一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:3月6日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:10名
桜の開花が待たれる中、光明園の庭には白い可憐な花が一斉に咲きはじめました。
維那は炭屋師、大木魚は岩崎氏が担当され、お念仏、礼拝儀を称えました。新しく武蔵野市から青木さんが参加されたこともあり、河波上首からは、光明園の歴史、禅と念仏の関係そしてお念仏の心構え等についてご法話がありました。
茶話会では、ご法話の中の禅と念仏についてが話題となり、楽しい一時をすごしました。
〈ご法話〉
光明園は昭和27年9月にスタートした念仏三昧道場であり、お檀家さんはありません。護持会員等のご協力で、宗教法人としてやっています。
大乗仏教はインド文化とギリシャ文化との出会いの中で生まれましたが、それ以前の紀元一世紀に、お念仏は念仏三昧として、精神の集中を行う方法としてありました。そして、大乗仏教最古の念仏三昧を説く教典が『般舟三昧経』ですが、「般舟」の意味は、サンスクリットで「プラティ・ウトパンナ」、つまり「現前に仏が現れる」という意味です。
大乗仏教の中に、禅とお念仏の二つがあると思われる方もいらっしゃいますが、『楞伽資師記』という禅の祖師方のことが書かれたご本には、ダルマさんをはじめそのお弟子はお念仏をしていたことが書かれています。四祖道信もお念仏をされていたと書かれていますが、それ以後は禅のみに偏り、禅と念仏が分かれてしまいました。念仏と禅は別々のものではなく表裏一体なのです。
お念仏の心構えとしては、礼拝儀にある弁栄聖者のお慈悲のたよりにある、「あなたの心はなくなりて、ただ残るところはお慈悲の如来さまばかりと成り候」を大切にするといいですね。ここにはお念仏の二つの特徴があらわされています。こころはなくなりては、「観自在菩薩」であり空ですね。そして、如来様ばかりと成り候は、「観世音菩薩」で仏様ですね。観自在も観世音も、元もとの原語は一緒ですが、鳩摩羅什三蔵と玄奘三蔵の訳が違っていたのです。ですからお念仏をしていると、空の世界が開け、仏様が見えてくるのです。
念仏と法話
鎌尾 美津江
◇日 時:3月27日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:河波定昌上首
◇参加者:20名
- 日本は不思議な力で守られています
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日本は古代の初めに聖徳太子が古代国家の基礎を作られ、中世の初めに法然上人が壮大な宗教改革をなされ、近代の初めには弁栄聖者がお出ましになりました。時代、時代の始まりに宗教的天才が現われ私たちを精神的にご指導下さいました。
明治を迎えて科学の時代になり、弁栄聖者は科学の立場を受け入れながら光明主義を展開されたのです。
- 1859年の大切な三つの出来事
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①弁栄聖者のご誕生
②ダーウィンが進化論『種の起源』を出版西洋人はキリスト教的創造論にとらわれていたので進化論は大衝撃で革命的なことでした。ただ神父の中でも古生物学・地層学の学者でもあったティヤール・ド・シャルダンは進化を信じていたようです。進化論と輪廻思想はぶつかりませんが、古代のギリシャでは自然と人間が繰り返す輪廻の思想が入っていましたし、インドでも時代が下るにつれて輪廻思想が濃厚になりました。
弁栄聖者は輪廻の思想を包み込んだ進化論を説明されました。人間として生まれてきたのは宇宙の選択の意志が働いてのことであるというのです。選択本願を法然上人は救済意志として、弁栄聖者は宇宙意志として説かれています。現在のベストセラー、桜井邦朋『宇宙には意志がある』は弁栄聖者の選択本願とズバリ重なっています。百年以上も前に最先端の科学を取り入れた弁栄聖者に驚かされます。私達の中に宇宙意志が働いている事に気づかずに好き勝手をして死んで行くだけでは、宇宙が流産したことになります。
③フッサールの誕生
フッサールの現象学はお念仏と密接に関わっています。それまでの哲学は煩瑣を極めていましたが、彼は面倒な議論はとりあえずeinklammern「括弧に入れて」、zur Sache selbst「事象そのものへ」といっています。阿弥陀様そのものに対しなさいと法然上人も一枚起請文で同じことを仰っています。逆に大切なお念仏を「括弧に入れて」、それで学問をするようになったらお終いですね、と田中木叉上人のご教訓もありました。
- 宗教学も視野に
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弁栄聖者が出現されて、宇宙の原点を窮めていく自然科学と宗教(お念仏)が真正面から出会って新しい教学ができました。それが光明主義です。一神教と汎神教との相克を超えた超在一神的汎神教という立場は、シュライエルマッハーが立ち上げた宗教学を背景として出てきました。シュライエルの宗教学は「宇宙を直感する」中世ドイツ神秘主義が母体になっています。それまでの宗教学は理性にとらわれていたので画期的なことなのです。
1859年に、弁栄聖者の誕生、ダーウィンの進化論、フッサールの現象学、という三つの大切な出来事があったのは不思議な因縁と言わざるを得ません。
- 終わりに
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ギリシャ哲学やインド哲学を交えた素晴らしい着眼点で、河波上人のご法話も益々「進化」していきます。
水ぬるみ、咲きはじめたばかりの桜をくぐって家路へと急ぎます。ほころび始めた蕾みのように、満開に向かって胸躍らせた一日でした。電車のつり革に掴まった身体が、ふうわりと軽く感じたのでした。
合掌