光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成29年1月

関東支部報告

一行三昧の会

        

鎌尾美津江

◇日 時:11月6日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一氏
◇参加者:17名

午前は念仏三昧、午後は起行の用心の講話がありました。光明園の広い玄関で靴を揃えて二階の本堂に上がらせていただくと、三昧仏様が迎えて下さり安心感に包まれます。

〈講話〉 起行の用心 その3

承前(その2より)
 信念の重要さについて弁栄聖者のお言葉(『難思光・無称光・超日月光』28~30頁)
・真実に如来様は私の真正面にましますことを信じ、深く憶い上げて、ナムアミダ仏と余念なく…憶念と称名の関係を炭と火に譬えると、南無阿弥陀仏こそが火だと思っている人が多いようですが、火は憶念であり南無阿弥陀仏は憶念に風を送ることです。
 風(南無阿弥陀)→火(憶念)→炭(念仏者)これが見仏に関する教えの要点です。
 子供の頃、かまどに火を起こすのに火吹き竹で風を送ったことが思い出されます。
・三昧に入って如来の霊響に充たされる妙境に…妙境とは七覚支のうち捨・念覚支の境涯で「如来様といつも一緒」の意です。聖者もその意味で「仏陀禅那」と揮毫された書等もあります。
念仏はなぜ易行なのか
 弁栄聖者がある日突然、念仏したら三昧発得し智慧と永遠の生命が頂けると言い出したのではありません。法然上人、善導大師も同じ事を仰っています。更には二千年前に大乗仏教の祖・龍樹菩薩も阿弥陀様をお慕いすることが仏教の正当な修行法であり、易行であると看破しておられたのです。(「仏力と易行ということ」『ひかり』2013/6~12月号参照)
 龍樹は『十住毘婆沙論』(鳩摩羅什訳)の中で、陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし…と論じています。
 十住とは十地の意で、十地の最初の初地に至ることさえも八法(三学)を具さなければならず、法然上人は自分は三学(戒定慧)非器であるから、そのような修行はかなわず、別の方法でお釈迦様のお救いにあずかりたいと念仏を選択されたのです。
易行とは何か
 「易行品」の十方十仏章、弥陀章にある弥陀の名を称えて憶念しなさい、とは具体的にどう実践すればよいのか『般舟三昧経』に説かれています。般舟とは「対して近く立つ」の意とされます。その「行品第二」(望月信亨国訳)に、
 仏、いずれの所より来り、我、いずれの所に至るとなしたまう。自ら仏を念ずるに従来するところなく、我もまた所至なし。
 彼の間の仏刹に生じて見るにあらず、すなわち是の間において坐イナガラにして阿弥陀仏を見たてまつる。
 仏がどこからか来ることでもなく、私が仏の所に行くわけでもない、これは縁起そのものです。
 聖者は如来を主観的客体と仰っています。自分に信仰があれば客体として如来様が現れて下さいます。そしてこの場所において阿弥陀仏とまみえると明確に記されています。
念仏はなぜ易行なのに効果があるのか
 念仏をしていると、本願、三心、三縁が起こってきます。本願とは大ミオヤたる如来の「子をして親たる自己と同一の位置に到らしめんとす」る親の立場の願望です。三心とは子である衆生の自覚で『観経』の至誠心、深心、回向発願心、『大経』では至心、信楽、欲生我国、聖者は信、愛、欲とされています。三縁とは念仏三昧の縁起の実践ゆえに現れる功徳で、親縁、近縁、増上縁です。これが念仏の不思議なメカニズムの答えでしょう。

第八回光明園別時念仏会(弁栄聖者報恩別時)

        

佐藤蓮洋

◇日 時:11月19日10時(土)~20日16時(日)
◇会 場:光明園
◇参加者:延べ35名

 光明園の別時(弁栄聖者報恩別時)も第八回目を迎えました。今年は、新園主となられお導師をされた大南龍昇上人のお導きによって、二日間の日程が滞りなく終了しました。
 初日は、開会式・園主のご挨拶・念仏・礼拝・聖歌(聖きみくに、念仏七覚支、諸根悦予讃)・講話(佐々木有一氏)があり、二日目は念仏・礼拝・聖歌(清浄光、念仏三昧、のりのいと)・法話(大南園主)・閉会式・茶話会がありました。今年は、昨年に比べて念仏の時間が増え、大木魚は数名の方に交代いただくなど、お上人の方々と在家の方々が協力して別時を運営いただきました。
 食事時には光明園の庭に実った柿がふるまわれ、また、茶話会では山本サチ子さんが持参された川越名物のオイモ(ふかしたて)が皆さんの好評を得ました。
 四月にご遷化された河波先生も多くの皆様のご参加とご支援を得て相続されたお念仏会に、きっと弁栄聖者、田中木叉上人とご一緒に参加されていらっしゃったことと思います。
佐々木有一講師のご講話は、光明園の一行三昧でお話をされている「起行の用心」の第四回目のお話として『般舟三昧の実践(大谷仙界上人へのお慈悲の便り)』でした。
 礼拝儀に掲載されている「お慈悲のたより」を十に区分して、それぞれの区分のお言葉をお説きになるとともに、それに応じた田中木叉上人の御道詠を紹介されました。(このお歌の選択は、佐々木氏の感覚で感じたお歌、とのことです。)
 最後に、念仏者の心境が深化する、すなわち如来さまをお慕いする愛慕には三つの段階があることを笹本戒浄上人のご説明を引用しながらご紹介されました。一期 母子的、二期 異性的、三期 融合的と説かれ、第二期は真応身、第三期は霊応身ではないか、と佐々木氏のお考えも披露されました。
大南龍昇園主のご法話は、「十夜別時念仏会の意義」と題され、お十夜は阿弥陀如来のおさとりを祝い、その広大な慈恩に感謝するための十日間の別時念仏であると説明されました。また、その起源は、室町時代末期に足利将軍義政の執権職の子である平貞国が肉親の不和からこの世の無常を痛感し、真如堂で十日十夜の念仏修行を行じたことですと述べられました。お十夜の別時に大きな意義と功徳があることは「無量寿経」に「この穢土で善を修すること十日十夜すれば、諸仏の国土でそれを千年するよりも勝れている」との一節に示されています。この教えは、極楽浄土への往生をすすめる浄土宗の教えの中で、現世での修行の意味を肯定するものです。そして、「穢土(娑婆・忍土)で善をなすことのむずかしさ」はあるけれど、坂村真民氏「小さなおしえ」の詩にもあるように「貰う側から上げる側」になることを説かれました。次にメーテルリンクの『青い鳥』を紹介され、幸福は日常生活の中で探すことが大切であり、本当の幸福とは何か、を考えることも重要であると話されました。また、金子みすずさんの詩によって、両親・先祖への思い、仏様への感謝、見えないものがあることへの確信、自然の中の不思議などを紹介して心のふるさとについて述べられました。最後に田中木叉上人聴書として、昭和二十五年の永昌寺でのご法話<幸福とは>を引用され、人には不平不満があるけれど、お念仏すると「これでよい、これでよい」と幸福感が得られると、お念仏の功徳を強調されて結ばれました。

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