一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:7月5日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:10名
夏の暑さにも負けずに、次から次へと花を咲かせる「姫ひまわり」を御仏前に飾り、本堂で例会が始まりました。炭屋師の維那、岩崎氏の大木魚、岩下氏のオルガンで礼拝儀をお称えし、聖歌を唱和し、お念仏を唱えました。
ご法話
思惟(しゆい)とは念のことです。『無量寿経』の中で「去来現仏 仏々相念」ということばがありますが、菩提流支(唐訳)は「去来現在の仏を思惟したまう」と訳されました。これは、永遠の世界にお釈迦様がお入りになり、その永遠の世界から教えられたのです。ですから、思惟をthinkingと訳してしまうのは、本来のことばの意味が死んでしまったといえます。
ウイーン大学で9回ほど交流がありましたが、一般の人に「思惟とは何か」を講演したことがあります。『観無量寿経』では、「教我思惟 教我正受」ということばがあり、これは「考えるもの(主観)」と「考えられるもの(客観)」が、その主・客の分裂を越えてゆく思惟なわけです。ヤスパースは問題を提起したが、その実践まではゆかず、ハイデガーは、存在について考えているのは、存在から呼びかけられているからだ、と述べました。跡見花蹊も「称うるも我にはあらでみ仏の み声としるに尊かりけり」と詠み、阿弥陀様からのお声に触れ、歓喜されていたわけです。「心想仏時……是心作仏 是心是仏」(心に仏を想う時、この心仏なり。)であり、一声一声のお念仏で、仏と成っていくわけです。これこそ大乗仏教の最終の目的であり、教えであるわけです。
?念仏と法話の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:7月19日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:16名
猛暑の中で、冷房をコントロールしながらのお念仏会になりました。礼拝儀、聖歌、お念仏を称え、河波上首のご法話を拝聴しました。
ご法話の概要
- 大乗仏教のエッセンス―ミオヤはあらわれん
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弁栄聖者は念仏七覚支を大切にしていました。これは、仏の教えが七通りに現われてくるということであり、お念仏をすると釈迦のさとりが私たちに現われてくるということです。例えば太陽の光には色がありませんが、虹は七つの色として表現されることと一緒ですね。そして弁栄聖者は「ミオヤはあらわれん」と述べられ、目に見えない如来様が、私たちに現われてくると説かれ、現象学の方法によって仏の教を説かれたのです。
礼拝儀の半分はキリスト教でもあります。例えば、食作法の「霊の糧」という言葉は、キリスト教ではマンナ(manna,ラテン語)になります。マンナが祈りの中にはたらいて霊に目覚めていく。それに十五世紀にカトリックの司祭であったニコラウス・クザーヌスは「神をみること」という著作の中で、「どこを向いても神様の御顔がある」と述べていて、これは善導大師の『般舟讃』の中で「仏身円満無背相 十方来者皆対面」と全く同じことですね。つまり、真正面に神様・仏様が在しますことを信じて、集中して祈っていく。それは、まさしくてマンナをいただいていくということです。世親菩薩も「愛楽仏法味 禅三昧為食」と述べられ、仏法の味わいの楽しさが分かってくると、お念仏がありがたく食べられるようになってくるのです。このような心境を、弁栄聖者は「信心が融液」するという表現をされました。お念仏をしていくと、自分が融けていき、自分が自分から解放されていく。みんな、マンナを食べることで自我が解放され、そして神様・仏様に融けて、とろけてゆくわけです。これこそが大乗仏教のエッセンスですね。
- 如来の不思議な力がはたらく
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鴨長明は、現世を否定して、早くこの世を去りたいと願った。カントは叡智界と現象界に分けた。これらは世界を二つにわける二世界主義といえます。しかくヘーゲルはカントの二世界主義を否定して、真実は現象してくると論じた。お念仏も一緒です。お念仏をすると一声一声の中にお釈迦様の覚りが現象してくる。つまり、如来の不思議な力が私たちにはたらいてくるわけです。『無量寿経』(四誓偈)の中にも「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」とあり、仏の不思議な光があらゆるところを照らし、その光(力)が貪瞋痴の煩悩を除き、私たちを厄難から救ってくださるのです。阿弥陀仏の力は十二光となって日常のこの世界に現われ、私たちの心が救われていくプロセスともいえます。十二光は、私たちが生きていく原動力として頂いていくことが大切です。悪人でも善人でも、阿弥陀様と接触することで、阿弥陀様が私たちの中に流れてこられるのですから。
阿弥陀様を真正面にいただいて、阿弥陀様に集中してお念仏をする。光明園は念仏の専修道場です。お念仏に精進してください。