4月 関東支部報告
一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:4月5日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:10名
光明園の庭には色とりどりのつつじの花や花水木の花が咲き始め、天地いっぱいの恵みに心が豊かになるような気がします。
例会は炭屋師の維那、岩崎氏の大木魚で始めまり、午前中はお念仏、礼拝儀を唱え、午後はお念仏と河波上首よりご法話をいただきました。
ご法話
聖者より大谷仙界上人に賜りし御慈悲のたよりに「すべてを大ミオヤにお任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ」とあります。これは日本仏教の対立を越えている点で大切なところです。道元禅師は私たちはすでに覚っているのだから、仏にすべてをまかせればよい、という本覚思想。一方、臨済禅師は、覚りは私たちの修行によって始めて得られるという始覚思想。この対立する思想を弁栄聖者は、すべてをお任せして、と仏様がもう大丈夫だとお守りしてくださっているとおっしゃる一方、常に大ミオヤを念じ、と精進することも同じく勧めていらっしゃる。二つの対立する思想は、弁栄聖者によって統合されているわけです。
次ぎに、「大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面にまします」とありますが、この「正面性」と「対面性」は光明主義のキーワードでもあり、東西の多くの宗教家も同じことを述べています。
最近、淑徳大学の公開講座で「『華厳経』を読む」というテーマでお話をする機会ができました。六十華厳では「仏身(如来)が法界に充満し、一切が衆生の前に現われる」とか、四十華厳では「まのあたりに仏をみたてまつる」とあります。また、ドイツの十五世紀のカトリック司祭であるニコラウス・クザーヌスが『神を見ることについて』という本の中で、あらゆるところに神の顔がある、とおっしゃっている。
本来『華厳経』は念仏三昧が書かれたお経です。しかし、禅の立場からの読み方では、一番大切なことを見逃しているのではないかと思います。従来の読み方ではなく、別の立場(お念仏の立場)から話してみようと思います。弁栄聖者も『華厳経』を重視されていました。今回の連続講演では、念仏に還ることの大切さをお話して、私なりの『華厳経』をお伝えしたいと思っています。
?念仏と法話の会
山本 サチ子
◇日 時:4月12日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:21名
晴れたり曇ったりめまぐるしい天候の中、念仏会は開催されました。光友の皆さんの力ある念仏に希望が湧いてきます。
ご法話の内容
- ●悪人正機と道徳の完成
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法話は「悪人正機と道徳の完成」のタイトルで始められました。日本で道徳心が育てられているのだと感じられたことは「東日本大震災」の時でした。大混乱の中とてつもない大きな窃盗や種々の犯罪が起こるであろうと思っていたら極めて静かで人々の救済し合う姿が目立ったことであります。このことは日本人であればこそ深い悲しみの中で黙々と耐え忍んだ姿だったのではないでしょうか。救援物資を受け取る日本の代表者もある程度受け取ると後は他の地域で困っている人々に回して下さいと言われたそうです。この時立ち会われたアメリカの救援物資運搬の女性士官がこのことに非常に驚きと感動を示されたとのエピソードがあります。これらのことは日本人が期せずして道徳心がある極みであると思われます。
私の知人で神道を職業にしている神官の方がおります。その方は自分の男子二人を光明園で河波上首に念仏で受戒をして下さいといい七・五・三の儀式を執り行いました。彼は神も如来も一つであると考えています。そういったことが子供の教育にも現れてきていると思われるのです。
一方、教育現場にも色々と問題があります。大正七年から日本の歴史の教科書に親鸞上人の教えとして「善人なおもて往生を説く況や悪人おや」の善人より悪人が救われる説が教科書に掲載され今日まで続いています。数年前に(梶村 昇「亜細亜大学教授」)先生がテレビでこの説を訂正なさいました。それは親鸞上人が歎異抄の中で仰られたことよりそれ以前に法然上人が『法然上人伝記醍醐本』の中で語られていたことの事実であります。法然上人は善人は善人ながらに念仏し悪人は悪人ながらに念仏する。善人よりも悪人がより救われていくことではないと語られています『法然上人伝記醍醐本』の中に詳細が出てきます。これは法然上人に十八年間付き添われた側近のお弟子が法然上人の滅後に伝記醍醐本をまとめました。このご本の中に悪人正機が出ています。法然上人のこの説が世に認められたのです。しかし教科書には現在なお大正時代からずっとそのまま掲載されているのです。
- ●法然上人と受戒
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法然上人は当時の天皇、高倉・鳥羽・後鳥羽・三人の天皇に戒を差し上げました。いわゆる受戒です。受戒は当時の社会において大変重要なことでした。
大乗円頓戒(大乗仏教には大乗仏教独自の戒律がなければならないといって比叡山に戒律が生まれました)戒の本体(阿弥陀様)に触れるとそこから道徳が生まれてきます。私達の煩悩がどんなに深くともそれを突きぬけて働きます。「梵網経菩薩戒経」仏教では根本無明といいます。悪の問題を如何に考えていくか。根本悪とは自己以前の問題であり、道徳律とは人間の律によるものです。四十八の罪を上げて守らなければいけません。また実践理性、自律、他律等にも根本悪が考えられます。法然上人同様に悪人、善人を完全に突き破っていったのが弁栄聖者であり弁栄聖者より大谷仙界上人に賜わりし「すべてを大ミオヤにおまかせ申しあげて」のお慈悲のたよりでした。
- ●結び
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「すべてを大ミオヤに御任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ大ミオヤはいつも離れず…」私達が阿弥陀様のご本体に触れる時に私達の道徳心が興ってきます。念仏を申していくうちにあなたの心は無くなりて空になっていく。空においては無明がなくなっていくのです。観無量寿経の一声一声の中でいつのまにか道徳が完成していきます。念仏をして光に遇うとこの光に遇うものは三苦消滅し善心生ぜん。
念戒一如 善心 生ぜん 無上等正覚菩提心
同じ仏道修行をするなら私達は阿耨多羅三藐三菩提の心で歩かなければなせん。
願なくば 生けるしかばね 誓願を
いかでゆるめん この菩薩道法然上人・弁栄聖者の教えは無明も悪もなく議論の善悪を遙かに超えた本当の信仰心を持つことであります。このように河波上首は「悪人の自覚は道徳の完成でありそれが日常の生活に欠かせない私達の宿題であると思います」…と結ばれました。
茶話会
今日は山手線の故障のため参加者がいつもより少し少なかったけれども質問をするなど活気に満ちていました。和やかに歓談し終了となりました。
合掌