光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成27年11月

第15回関東支部主催 親子別時念仏会

植西 武子

◇日 時:7月25日(土)~26日(日)
◇会 場:相模原・光明学園高等学校(修養室)
◇法 話:山上光俊上人(島根県・向西寺住職)
◇維 那:関東支部役員 (志村 稔氏・森井 明摂尼)
◇参加者:59名
光明会関係の参加者:25名 (大人22名、子供3名)・光明学園関係者の参加者:34名(大学生6名、在校生13名、教諭7名、PTA役員7名、子供1名)

はじめに

昨年度より、子供が集まりにくい現状から、光明学園の生徒を中心にした別時にシフトして2年目、本年も光明学園関係の参加者数が光明会関係の人数を上回りました。

先生方の多大なご協力で無事、有意義に終えることができました。感謝の極みです。

参加者

御導師の山上光俊上人は遠路、島根よりお元気な姿で早朝にお着き下さいました。ご指導頂いて今年で7年目になります。

また、毎年、名古屋から長年に亘って参加下さっていた内藤さんご夫妻が体調不良で来られなくなり残念でしたが、そのご息女の小川さん親子が今年も参加下さり、さらに、滋子さんが初めて参加下さってとても嬉しいことでした。

関東支部からは伊藤支部長以下、役員のみなさんを中心に多数参加下さいました。中でも田代前支部長ご夫妻はファミリー5人で参加下さり、親子三代の参加となりました。特にお仕事で忙しい世代であるお二人のご子息が初めて参加下さったことは望外の喜びでした。

親子と言えば、理代子さんと裕太君、世代こそ違え、伊藤力支部長と担当の旭栄先生、花岡さんと遠藤さん、この三組は鉢伏山親子別時からのご縁深き方々です。

初参加の丸山氏、田代氏、昨年より参加下さっている秋山氏、田代氏と男性の方の参加が増えたこともありがたく思いました。

また、光明学園関係では多くの先生方が拘わってくださり、熱心にご指導下さいました。理科学部とそのOBを中心に民族文化部、野外活動部の生徒が多数参加してくれました。PTAの方々もご法話に参加下り、特に会長さんは毎年参加下さっています。

このように、知人、友人、子弟関係等の横糸と親子、孫関係の縦糸が織りなす錦の模様を弁栄聖者は前からご覧になっていて、きっと喜んで下さっていることと思いました。

本年度の特徴

本年度の日程は例年とほぼ同じでしたが、特に変更したのは1法話と2子供の活動でした。親子で参加した子供の二人は高校生となっており、子供は小学4年生の華ちゃんと指導教員、下口先生の5才になるお子さんの?大君の二人でした。

そのため、ご法話は「青年向け」2席と「大人向け」2席とし、子供法話と子供の活動をカットし、華ちゃんと?大君は別メニューを準備しました。そして参加者全員が取り組む「作業の時間」を設定しました。

作業の時間 お数珠づくり

わずか2日間のお別時、参加者全員が一堂に会する機会を出来るだけ持ちたいということから、全員で作業に取り組むことにしました。森井明攝尼の提案で「МYお数珠」をつくることにしました。材料の準備から当日の指導まで、森井明攝尼が全てを引き受けて下さいました。みんなは非常に熱心に取り組みました。出来上がった後もそれぞれ各自の腕に着けて眺めたり、人とくらべたりして嬉しそうでした。参加記念ともなり、とてもよかったと思いました。なお、山上上人は明治43年5月付けの弁栄聖者の「お数珠の説きあかし」の小冊子を全員に配布してお数珠についてのお話をして下さいました。とても分かり易く、何げなく使っているお数珠の意味を理解し大切に使ってくれる事と思います。

献灯式

親子別時のハイライトはやはり、献灯式です。今年も参加者全員が献灯しました。静寂に包まれた中で三礼の後、厳かな声でお上人様の「表白奉読」が始まりますと、全員が背筋をピンと伸ばし、緊張の一瞬です。その後、5才の?大君から献灯が始まりました。仏前に置かれた長机の上にローソクが1本1本増えていくにつれ、辺りはだんだんと明るさを増し、みんなが献灯を済ませると、その光はこうこうと輝きました。

その光を背にお上人様から告諭を頂きました。この光景は生徒達の脳裏に深く刻まれたことと思います。

ご法話

ご法話は青年向け2席(各50分)と大人向け2席(各1時間)がありました。

※青年向け法話(25日)

山上上人は青年向けのお話の時にはよく歌や映像を使ってお話を導入されます。

今回も村松崇継作曲、吉元由美作詩の「光へ」と言う歌を聞きました。プリントされた深く語りかける歌詞を目で追いながら。その一節、「夜空の向こうに星が光っているわ」のところでは「如来様が光明を放っているよ!」に通じること、「いつも信じている。ずっと歩いていく」のところでは「人生では信じることは非常に大切である。」と語りかけられました。

またご自身の学生時代のカエルの解剖から「生命とは?」と疑問に及んだことからお話を展開されました。体の臓器を見ても自分の力で出来ているものは何もない。大宇宙から生み出されたものである。
また、ライ麦の成長を例として「生命の不思議」にも言及されました。「美しく青い地球」、宇宙から見る地球は生命体である。我々は大宇宙から生み出された生命である。それを体験的に知るにはお念仏しかないと結ばれました。

※青年向け法話(26日)

最初に「コズミック・カレンダー」のプリントが配布されました。「コズミック・カレンダー」とは宇宙の始まりビッグバンから現在までを1年に換算したカレンダーのことだそうです。これを眺めると途方もない長い時間の流れの中にいる短い自身の存在に圧倒されそうです。これは昨日のお話の総復習と受け止めました。

今回は内面的な角度からお話を展開されました。即ち、「母親の子育て」、それは「無償の愛」と言う視点から、「シンちゃんの請求書」と言う挿話をされました。要旨はお手伝いしたシンちゃんが母親にそのお駄賃を請求した。それに対して母親はシンちゃんに尽くした沢山な項目をあげ、いずれも0円とした。母の愛は「無償の愛」、「思いやりの愛」であると話されました。

さらに進めて、「今、呼吸している空気代は?」、「自分が毎日生きていく上に必要な代金は?」と問いかけ、アミダ如来もわれわれを無条件で育てて下さっている。これこそ「無条件の愛」、即ち「慈悲」である。

最後にプリントの「いつくしみの瞑想」(Awareness Meditation)に目を通しました。その一節、「生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように」

※大人向け法話(25・26日)

若き日に旅したシルクロードの話から、東西の要所アフガニスタンの大仏について触れ、大仏信仰について話されました。大仏を前にすると人はひれ伏す。それによって畏敬の念が育まれる。この情操が現代人に欠けている。親を敬い、先生を敬う心が失われて来ている。仏教の本質は智恵と慈悲に尽きる。光明の体得によって無明が開かれていく。

弁栄上人の光明摂取、救いのプロセスは「この光りに逢うものは三垢消滅し、心意柔軟にして 善心生ぜむ」に尽きる。

大ミオヤは全てのものを決して捨てない。佛を親のように慕い、親しみの心をもって接していくことが大切である。念仏のすばらしさは声に出して呼ぶことである。子供は母のやさしさに触れて母を呼び、呼び合う中で一体化していく。これこそ念仏の素晴らしさである。そしてただ声を出すに止まらず、念じることが一層大切であると話されました。

最後にご法話のまとめとしてお上人様は‘mindfullness’(マインドフルネス)と言うことばを紹介されました。これサンスクリットのスムリティを英訳したものだそうで、仏教を一言でとらえた表現で「念」または「集中」を意味するそうです。

仏教の教えがこの一語に集約され、現在アメリカで広がりつつあるそうです。お念佛する心構えはまさに‘mindfullness’(マインドフルネス)に尽きると言うことです。

おわりに

今回のお別時で特に感じたことは生徒の別時に対する態度がすっかり落ち着いてきたことでした。勿論初めての生徒も何人かいましたが、全体の雰囲気の中に融け込んで頑張っていました。そして全員で食堂のセッティングや寝具の運搬など、奉仕活動に頑張ってくれました。また、先生方は貴重な夏休み中にも拘わらず全面的にご協力、ご活躍下さいました。先生方のお力添えがなければ本行事は実施出来ないと言っても過言ではありません。

祭壇に置かれている弁栄聖者のお写真がいつも私達を見守っていて下さることをひしひしと感じました。心の中で何度も何度も合掌しました。

念仏と法話の会

山本 サチ子

◇日 時:9月27日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:28名

蒸し暑い空模様でしたが元気な念仏の声で会は開催されました。

ご法話の概要

禅がどのようにして開けていったのか『楞伽師資記』にはそのプロセスが全部書かれています。ここでは念仏はそのままが空であり、空がまたそのままが念仏であることが示されています。仏を念ずることが心を念ずること等が説かれ、いわゆる念仏の中に禅の地平が百パーセント開かれていることが知られます。道信を始め多くの禅者たちが般舟三昧等によって修行がなされていったことが考えられます。道信も専ら般舟三昧を説く『文殊般若経』所説の一行三昧によって大悟していったのでした。禅が出てくるとお念仏が浮きあがってきました。念仏は座禅に塗り替えられてしまったのです。念仏をしていると禅が開けてきます。もしそうでなければそれは嘘です。禅宗も最初は皆念仏をしていたのです。最初から空が根本的な原理として存在しているものではなく、空の世界とは、念仏をする観自在菩薩から開かれていった世界です。念仏と空は車の両輪なのです。

◆高貴性・尊厳性

念仏をする時如来さまにおまかせいたしますということと、如来様の前に立つという気持ちが大事であります。念仏の達人であらせられる「荒巻くめ」さんは「面仏(まのあたり)」を大切になさり念仏された方でした。念仏道場に入る姿勢は厳粛で謙遜を含めた気持で入場いたします。大切なことは人間の高貴性・尊厳性です。.最近は人権という言葉をよく使いますがこれは一七八九年にフランス革命で「人権宣言」が行われ、この頃から言われています。しかしそこには本当の自由はありません。本当の自由は自我からの解放です。念仏の徹底した跡見花蹊先生、荒巻くめさんの阿弥陀如来を尊び念仏されるお姿は念仏者のお手本であります。人間の尊厳性は南無阿弥陀仏で私達が無になったところで、如来さまの命が私たち一人ひとりの心の深みから湧き出るものなのです。尊厳性が顕現するのです。南無阿弥陀仏はそこから自己を脱却して新しい自己が形成されていきます。

◆法然上人のお歌は70歳以降に詠まれました。

我れはただ 仏にいつかあふい草
心のつまに かけぬひぞなき

不離仏の気持ちを詠まれています。何をしていてもこの気持ちを貫いていくことが大切なのであります。

月影の至らぬ里はなけれども
眺むる人の心にぞすむ

◆仏入我我入仏

近代ヨーロッパ思想の展開の端諸ともなったキリスト教最大の思想家ニコラウス・クザーヌス(1401~1464)は、神を包越として捉えました。法然上人の月影の歌は法然上人の阿弥陀仏ないしその光明とどこまでも対応しています。今までの西洋哲学はデカルトで始めましたがニコラウス・クザーヌスから始まると詳しく理解できたのではないかと考えられます。クザーヌスはその時代の規則でドイツ人はローマ法王にはなれませんでしたが時代が違えばなれたであろう人物であったと考えられます。また、お歌にもあるように法然上人・弁栄聖者においては超越と内在の関係が遂行されているのです。

仏入我我入仏月をみて月に心のすむときは
月こそおのがすがたなるらめ
(『道詠集』八頁)

と、まさに「仏入我我入仏」の歌を詠んでおられます。

弁栄聖者から見ればキリスト教も仏教も同じでした。私達が称えている礼拝儀もキリスト教なくして成り立つことはありません。それぞれの宗教がありますがどれも繋がりがあります。表現は違っても「同体異名」です。これを一番に説いたのは覚鑁上人であり、大日如来も阿弥陀様も一つであることを主張されました。

茶話会

仕事から解放され久々に参加された方が数名おられました。また一緒に念仏をしましょう。光明園の役員会があるため少し早めに茶話会を終了しました。

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