光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成28年11月

関東支部報告

一行三昧の会

        

鎌尾 美津江

◇日 時:9月4日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:佐々木有一氏
◇参加者:19名

 前回の円具教の講話後の茶話会で、では具体的にどのようにお念仏を称えればいいのか話題になりました。最近、初めて参加する人もいらっしゃいますので起行の用心について数回に分けてお話頂くことになりました。起行の用心のお話を聞いて、皆の声がいっそう力の入ったお念仏になりました。

〈講話〉 起行の用心 その1

 「起行の用心」とはお念仏をするときの心の据え方です。私たちが南無阿弥陀仏とお称えする時の心の持ちようによって、円具教になったり、超自然教になったりします。心の用い方によって変わってきますよ、というのが弁栄聖者の教えです。「起行の用心」は、端正無比の相好を御名を通して念おえよということが肝心です。相好とは聖容のことです。真正面に如来様が在しますことを信じて聖容を心に憶い上げて念仏すれば、心に変化が起こってきます。
 光明園初代園主、田中木叉上人が聖者から頂かれた年頭法語(『お慈悲のたより』上四二一~四二三頁)には「起行の用心」の大切な教えが、綺麗に起承転結になって詰まっています。35歳の大正7年1月に聖者と出会い、この年の12月にこの御法語を賜りました。

◇第一段落 起
光明主義のミオヤ様とは、修行して阿弥陀様になった十劫正覚の阿弥陀様ではなく、宇宙のはじめから有りどおしの本有無作の阿弥陀様であり、その実在を疑ってはなりません。
◇第二段落 承
信じて御名を呼んでいると如来様と衆生との交流が起こってきます。すなわち三縁が働いてきます。最初に親縁が起こり身口意の三業が対応していて如来様が励ましてくださいます。それから近縁、最後に増上縁が働いてきます。
◇第三段落 転
感応道交がおこると、報身の阿弥陀様にお育てを頂きます。乳飲み子が母の顔を見るように、如来様の聖容を仰ぐことに心を注ぎなさい、と最も大切なことをお説きになっています。個々のことを見分ける差別が分かる法眼と、すべてが平等であることが分かる慧眼が円かにひらけると仏眼となり、阿弥陀様が心の中に現れて下さいます。
◇第四段落 結
「萬歳を以て未だ足れりとせず」から想像したのは、中国浄土教の始祖曇鸞のことです。曇鸞は命を永らえる術を願い、お経の翻訳を完成させようとしましたが、菩提流支は長生きより、永遠の生命が大切であると説きます。この永遠の生命を得ることこそが弁栄聖者の御教えの眼目です。円具教のお念仏をしていれば、阿弥陀様も極楽もそばにあることが実感されてきます。

 今回は「起行の用心」のバックグランドになっている年頭法語を取り上げました。次回からは五根、五力、七覚支など順を追って体系を学んでいきます。

念仏と法話の会

        

佐藤蓮洋

◇日 時:9月25日(日)10時~15時まで
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:26名

 台風が去り、久しぶりに太陽の日差しを浴びながら、少し汗ばむお念仏会になりました。光明園の庭には彼岸花が咲き、真紅の花がとても鮮やかでした。
 午前中は礼拝儀を称え、お念仏、聖歌を唱えました。午後はお念仏と大南園主のご法話がありました。
 大南園主からは、「一年の中で一番よい季節です。今日は彼岸の最後の日です。そこで、「彼岸に因んで」というタイトルでお話をさせていただきます。
 お彼岸というのは仏教国の中でも日本のみの行事です。私のお寺では、雨の中、傘をさしてお墓参りに来られる方もありました。切なるものがあったのでしょう。
 彼岸といえば、到彼岸として、つまり、かの国(岸)に渡ったということで、悟りの完成という意味でもあります。菩薩が修行する基本的な修行項目である六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)が完成するその状態を春秋の好時節に喩えたのでしょう。皆様に配布しました資料の第一番目に「善導大師の指方立相説」とありますが、指方立相説は『観無量寿経』の定善十三観の初観「日想観」に対する善導大師の解説にでてきます。それには「・・・方を指すこと在ること有り、冬夏の両時をとらず、ただ春秋二際を取る。その日、正東より出て直に西に没す、阿弥陀仏は日の没する処に当って、ただちに西のかた十万億刹を超過す、すなわちこれなり」と説明されておられます。凡夫には法界とか空という抽象的世界は理解できないので、このように具体的な方向を表現したわけです。私たちが三昧仏さまに心をむけてお念仏するのも同じです。
 次は「弁栄聖者と『観無量寿経』―「南無の二義」と「帰命の三位」」です。
 弁栄聖者は『阿弥陀経』『無量寿経』を大事にしました。『阿弥陀経図絵』を布教に用い、『礼拝儀』で如来光明歎徳章をお唱えします。しかし『観無量寿経』も大切にされました。『光明の生活』では、『観無量寿経』の韋提希夫人の物語を紹介しながら、帰命(感情の信仰)について述べています。
 南無というのは、~をより所にする、頭を下げる、お願いをする、という意味です。『人生の帰趣』には南無には二つの意味がある。一つは「我を救い給え」、つまり最高福である永遠の生命、常恒の平和を得ることです。次は「我を度し給え」、最高徳であり、完全な霊格、仏の世継となることです。ところで帰命は南無ということばと同じ意味です。聖者は、信仰はまず感情から入るのが第一歩だと思われ、帰命を「自己の罪悪を恐れ自己の無力を認め、絶対の実在者を信じて己を献げて信頼する心」、大いなる生命に我がいのちを投げ入れることだと説かれました。本日は時間がありませんが、次回は帰命の三位として、徐々に深まり発展する帰命の心についてお話をさせていただきます」と結ばれました。
 茶話会は、皆さんそれぞれの話題に花が咲きましたが、光明会関東支部の役員会を開催するために、少し早めにお開きとなりました。帰りがけに男性の方から、「大南園主が資料をご準備いただき、また六波羅蜜など仏教の基本を丁寧にお話をいただいたのでとても理解できました」との声がありました。

第40回大巌寺別時念仏会

 

山本 サチ子

◇日 時:9月18日(日)~20日(火)
◇会 場:千葉県千葉市 檀林龍澤山大巌寺 
◇法 話: 藤本浄彦上人
◇参加者:延べ65名

山門を潜ると優しい観音像のお姿、そして芙蓉の花が一面に咲いています。心休まる風景に心が洗われます。大巌寺はそのような別天地なのです。

〈御法話の内容〉

 3日間の期間中に午前と午後各1回(総計6回)のご法話がありました。全体を次のように受け止めました。紙面の都合上概略のみ掲載いたします。

(1)『如来光明礼拝式(儀)』の形式 ―仏教の伝統を踏まえて形成―
法話は講題「『如来光明礼拝儀』を読む」と題せられ資料に基づき進められました。はじめに―日本仏教の試練―の概略があり『如来光明礼拝式(儀)』の形式について語られました。仏教の伝統を踏まえて形成され、その形式ではありますが、晨朝の礼拝、昏暮の礼拝をとおして仮説的私見として説かれました。すなわち藤本上人は「弁栄聖者の『礼拝儀』として「光明摂取」の信における『念佛三昧』の口称と「総廻向」の往生心を骨格とする。少なくとも『礼拝儀』の形式は、天台・真言の懺悔法としての五偈を無視することなく、具体的には善導『往生礼讃偈』の日没と中夜の礼讃偈を取り込んで、出家者ではなくて「凡庸な人が修すことが出来る”式(規律・規範・行儀実践”)」の日没として形成していることがわかる。その意図を果たすために『礼拝儀』は仮名交じり文でルビ付きであり、我々の日常的語りことばの言語世界が特徴的である。浄土宗の勤行が、仏を迎え讃じ念仏を一会として申し、最後に仏を送るという伝統的儀式であるのに対して、弁栄聖者の『礼拝儀』はどこまでも阿弥陀如来を前にして在る衆生凡夫が懺悔する方軌の只中で念仏申すこと、すなわち法然上人の念仏そのままに「ただ一向に念仏すべし」において三昧の境地へと導いていく。」と述べられました。①形式については○晨朝の礼拝○昏暮の礼拝につき詳細に説明がされました。
(2)『如来光明礼拝式(儀)』の内容的特徴 ―弁栄の浄土仏教の教化―
  1. 宗教(念仏)体験に基づく”ことば”
  2. 『如来光明礼拝儀』の出版履歴と構成の変化・点描
(3)『礼拝儀(式)』を読む
  1. 三礼
  2. 表題「至心に帰命す」―心を一つに差し向けて―
  3. 『法身・報身・応身の聖き名に帰命』=法報応身の働きである名(名号)に心を一つに差し向けて頼みます。

藤本上人は礼拝儀の精神は何かというとやはり相続ではないかと思うと話されました。そして別時の持つ意義は意識共同体であると思うとも述べていました。
「弁栄上人の着眼点はどこにあったのか」それは法然上人の選択本願を口称念仏として『選択集』の題字の横に自らが書かれた「南無阿弥陀仏 往生之業 念佛為先」を相続されたところであったと思う。
私達は念仏を申すことによって煩悩を無くしていきます。草花もつるに絡まれると育たなくなります。それと同じように私達も煩悩に絡められてお念仏がなくなっていくのはまずいことであります。念仏に勇みある人は無量の宝を得る人なりです。 
煩悩を無くしていくためには、あるがままに念仏をしていくことです。あるがままに念仏を励むとだんだん深く入ってそして到達点を得ていくのです。そして十二光仏の世界が開けていきます。『礼拝儀』には色々の本門が詰まっています。私達は先人が残してくれたものを味わい拠り所としていくことにより「和」ができていくのだと思います。
「どうか皆さま念仏を申して精進いたしましょう……」と結ばれました。

感想

感想(1)
 自分はこれまで『如来光明礼拝儀』を拝読してきましたが、三身即一の如来12光仏の□お絵図・光明食作法(食前・食後)のことば等にはあまり目を向けていなかったことに気が付きました。礼拝式にばかりスポットがあたり内容も理解できない箇所が多々あったと思います。今回の法話で深くかみ砕いた説明がなされたことを喜ばしく感じています。この大巌寺の別時に参加し得るものがたくさんあったと感謝しています。
  足らぬ自分の力では 
  越すに越されぬこの峠
  まもるお慈悲のみ力で
  越されぬまゝに越せてゆく                           
   『光明歌集』(田中木叉上人作詞)
感想(2)
 今回のお上人の説法を拝聴して今、自分の気持ちは田中木叉上人のこのお歌の中にあると考えています。こうして別時につくことができ参加者が修行に打ち込めたことは一重に大巌寺の皆さまのお陰です。
 長谷川先生、ご家族の皆さま、導師の藤本上人そして幼稚園・保育園の関係者の皆様・参加者の皆さまありがとうございました。ひとりでも多くの仲間を作り来年もまた大巌寺の別時念仏会に参加し輪を広げていきたいと思っています。

 

   

合掌

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