅蜜の世界が開けていきます。お念仏をすると一つの形に入れられたと思うかも知れないが決してそうではなく念仏をすることにより解放(解脱)されていくのです。まさに大乗仏教は人間の歴史の中で最高の文化であったわけです。
茶話会
今日はいつもより出席者が多く話の届かないところがありました。それでも参加者は和やかに歓談していい雰囲気でした。