光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成28年1月

一行三昧の会

佐藤 蓮洋

◇日 時:11月1日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:13名

祭壇にもぎたての柿が供えられ、光明園の実りを感謝しながらのお念仏会になりました。維那は炭屋師、大木魚は岩崎氏が担当され、お念仏を称え、聖歌を唱い、午後には河波上首のご法話をいただきました。茶話会では柿がふるまわれました。

ご法話

弁栄聖者は礼拝革命を行いましたが、礼拝儀で一番大切なことは礼拝の対象が決まっているということです。如来様を真正面に仰いでお念仏をさせていただく。善導大師は指方立相を説き、お浄土が西の方角にあることを指し示し、そこにいらっしゃる如来様に集中することを説きました。また、生まれそして帰る場所としての故郷もとても大切ですね。法然上人も、私はもとお浄土に居て、そしてまたお浄土に還ってゆくんだ、と述べられています。現代人は帰るところがなく、真っ暗な闇の中で死んでゆく。お浄土は日本人の安らぎの場所なのです。

礼拝儀の中に、「如来のいまさざるところなきが故に、今現にここにまします(如来様がどこにでもいらっしゃって、私たち一人ひとりの目の前に現われている)」と説かれています。このことは、7世紀、唐の善導大師が「仏身円満無背相 十方来者皆対面」と述べられていることと、15世紀のニコラウス・クザーヌスが「神様が私たちを見ていてくださる。どこを向いても神様のお顔が真正面にある。だからどこにでも神様がいらっしゃるようにお祈りしなさい。」(『見神論』)と教えられていることと同じことです。東西の宗教の天才が同じことを述べられていますが、弁栄聖者もまさに「対面性(正面性)」を礼拝儀の中でお示しになされています。

私たちもいつも如来様を真正面に仰ぎながらお念仏をすることが重要ですね。

平成27年度(第10回)関東支部教学布教研修会 

山本 サチ子

◇日 時:11月21日(土)・22日(日)
◇会 場:光明園
◇導 師:河波定昌上首
◇参加者:33名

法題

法話は念仏三昧発得記の「三種の行儀」から話を進められました。念仏する時、弁栄聖者が示されたご文が大切ですなわち、

すべてを大ミオヤ(阿弥陀仏)におまかせ申し上げて常に大ミオヤを念ず…
…あなたはそれのみを念うて専らにしてまた専らなる時は段々と心が統一できて…
…あなたの心はなくなりて、残るところはただお慈悲の如来様ばかりとなり候

弁栄上人のこの中にはすべて大乗仏教の精神が入っています。私達が別時について念仏を申す時は心得が大切であります。たった一言でも自力の念仏は自力の念仏であり他力の念仏とはならない。別時念仏を尋常念仏に(日常の念仏)繋げていくことです。できるだけ日常生活の中に念仏を注入していくことが大事なのであります。田中木叉先生は「点線念仏」をご指導くださいました。念仏を忘れがちであってもくらしの一点一点に集中していくことによりそれを習慣とすると念仏に繋っていく様になりますと申されました。

すべてを大ミオヤにおまかせ申し上げて大ミオヤを念ず。100%おまかせしてしかもその上で100%念仏する。ニコラウス・クザーヌスも弁栄聖者と同じことを言いました。どこを向いても向いたところに如来様がまします。

翌日は主に「開経偈」について話されました。

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

今の浄土宗は「開経偈」について深く考えていない。つまり念仏する時深くよくよく開経偈を重んじるならば念仏が違ってきます。開経偈はどこまでも浄土宗本来のものです。臨終念仏も大事ではあるが尋常念仏ができてこそ念仏の尊さ大切さがでてきます。「すべてを大ミオヤにお任せ申し上げてそして念仏をする」ここがポイントなのです。

西方浄土と言うが実はどこを向いてもそこが西でありそこに阿弥陀様がおられます。もし念仏している時に心が乱れたらもう一度如来様を念じて心を戻しまた続けます。「念仏三昧とは不離仏の義・値遇仏の義なり」とあります。この世、後の世、共に阿弥陀様に守られています。究竟の思いを以て念仏することです。と結ばれました。

合掌

感想

昨年より若干ではありますが参加者の多い別時開催となりました。河波上首は予定よりも多く法話をなされました。力強いことばで光明主義の教えを語られました。このように強い情熱と実践を注いでくださる河波上首に感謝し、そして何とか光明主義をより発展させなければと改めて思いました。

これからも会員の皆様と共に手を繋ぎ精進するよう励みたく思います。合掌

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