光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成29年2月

関東支部報告

一行三昧の会

        

鎌尾美津江

◇日 時:12月4日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一氏
◇参加者:20名

次々と講話に出てくる言葉に難儀しますが、如来様と結ばれた纜(ともずな)を解くことなく精進していきたいと思います。

〈講話〉 起行の用心 その5

念仏で何が起こるか
(1)一々の光明により摂取不捨の働き 
(2)有相の般舟三昧 念仏しながら必ず声を出すことが大切です。声を出して念仏することが阿弥陀様への信仰に火を起こします。その為に必要なのが有相です。有相とは憶念しながら念仏する、つまり仏様に向き合い仏様を人格的存在として仰ぐことです。 
 仏教の瞑想でいう止観の止とは心を何かに繋ぎ留めることで、ズバリ仏様に繋ぎ留めるのが般舟三昧です。黙って一点を見つめるより如来様を仰ぎ見ながら声を出す方が心が静まる気が致します。如来の聖容をお慕い申しお遇いしたいと念ずる思いが起行の用心で、唐沢山の岩壁にある聖者の『御垂示』にも「意に弥陀の身を憶念し、口に弥陀を称え」と刻み込まれています。 
(3)心眼・啓示 
 念仏をしていると心の眼が開けてくる、そして心の眼がある段階までくると如来様のお示し(啓示)を感じ取る事が出来るのです。それを智慧光がタイアップして助けて下さるのです。憶念しなければ空念仏です。「念声是一」「名体不離」の念仏で心眼が開け、啓示があるのです。念仏で何が起こるかは、『礼拝儀』の「光を獲る因」に簡潔的確です。 
三十七菩提分法(三十七道品)
 弁栄聖者がこのような方法でお念仏しなさいとお説き下さったのが七科三十七菩提分法です。聖者が御遷化される前年の大正8年に広島のお寺に高弟のお弟子方を集めて特別の講演をされ、その口術筆記が残されています。(橋爪勇哲編『念仏三十七道品御講演聴書』) 
 一科から六科は救我、七科は度我と考えますと、わたくし達共々救我を先決とし七覚支までの山道を登って行きましょう、というのが此のシリーズの目的です。人を救うには自分が泳げなくてはなりません。そして七覚支で仏眼を開いた後の菩薩道の実践である八正道と、一科から三科は深心の二種深信と重なっていますので割愛します。救我が進めば自ずと七覚支、八正道が分かります。次回以降一つ一つを詳しく学んで行きたいと思います。 
 テクニカルターム(専門用語)が出てきますが、それを覚えることが目的ではなく、段階を踏んで修行していき、良き指導者を得て自分の物差しとして欲しいのです。しかし大切な事は、自分がお念仏をすることです。

念仏と法話の会

        

志村念覚

◇日 時:12月18日(日)  
◇会 場:光明園  
◇導 師:大南龍昇園主
◇参加者:25名

 本年最後の例会は午前中お念仏と礼拝義、午後は大南園主の御法話があり、成道会にちなんで釈尊のさとりについて長年研究されてこられた仏教学からのお話しや、弁栄聖者による釈尊成道、弥陀と釈尊の関係などをわかりやすくお話しいただきました。今月より長年念仏と法話の会の記事を担当してくださった佐藤蓮洋副園主と山本サチ子さんに引き継ぎ担当いたします。

弥陀と釈尊 ―成道会に寄せて―

はじめに
 成道会は臘八と言われ臘月(十二月)八日に釈尊がさとりを開かれたという成道の日を記念した仏教行事である。釈尊は二十九歳で出家し六~七年(通説では六年、スッタニパータでは七年)でさとりを開かれたとされている。釈尊の成道を中村元博士等による近代の科学的研究成果により導き出された歴史的存在の釈尊と、弁栄聖者の説く大乗仏教における人仏の釈尊と天仏の阿弥陀仏について見ていきたいと思う。
一、歴史的存在としての釈尊の修行(悪魔の誘惑)
 原始仏教聖典のうちでもっとも古い『スッタニパータ』には、修行中の釈尊を悪魔が誘惑した話が伝えられ、その中で悪魔は、「われは七年間も世尊に一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることができなかった。」(中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』四四六頁、岩波文庫)と述べ、成道前も正覚者と呼び出家からさとりまでの期間の誘惑に対する不断の抗争が釈尊の修行の内容をなしていたことを伝えている。中村元博士は後世の多くの仏伝では成道の劇的効果の印象を強めるため釈尊成道のまぎわに悪魔の誘惑に対する克服(降魔成道)の場面が描かれるが、覚者(ブッダ)となる成道の前も、また成道後においても覚者たることは悪魔の誘惑を避ける行為自体のうちに求められ、その不断の精進がそのまま仏行であったと述べている。
二、釈尊のさとりの世界(仏華厳三昧)
 弁栄聖者は弥陀の仏身について法身・報身・応身の三身がひとつ(三身即一)の大ミオヤと教えている。このうちの応身が教えのミオヤである釈尊であるが、釈尊成道において「仏華厳三昧に入って真実如来の霊界を顕現せられたり。」(『無称光』一八八頁、以下同書による。)と説いており、この仏華厳三昧により見た蓮華蔵世界が大乗経典の『華厳経』に説かれる盧舍那仏のさとりの世界である。釈尊がさとりを開いたとき、その姿は樹下に趺坐し眠っているように見えるが、釈尊の心霊には蓮華蔵世界が開かれていた。その中央に盧舍那仏が無辺の光明を放つ荘厳な姿を見たのである。聖者は「盧舍那如来即ち法身無量光如来である。」と、盧舍那仏と阿弥陀仏は同一であるとし、一切万法の本源であり宇宙の中心の独尊と説いている。そして『無量寿経』には「無量寿如来威神光明最尊第一」として阿弥陀仏の無量無辺の光明は十方世界を照らして、一切衆生をその光明により清浄と歓喜と智慧を得させることができると説き、これを聖者は独尊と呼ぶのである。
三、弥陀と釈尊(人仏釈尊を通じて天仏の弥陀を信解すべし)
 弥陀(大ミオヤ)と釈尊(教えのミオヤ)との関係について弁栄聖者は独自の仏身観から、大ミオヤが天仏の弥陀として宇宙に霊的人格として実在することにより、この地球上に教えのミオヤである人仏釈尊となって実現したと説いている。しかし、大ミオヤ(弥陀)は絶対の霊格であって人間には理解できない。教えのミオヤである釈尊という人仏として出現してくださったことで、我々は人仏釈尊を通じて天仏の弥陀を信じその教えを理解することができる。そして、弥陀と釈尊の関係について、天の月と水に映る月の如く、釈尊という霊的人格は宇宙に存在し霊界に存在する霊的満月が人界に映現したものと説いている。この真理を明らかにするのはインド伝統の印度教でも小乗仏教でもなく大乗仏教だけであると聖者は説いているのである。
おわりに
 最初期の経典の中で悪魔と斗い不断に精進する釈尊の姿に私たちは念仏三昧実践の原点を見る思いがする。弁栄聖者は釈尊のさとりの世界を更に高い次元からとらえ、私たちに大ミオヤによるさとりの道を示してくれているのである。
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