一行三昧会
鎌尾光栄
◇日 時:12月3日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:13名
〈ご講話〉起行の用心 その15
起行の用心総括―笹本戒浄上人による「大谷仙界上人へのお慈悲の便り」の解説―
「大谷仙界上人へのお慈悲の便り」は先に般舟三昧の実践という項で取り上げましたが、笹本戒浄上人による貴重な解説文のあることが分かりました。橋爪勇哲著『妙好人荒巻くめ女』の巻末に付された一文で、田中木叉上人の「巻末に添えて」の文と共に味読致します。
巻末に添えて 田中木叉
極楽のはなのようなる雪がふる
雪をながめて申す日もあり
わが庵はたたみ一じょう千じょうじき
となりきんじょはぼさつばかりぢゃ
―荒巻くめさん―
(前略) うぶに信じ至誠に念じたナムアミダブツだけで、心のまなこを、大慈大悲の大み力で開示していただき、法眼慧眼の「花ふる」さとも十方皆空の「千じょうじき」〈千畳敷〉の真如の空も、日常念仏の心境に、恋しなつかしの大御親さまから御みちびき入れていただいた荒巻さんの、事実の一部分を伝えこの本を、本として読むではなく、御みちしるべとして、吾々も念仏精進したいものでございます。荒巻さんのみあとをしたい、現身を通して未来永遠に、如来大悲の光明を、マザマザと、いただきたいものでございます。
荒巻さんが帰依して居られまた荒巻さんを時々御たずね寄り下された大谷仙界上人に賜りたる聖者の御慈悲のたよりの一節を、笹本上人が解説して下されたものを以下にかかげて、念仏無上道を向上するエスカレータにしていただきます。
笹本戒浄上人解説(紙面の都合上、抜粋させていただきます)
すべてを大ミオヤに御任せ申上げて常に如来様を御慕い申して南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御念仏申して居りますと、如来は何時も離れずに私共の真正面に在して慈悲の聖容を向けてちょうど母が子を念う様に、アノ慈悲の眼を以て母が子供に乳房を含ませて居る時の姿はどうでしょうか。もう可愛くてたまらない。眼の中に入れても痛くないと言う様にして手塩に掛けて育てて下さいます。その事は如来様が私どもを御育て下さる時も同様であります。如来様が私どもを念って下さること、母親が子を念うが様であると譬喩を以て形容して言って居るのでは断じてありません。事実、如来様は私どもの根本の本元の真実の大御親であらせられます。
かくして如来様を御念じ申す心――その御念仏の心が本当に一心に成って参ります。すなわち統一されて参ります。すると、昔と違った心の状態に成ります。その時が、すなわち如来様の中に居らせて頂く様に成った所であります。すなわち、心の眼が開けて広い広い大光明の中に居らせて頂く様になる。其の時は何とも言えない朗らかな冴々とした清々しさ、有難さ、忝なさに充ち満たされ、心広く躰胖にならして頂けます。そこは広い広い大光明の中に出させて頂いた所――それが更生の天地、すなわち光明の生活と申します。かく、御念仏の心が統一すると心に御光明が頂けます。
それで、弁栄聖者は「私どもの心が如来様の御慈悲の聖容にうつり、如来様の御慈悲の聖容が私ども心にうつる様になる。こうなると、それが段々深く入るに従って自分の心はなくなってしまい、ただ残るところは御慈悲の如来様ばかりとなってしまい、霊感極りなきに至る」旨を御手紙に御教え下すったのであります。かくして更に進んでは、その御慈悲の如来様は更に更に大きく御現れ下され、遂にそれも無くなってしまう。そこは本来無一物、本来無東西、大宇宙を貫く大我に了々と自覚させて頂いた処。尚も一心に御念仏いたしますと、その真実の自己の中に再び大慈悲の聖容を見奉る様になり、段々尊い御心を御示し下すって御自身の財産を御譲り下さいます。そういう風にして遂に如来様の御世嗣といわれるべき人格を完成さして下さる、と弁栄聖者は御教え下さいました。
この様に、生きた如来様を御慕い申し、人格完成を目的として常に慈悲の聖容を御念い申し上げる様に、更にハッキリと大きく御念い申し上げる様に努める事が大切であります。かくして神人合一の念仏三昧が成就する。ハッキリと慈悲の聖容を拝める様に成ると、段々と大慈悲の御心を御示し下さいます。するとそれを我がものとして応用する事が出来る様に成ります。此の間に慧眼、法眼、仏眼という眼を開かして頂きます。大宇宙を貫く真実の自己にハッキリ自覚させて頂いた処は本来無一物、本来無東西であり、それを見る眼は慧眼であります。法眼によって大慈悲の聖容を拝まして頂きます。初めは法眼、次に慧眼と法眼が時を異にして現れるが、段々如来様の御蔭で発達して来る。遂に融合して現れる様になった所は仏眼であります。仏眼によって米粒の中にも大宇宙を見ます。しかし、米粒が大きくなった訳でもなければ大宇宙が小さくなった訳でもない。それは実にまた観音様の三十三身の分身利物の御済度の力であります。
如来様の直々の御説法とも頂戴している所のその弁栄聖者が「生きて居る間に光明の生活を得よ、生きて居る間に如来様にお遇い申せ」と力説して下さいました。
(橋爪勇哲『妙好人荒巻くめ女』221~229頁。ただし読み易さを願って漢字遣いや仮名遣いの表記を一部あらためました。)
念仏と法話の会
志村 念覚
◇日 時:平成29年12月17日(日)
◇場 所:光明園
◇導 師:大南龍昇園主
◇参加者:20名
十二月八日は釈尊成道の日といわれますが、午前中に礼拝儀とお念仏を唱え、午後は大南園主から釈尊成道に因んで大乗仏陀の釈迦の三昧について、弁栄聖者の御教えをひもときながら御法話をいただきました。
大乗仏陀釈迦の三昧
- 一 弁栄聖者の大乗仏教経典観(仏三昧定中の消息として)
- 弁栄聖者は、大乗仏教について計り知ることのできない深い宗教として、現実世界を超越した精神界である観念世界を示していると説いている。そして大乗仏教経典の所説の要素は概して三昧定中の内容を説明しているもので、その内容を知ろうとするには三昧に入って観念世界に通入し仏智見を開示しなければ、その本質をさとることはできないとし、それが大乗仏教の特質であると述べている。(『光明の生活』一七八~一七九頁参照)
- 二 「大乗仏陀釈迦」の意味
- 「大乗仏陀釈迦の三昧」という言葉は大正五年、知恩院で開かれた教学高等講習会の講義録『宗祖の皮髄』に見られるが、他の聖者の著述には見い出せない(ただし『人生の帰趣』の念仏三昧章に同文が掲載されている)。そこでその意味するところを考えてみたい。弁栄聖者が「大乗仏陀釈迦」の語を用いる理由は小乗教の仏陀観や釈迦以前の印度教の人格神に対する考え方との違いを示すためでもあるといえよう。すなわち小乗教には人格即神、仏陀即神とする信仰はあっても、釈迦が宇宙大の絶対的人格の現われであることに思い至っていない。印度教では天の神を信じても地上に世界的大人格神があることに言及しないとする。そして聖者は大乗仏陀の釈迦について、大乗仏陀を宇宙大の絶対的人格(天仏の弥陀・大ミオヤ)とし、釈迦を人仏の釈迦と説く。この宇宙大の絶対的人格である大ミオヤが地上に出現したのが人仏の釈迦であり、一切の人類にこの大ミオヤを心から信じうやまうことの真理を教えるために現れたとし、この真理を明らかにしたのが大乗仏教であると説いている。(『無称光』一九一頁参照)
- 三 大乗仏陀釈迦の三昧
- 『宗祖の皮髄』の「霊験の種々なる方面」の中で、三昧発得して見仏することについて聖者は、「キリスト教にては聖霊を感ずといい、禅にては見性また大悟といい、密家には悉地を得ると名づく。これらその名は異なれども、要は宗教意識がまったくキリスト教にいわゆる復活の状態に入りたるところにて、すなわち活信仰というあたりにおいて同一なり。」と、さとりの境地について同じ面を説くものと述べている。
また、聖者は感覚と感情と知力と意思に感得される様々な三昧の境界を示される。そして究極の境界について、「自性は十方法界を包めども中心に儼臨したまう霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。真空に偏せず妙有に執せず、中道に在りて円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、真善微妙の霊天地に神を栖し遊ばすは、これ大乗仏陀釈迦の三昧、またわが宗祖の入神のところなりとす。
冀わくは識神を浄域に遊ばしむることを期せよ。」とし、『宗祖の皮髄』のなかでも最も大切な部分である。この聖者の説く究極の境界について笹本戒浄上人の解説を次に見たい。(『宗祖の皮髄』一〇〇―一〇一頁参照) - 四 笹本戒浄上人の解説
- 笹本戒浄上人は聖者の説く境界を仏眼の境界と捉えて、「私共の理想の境界」とし、前三の罫線部分を次のように解説している。
「自性は十方法界を包めども」ということは、十方とは大宇宙でございます。自性は大宇宙を包むとは、どこもかしこも我ならざるところはない、慧眼が開けて宇宙が自己となってくる。すなわち大我が自己となってくる。ですからどことして自己ならざるはない。我ならざるはない。我は大宇宙を包んでおるが、「中心に儼臨し玉ふ霊的人格の」その大宇宙の中心に、私共の真正面に心霊界の太陽となって下さる霊的人格の、万徳円満の霊格が儼臨したまう。
「霊的人格の威神と慈愛」とは、如来様の威神の御力は私共、如来の聖旨に叶わないところを、どしどし如来様の聖旨に叶うように化して下さいます。太陽の化学線が渋柿の実質に入って化学変化をおこして、甘干しとして結構な味わいのものになるというように、如来様の威神の御力は、私共の心の中にお入り下さいまして、意志の方面をお照らし下さいます。御自身の御心に叶わない一切のところを悉く御心に叶うようにして下さいます。悟りという世界と申しますと、大宇宙を尽して我、自己である。しかしその大宇宙の中心、自己の真正面に霊的人格在まして、その霊的人格の尊い御力とお慈悲を頂いておる境界である。それは、「真空に偏せず」。偏するというのは自性は十方を包む、けれども真空に偏するものは声聞縁覚でありまして、ハッキリ目覚めただけで一物も認めず、気の毒な人をも認めない。少しも衆生済度ということもやらない。自分の向上の道もやらない。もう一物も認めないから、もう如来も認めない。真空に偏しておりますと本来無一物、本来無東西だけになっておる。そうすると度すべき衆生も、仰がるべき如来も認めない。始末におえないところであります。無間地獄に落ちた方がよほどましだと、昔から聖人方が言っておられます。「妙有に執せず」。妙有に執するのは私共の普通の生活でございます。私共は無一物の処を認めることのできない担板漢であります。ところが妙有にも執しないのでありますから、担板漢ではありません。「中道」であります。
「智慧の光」と申しますと大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智であります。これは慧眼、法眼、仏眼、悉く具わったところであります。
「円かに照す智慧の光と慈愛の熱とありて」とは、一切衆生を本当に自分の兄弟と見、一切衆生の喜びの少ないことを悲しんで、ぜひともすべての苦痛を他人事とせず、ぜひともこの苦痛を除かなければやむにやまれない燃ゆるがごとき慈悲心に、すなわちどうともして自分の喜びを人に頒かとうという燃ゆるがごとき慈悲心に満たされてくる。「智慧の光」というところは、気の毒と思ってもその人を救うところの実力が具わらなければ、慈愛を実現することできません。それを実現する力が「慈愛の熱」であります。そして「真」であり、「善」であり、「美」であります。真実でありますから、我々の哲学的情操を満足する。善でありますから、我々の倫理的情操を満足する。美でありますから、我々の美的情操は満足されます。
かく弁栄上人様はお示し置き下さいました。もう大乗仏陀釈尊以上の仏はありません。そうですな。究竟成仏の方は釈尊であります。これがとりもなおさず大乗仏陀釈迦の三昧であるとおっしゃって下さいました。ですからここが得られなければ仏道修行は、究極の満足を得るということはできない。ここを理想としなければ如来の世嗣となることができない。これが我々の理想でなければならない。弁栄上人様は、明治十五年には豊かにこの状態におなりになりました。まずお達しになり、そしてその喜びを私共にお頒かち下さるために、長い間御説法下さいました。(『笹本戒浄上人全集』上巻 五八二―五八四頁) - おわりに
- 大乗仏陀釈迦の三昧は聖者が「大乗仏説」と「大乗仏陀」の意義を論じたものであった。大乗経典の所説は大乗仏陀釈迦の三昧の境界をもってするが故に正しく「大乗仏説」なのである。この聖者の主張は、近世の富永仲基の主張する「大乗非仏説」に対する聖者の解答としても見ることができよう。また、「大乗仏陀」の標榜には、近代仏教研究がもたらした原始仏教(根本仏教)や歴史上の釈尊像の解明に対する批判がこめられているともみてとれる。すなわち、近代仏教研究は演繹的方法によってなされてきたものであるが、聖者は三昧発得に基づく帰納的論証をなしたものといえよう。