光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成29年8月

関東支部報告

一行三昧会

鎌尾 光栄

◇日 時:6月4日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:16名

 青もみじの美しい季節になりました。光明園の窓から見える柿の若葉も輝いています。透き通った清浄な緑を見て念仏していると気力が生じて元気になれます。さわやかなゴールデンウィークの最終日を過ごすことができました。茶話会の後は関東支部の役員会がありました。

〈ご講話〉起行の用心その10 七覚支(1)

念仏七覚支 
 念仏修行を富士の登山に例えるなら五根五力で登山口までたどり着いた修行者は無称光に照らされて無分別智に目覚める第一歩を踏み出すことになります。弁栄聖者は凡夫から聖人を経て仏になるまでを七覚支でお説きになっています。

 南無無称光仏
如来の慈光被れば   七覚心の華開き
神秘の霊感妙にして  聖き心によみがえる
「念仏三昧の思惟を階級として正受に入る。その心行の順序を説明するものは七覚支なり…この七覚支は植物が成長して枝葉繁り、ついに花が開くに例えん。これ念仏三昧の心霊の開く状態なり。」(『難思光・無称光・超日月光』)

「起行の用心」はつまるところ『観無量寿経』の思惟と正受を正しく体験することに尽きます。思惟とは障子を隔てて明るい月を見る如く、正受とは障子を開けて皓月を見る、すなわち、阿弥陀様や極楽の荘厳を目の当たりに拝することです。
『宗祖の皮髄』では「霊格の核と種の伝播」と題して神秘(転依の内容)を詳しく説明されています。
あらゆる生物界では小さな草やまた大樹でも、黴菌から人類までも、あらゆるものに種子がある。心霊にも種子があり核がある。宗祖の霊格を慕って同じようになろうとするなら、原形質となる拠り所は何であろうか。花が開かなければ実がなることはない。花が開いて受粉して、それがもととなってついには果実となる。
この様なたとえは無上最高の霊性に比するのはもったいないことであるけれども、もともと一切の衆生には悉く仏性がある。仏になる核の半分すなわち仏性はすでに備わっているけれども、それだけでは心霊開発はできない。もう半分の仏様から頂く新薫の種子がなければ仏性は現実の自分のものとはならず、お育てもいただけないのである。
念仏三昧の花が開くときに、如来の霊性が入精し、その霊妙不可思議の霊感が霊胎となる。如来の霊性に触れて聖き妙味を感じるのは霊格の核が伝播し、その仏種子から常に光明赫灼たる聖き聖容を感じるからである。

(1)択法覚支

 先ず礼拝儀の択法覚支のお歌を拝読致します。

弥陀の身色紫金にて 円光徹照したまえる
端正無比の相好を  御名を通して念おえよ
総の雑念乱想をば  排きて一向如来に
神を遷して念ずれば  便わち三昧成ずべし

「択法覚支とは、弥陀に入神の着眼点なり。まさに正鵠を認定する。(正鵠とは弓の的の中心の黒点。ここでの意味は報身阿弥陀の最中心たる端正無比の慈悲の御顔を「聖容」の同義と仰ぐこと、それが御名を通して念う正鵠に他ならないのです。)択は簡択とて、すでに(五根五力の)前方便の素養あるをいう。たとえば太陽といえば、太陽が心に浮かぶごとくに、弥陀仏といえば弥陀が思想にあらわれるごとし。しかるときは、それが正鵠を択びて心々連続して、神をその中に入れるなり。動ずれば雑想、妄念群り出でて、正境を乱さんとす。意志を凝らして正鵠に向わしむ。……要は一心統一して、弥陀の霊中に神を入るるにあり。」(『難思光・無称光・超日月光』)
「礼拝儀」の頌、「総ての雑念乱想をば」の雑念とは如来の聖容を憶念する以外のすべての念、乱想とは白毫や御顔の一部に心をとめることなどで、聖者は時にこのような対機方便をお書きになる、というのが戒浄上人のご注意です。本意は「御名を通して慈悲の聖容を念おえよ」でしょう。
念に応じて三昧の内容が決まります。三昧仏のお絵像からはじまって、それが自分の記憶となり、次第に活きた如来様がお絵像となってそこにいて下さると思えるようになっていく、そのような起行の用心があくまで基本です。択法覚支とは如来様を心の中に憶いあげることで、五根五力によりその準備が出来ていることが大切なのです。

念仏と法話の会

志村念覚

◇日 時:6月18日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 午前中はお念仏と礼拝儀、午後は大南園主から先月(五月)の御法話の仏知見の霊相と題して開示悟入についてのお話に引き続き、その中でお話した禅家と啓示について神通をキーワードとして御法話をいただきました。

〈御法話〉 禅家と啓示 ―「神通」―

はじめに
 四月の例会には釈尊の誕生に因み「釈尊出世の本懐」という釈尊はこの世にどういう目的でお出ましになられたかという話をし、五月の例会では法華経に説く釈尊出世の本懐として「仏知見の開示悟入」について、天台宗と弁栄聖者の説くさとりの世界を見てきた。仏の智慧を全ての人がさとり、全ての人が成仏することを釈尊出世の目的とすることが法華経の説く一番大切なところである。聖者は禅宗において開示悟入の悟をさとりの目標としていることを指摘し、『人生の帰趣』において「禅の見性の如き本地の風光又は天地一体の如き、尚広くは三昧を得て諸の神通、智慧、総持(仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。)を得る等なり。」と、禅宗においてもさとりの境地として三昧以外に「神通」などが得られると述べている。道元禅師は『正法眼蔵』において神通を身近な生活の中でのこととして、このさとりの境地をわかりやすく説いている。『正法眼蔵』には「法華転法華」の巻において開示悟入について記されているが、今回はこの「神通」というさとりの世界に着目して見ていきたい。
一 「開示悟入」再考
 弁栄聖者は仏知見を理屈で理解するのではなく体験により理解するものと捉えている。ここでは前月のおさらいとして聖者の説く開示悟入を再考したい。聖者は仏知見の開示悟入に至る仏道修行に二つの道があり、一方は「哲人としての仏陀」の説く道で非常に困難な道(聖道門)であるとし、もう一方の「大宗教家としての仏陀」の説く仏知見は易行の仏知見であり、どちらの道も同じさとりに至ると説いている。聖道の修行により自分たちの力でさとる困難な道によらなくとも、宇宙法界の中心である阿弥陀如来(大ミオヤ)を信じ念仏することにより、報身如来の大光明に摂化せられさとりの境地に導かれる道を説いているのである。
 また、聖者は『光明の生活』において、「仏知見開示とは即ち如来の実在を啓示さるる相にて、基教に啓示、また黙示とも云い」と、仏知見開示について如来の実在をあらわし示すことをキリスト教のような啓示として開示悟入の四つの諸相を説いている。

○開(感覚的啓示)
開とは、如来の実在を知見する時の先駆的な顕現の仕方で、感覚的啓示を特色とする。感覚的とは三昧定中若しくは夢定中に色声香味等の五妙感の明相が現われる啓示である。
○示(写象的啓示)
示とは、妙色荘厳等を感見する感覚的啓示の次の段階で、智慧と慈悲等の如来が内包する聖徳を衆生に示すことで写象(映す・写す)的啓示を特色とする。また聖者は、「『観経』に、仏身を観る者は仏心を見る、仏心とは大慈悲是なり、無縁の慈を以て諸の衆生を(光明により)摂(取)す等、また如来の大円鏡智等の四智等を示さるを仏智慧が衆生の心中に顕現することを示とす。」と説いている。
○悟(法身理想啓示)
悟とは、如来の三身の実在と霊能とを知見できることで感覚的啓示は応身、写象的啓示は報身の智慧と慈悲、悟に証入すれば法身に契合する形式的合一が得られ、これを法身理想啓示という。
 また聖者は禅宗について自性清浄法身を直接目標として修行し、自己の本性(仏性)に目覚め(見性)、真の自己を直覚体験することで仏(覚者、仏陀)の悟りと安心の境地を達成される(成仏)という。悟の位に至る修行の道であることを認め、その限界をも指摘している。
○入
入とは、如来の法体に證入することで如来蔵を開く時は本覚の如来は我父であり、我は始覚の子(仏子)と認識する法身の最深の面と合一できるようになり、三身四智の仏眼の境界である。

 以上、さとりの境地に至る四つの諸相を見たが、神秘体験の境地について浄土門のならわしとして他者に語られることは極めて少ない。先に述べたように、道元禅師は『正法眼蔵』において神通を身近な生活の事実として捉え、さとりの境地をわかりやすく説いている。以下、『正法眼蔵』と自己について岡潔の記述を紹介し、『正法眼蔵』に説く「神通」について見ていきたい。

二 岡潔と二種類の「自分」―自我と(真実の)自己―
 弁栄聖者の光明主義に深く帰依したことで知られる数学者の岡潔は、『紫の火花』において『正法眼蔵』の説く自己について次のように記している。
 自分とは何かというのは一番むつかしい問題の一つであろう。この問題を一番深く取扱ったのは、私は道元禅師の『正法眼蔵』であろうと思う。禅師はこう言っている。(中略)
 〔訳〕ありとあらゆるものが仏法であるとみるときには、迷いもあれば悟りもあり、修行もあり、生もあり、死もあり、諸仏もあり、衆生もある。
 しかし、ありとあらゆるものが我とともに無くなったときには、まどいも悟りもなく、諸仏も衆生もなく、生も滅もない。いっさいは絶対無である。
 仏道はもとより、このような有無の境界をとび抜けているのであるから、事実は事実のとおり、生滅もあり、迷悟もあり、衆生も仏もある。しかしそれはそうでありながら、花が散ればまことに惜しいし、草が茂れば実にいやなものである。(『現成公案』玉城康四郎訳)
 この「われ」とは何であろうというのである。禅師はこれについて『正法眼蔵』の方々で説明している。しかし、それに頼らないで自分の目で見ることにしよう。
人は普通「自分」という言葉をどんなふうに使っているだろう。自分に対しては、自分は損をしたとか、自分は得をしたとかいうように使っていることが多い。しかし他人に対しては決してそんなふうには使わない。漱石はこういう人で、芥川はああいう人で、佐藤春夫はそういう人だというふうに使っている。だから「自分」に二種類あるわけである。自分に対して使う自分を第一種類、他人に対して使う自分を第二種類と呼ぶことにしよう。
この第一種類の自分を自分と思っていると、死ぬのが恐ろしくなるものらしい。(中略)寺崎広業(一八六六―一九一九、秋田県出身、東京美術学校教授)という日本画家があって、絵がよく売れたから立派な家を建てたのだが、間もなく不治の病にかかった。癌と聞いたと思う。大正のことだと思う。それで笹本上人だったと思うが、見舞に行かれてこう言って慰められたと聞いている。
「あなたもこんな立派な家を建てて、それを残して死んで行くのはさぞ心残りであろうが……」
そうすると、彼も立派な家を建てなかったならば、死ぬのがそんなにいやではなかったのである。
 第一種類の自分は、肉体の死とともに、同時にではないが、死滅するのであって、それを何となく感じるのであろう。だから、これを自分と思っている人が肉体の死を恐れるのは当然である。
 真善美妙の道を歩む人は、何となく第二種類の自分を自分と思っている。それで余り肉体の死を恐れないのである。
(岡潔『紫の火花』朝日新聞社 昭和三十九年六月)
 以上、岡潔は『正法眼蔵』に道元禅師の説く自我と真実の自己を理解し、自分なりに自我を第一種類の自分、真実の自己を第二種類の自分として説明しているのが興味深い。
三 『正法眼蔵』の「神通」をめぐって ―道元禅師の啓示のあり方―
 玉城康四郎の訳した『現代語訳 正法眼蔵②』を見ると、道元禅師は神通について次のように記している。
 これより述べようと思う神通は、仏者にとっては日常茶飯のことがらである。諸仏は今に怠ることはないのである。
 神通については、六神通(神足・天耳・天眼・他心・宿命・漏尽)があり、すべての神通を一つにまとめる一神通があり、神通の所作にとらわれない無神通があり、究極の悟りである最上の神通がある。朝には三千、暮には八百というように、数え切れないほどの時々の所作がすべて神通である。
 ?居士蘊公は、仏祖の中では偉人である。馬祖道一や石頭希遷の両禅師に参学しただけでなく、仏道に達した多くの師に交わってきた。あるとき居士がいうに、
「神通並びに妙用、水を運び柴を搬ぶ」と。
この道理をよくよく参究すべきである。ここに運水というのは、水を運んでくることである。自分で運ぶこともあり、他の人に運ばせることもある。これがすなわち神通仏である。あるときは神通だと気づくこともあるが、ともかく神通はすなわち神通である。人が知らないからといって、神通がなくなるわけではない。たとい知らなくても、神通はおのずから行われている。水を運ぶことが神通であるとは知らなくても、神通が水を運ぶことになっていることは間違いない。
 搬柴というのは、たきぎをはこぶことである。たとえば、六祖慧能がむかし行なっていたとおりである。朝に暮れにたきぎを運びながら、神通とは気づかなかったけれども、それが神通の現われだったのである。
 まことに、諸仏如来の神通の不思議な働きを見聞するならば、かならず仏道を体得できるであろう。それゆえに、一切諸仏の体得は、かならずこの神通力によって成就しているのである。したがって、上半身から水を出すごときことは小神通であって、水やたきぎを運ぶことの大神通なることを学ぶがよい。
 水やたきぎをはこぶ仕事は、今でもすたれていない。人はこれを続けている。それゆえ、昔から今に及び、此れより彼に伝わり、しばらくもおろそかになっていないのは、神通の不思議な働きである。これこそ大神通であり、小さな神通とは異なるのである。(玉城康四郎『現代語訳 正法眼蔵②』大蔵出版 平成六年一月)
 道元禅師は日常のあたりまえと思っていることも実は如来の神通の不思議な働きであるというのである。このあたりまえのことを如来の神通として察知し感謝するこころと、それを行動で体現していくことこそさとりの境地へと向かうことと説いているのであろう。
四 相田みつをの「神通」解説
 相田みつをは栃木県足利市出身の詩人、書家で、在家で曹洞宗高福寺の武井哲応のもとで禅を学んだ。彼は著書『一生感動 一生青春』において前三に記した『正法眼蔵』の運水搬柴の神通について次のように解説している。
 水を汲んだり柴を運んだり
 仏法とか、禅などといいますと、何か特別なことのように思われますね。まして、〈神通〉なんていうと、それこそ特殊な人間にしかできない特別な状態を連想するでしょう? 道元禅師の言われる〈神通〉はそんなものではありません。特殊な人にしかできないものでは万人の救いになりません。仏法とは万人への教えですから〈神通〉も特殊や特別な人のものというのでは困ります。〈神通〉とは、運水搬柴などといって、水を汲んだり、たきぎを運んだりすることです。つまり、朝から晩までの、日常生活の中の仕事を、一つ一つ、具体的にきちんとやっていく、ということです。あたりまえのことをあたりまえに、心をこめてやっていくことです。例えば、便所を使う時には、便所を汚さぬよう気配りすることです。なぜ? 後から使う人が気持ちがいいからです。そういうあたりまえのことを、ごく自然に実行できる人を神通力のある人というのです。(相田みつを『一生感動 一生青春』文化出版局 平成二年六月)
 念仏をしながら、朝から晩までの日常生活の中の仕事を一つ一つきちんとやっていくことが光明生活であり、我々の念仏修行に通ずるものであろう。
 この他に、同書に?山霊祐(七一七―八五三)という禅僧と弟子の逸話による神通の話も大変興味深いのだが紙面の都合で割愛する。ご一読をお勧めしたい。
五 弁栄聖者の神通観 ―四智のはたらき―
 弁栄聖者は、『光明の生活』(四五二頁)において、「如来の智慧神通人格円満等の万徳は仏陀の一人格に具備し三輪清浄にして自利利他の徳備わりて、また所化の衆生を摂化し玉う。身口意三業完全道徳の鑑なり。(中略)一切は本、如来より生ずる万物なれば、如来の光明に自覚する時は、自己の性、本来、如にして二如なく、身口意の三業共に如の徳を行じて、如来と共に仏心仏行を作すことを得。」と、智慧神通等の万徳はその鑑たる仏陀と同様に衆生に既に具わり、如来の光明を自覚すれば身口意の三業は如来の徳を行じることができるとしている。また、『無辺光』(二七六頁)には表情言語等の察智として、「他人と応接して彼が内心の事情を言語に詮表す。然るに但だ符号にすぎざる言語を受け自己の察智は之を翻訳して彼が意志の如何を識る。また他人の挙動を見て彼が意志の在る処を察する如きは、彼と我とは身体も精神も別々なるも、本一大共通の点ありて、感応神通して之を察することを得。(中略)察智は宇宙神秘の蔵を開くべきが為めに与えられ賦与せられたり。人々すでに斯の如く四智の形式を具備せり。」と、人が表情や言語等による意志の疎通は感応神通により察することができるとし、このように人が認識することができる妙観察智のほか、大円鏡智、平等性智、成所作智の四智は人々にすでに具わっているものだとする。しかし、四智や神通などの万徳を具える霊性は如来の光明を知らない「無明」な状態では活かされず、絶対如来の中に在りながら、自ら相対生死の中にあるという。如来の光明によりこの霊性を開発し、如来の大我を我として光明の人格となり、如来の徳を行ずる入の境地に至ることができるというのである。
おわりに
 神通により説かれるさとりの境地は、日常生活のあたりまえのことを、ごく自然に実行できることであり、それができる人を神通力のある人という。弁栄聖者の説く光明主義は、常に如来を憶念し、念仏をしながらに身口意の三業の日常生活を一つ一つきちんとやっていく光明の生活を実践し、如来の光明により我々にすでに具わる智慧や神通等の万徳の霊性を開発し、円満な光明の人格を目指すこと、すなわち神通力のある人を目指すことといえよう。
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