一行三昧の会
佐藤 蓮洋
◇日 時:4月3日(日)
◇会 場:光明園
4月3日(日)、光明園にて「一行三昧」の例会が開かれました。早朝の雨も上がり、爽やかなお念仏会となりました。河波園主が導師をされ、その横で私が維那をさせていただき、岩崎氏が大木を担当されました。
河波園主は茶話会で皆さんと歓談され、その後もいつもとかわりませんでしたが、心不全によりその日の夜にお浄土に還られました。
〈河波園主、最後のご法話(まとめ)〉
「五根五力」
……心の大地性に根ざした信仰こそ大切である。
「ヨーロッパの近代をつくっていたのは市民階級の人です。フランス語でいうと、ブルジョアジーといいます。マルクスは徹底的にこのブルジョアジーを批判します。もう一人、表面だって批判しないけれど、批判したのがハイデガーという哲学者です。ブルジョアジーはドイツ語ではブルガーということです。「ブルグはお城」、「ガーは人」ですから「お城に住んでいる人」という意味です。お城ができ、そして人が集まる。そこに近代の都市ができてきます。でも、ここで特色なのは農地、大地から切り離された、ということです。これが大切です。私たちも気がつかないうちに土から離れ、土から無縁になった。
ハイデッガーは1958年に「放下(ゲラッセンハイト)」という本を書きました。どのような内容かというと、ちょうど1958年というのは、水素爆弾とか、東西の冷戦がもっとも先鋭化された時代でした。その水素爆弾よりももっと恐ろしい問題が迫っていると講演する。「心の大地性」を失ったということです。近代は大地を失い、ふるさとを失った。大地に根ざさないと、本当の精神は発達しないということです。うるわしい花が開かんがため、大地に根を下ろすべきだと、結論の部分でいっています。私たちの信仰の上にも同じことがいえるのではないでしょうか。信仰を大切にするのはいいのですが、主観主義におちこんで、大地性が失われていく。
実は弁栄聖者も20歳ぐらいまではお百姓さんとして仕事をされていた。それが決定的に大事です。農家の出身であり、10歳という年代は、思想の傾向が確立していき、その上に教学ができてきます。大地に根ざしてそこから宗教が生まれてきたということがいえると思います。
ここで主題にはいりますが、「五根五力」という修行があり、大地の修行です。
阿弥陀経を拝読しますと、「五根五力 七菩提分 八正道分 如是等法 其土衆生 聞是音已 皆悉念仏 念法念僧」ということばが続きますが、「五根五力 七菩提分 八正道分」は修行であり、仏道の実践です。大地に根ざさないと信仰は本当に強いものにはならない。観念論では信仰になりにくいと思います。五根五力、七菩提分、八正道分が一つのセットですが、それぞれ独立している。『涅槃経』になるとさらに加わって、四念処、四神足、四正勤がでてきました。五と五、七、八、四、四、四で合計37になりますね。これは初期のインド仏教では行として実践されて、お釈迦様の説法がそのような思想としてまとまっていく。玉城康四郎先生の解釈によると、五根五力はお釈迦様の宗教体験が表され、七菩提分(七覚支)は仏教以外の人を仏教・仏道にとり入れる方便としてあり、そして八正道は釈尊が初めて説法されたもの。それぞれ成立の因縁がちがいます。それが段々と初期の仏教が発展して、体系化する必要があったと思います。
弁栄聖者は三十七道品をおまとめになってご説法されました。三十七のプロセスで、さとりが深まっていくということがすでに念頭にあったと思います。三十七道品として体系化することは弁栄聖者でないと不可能であったと思います。ご遷化される一年前の大正八年に、広島近くの潮音寺で5日間にわたるお別時が行われ、三十七道品の講義をなさいます。とても力を入れておられ、わざわざ笹本戒浄上人を東京からおよびになりました。五日間のお話でどれだけお話ができたかわかりませんが、それを出発点として、もっと深めていこうと思っておられたのではないでしょうか。もっと生きていらしたら、より具体的に解明されたであろうと思います。とてもおしいですね。私も講録を拝見させていただきましたが、弁栄聖者はそれを出発点とされたのでしょうね。
今日は特に五根五力についてお話しします。七覚支、七菩提分で菩提というのはお釈迦様のさとりのことですが、全体ではないけれど悟りがあらわれてくるというのですから、すごいことですよね。すこしでも悟りの片鱗がいただければ、ありがたいですね。
ところが、その前に五根五力という修行があります。これだけでも一つの修行体系をしめている。五根はインドリアといい、根ざすということです。それが力となって現われてくる。植物そのままです。信根信力、信じると信じたはたらきが根をおろす。根づくと一つの力となって湧き出してくる、それが信力です。五根は信根、精進根、念根、定根、慧根と発展していきます。
信とは、「本当のことを思う」ということです。真実は、私たちは阿弥陀様の光明の中にあって、阿弥陀様が在しまして、その光明の中に包まれている、それを思うことです。「不合理だけど、我信ず」ではないんです。よく分からないけど、阿弥陀様が在しまして、光明に包まれている。人生に一つの目的を持つことになります。ほっとけば、世間的な考えに流されてしまい消えてしまうから、その目的に向かって精進、努力する。するとそれは念となってはたらき、念が根をおろし、そして力となっていく。信根信力、進根進力、念根念力、そして定根定力と自ずとサマーデイ、つまり禅定に入っていく力が亡くなる時に実現してくるんです。そういう修行をしていくことは、ありがたいですね。
亡くなるときに、皆わからなくて死んでいくんです。信根が信力となって湧き出てくる。臨終の時に力になっていきます。生きているときもそうですが、死んだ時も自ずというか、力が湧き上がってきます。修行ができていないと、念が飛んでします。善導大師の発願文に「願わくは弟子等 命終の時に臨んで心?倒せず 心錯乱せず 心失念せず」とあり、心が引っくり返らず、心を失念しないようになるには、お念仏をすることです。そうすれば念力が覆って来て、私たちの臨終を救っていくことになります。観念論ではダメです。生前、元気の時に修行していく。今の修行が死ぬ時に念根念力となっていきます。根がないと真っ暗になって死んでゆくんです。慧根慧力、智慧がはたらいてくればもう大丈夫ですね。五根五力は大地の信仰で、根がないと七覚支の修行も思う存分にはいきません。
ハイデガーは「天空高くに花開くために、大地に根をはやす必要がある。」といった。「天空に花開く」これは七覚支ですね。このハイデッガーの言葉は五根五力と七菩提分の修行に関わってきます。
ハイデガーの哲学はどういうわけか仏教に近い。そしてもう一つその奥に大地性、心の大地に根ざしてもいる。インド仏教もそうですね。インドの大地性に根ざした仏教だと思う。大地性を有したお経もたくさんあります。『心地観経』、『仏地経』は大地性に根ざしたお経です。両方とも共通して四大智慧がでてきます。『仏地経』は素朴な感じの四大智慧がでてきますが、唯識との関係はありません。いずれにしても、「大地」が決定的に重要な意味をもっている。大地というのは、そこから湧き出るものがある。
最近プロテスタントの人達が、修道院にあこがれるようになり、修道院を否定していましたが、祈りについて関心を持ち始めた。何か新しい信仰の形態が必要になっているのです。私もドナウ川の近くにある修道院を訪問したことがありますが、東方教会、ギリシア正教、カトリックの修道僧が一緒に住んでいました。いままで考えられないことでした。戦争ばっかりしていましたが、一つに和合して、一つの新しい宗教形態に向かいつつあります。
「五根五力」のお話をしましたが、心の大地に根ざした信仰が大切だということです。
弁栄聖者は「五根五力 七覚支 八正道」をずっとお説きなって、私たちの新しい信仰をお説きくださいました。せっかくこういう教えいただいているわけですから、私たちはそれを学びながら、止揚させていただくとありがたいと思います。
それでは、これでご法話を終わります。同唱十念。
(文責:佐藤)