光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成30年6月

河波定昌上人三回忌法要念仏会

鎌尾光栄

◇日 時:4月1日(日)
◇会 場:光明園
◇参加者:54名

 例年より早く一斉に開花した桜は、惜しげもなく花びらを散らしています。午前中はいつも通り一行三昧会がありました。午後からは、大南園主の導師による河波定昌上人三回忌法要念仏会が営まれました。厳かな中にもお上人様をお慕いする気持ちが寄り添って、温かな雰囲気がありました。
 会に先立って50名を超える参列者の皆様と聖歌「聖きみくに」を合唱しました。続いて、大南園主よりご挨拶を賜り、お念仏を申した後に、在りし日の河波上人を偲んで最期のご法話となったCDを拝聴いたしました。河波上人の肉声は包み込まれるように懐かしく、もう三回忌をお迎えしたという実感が湧いてきません。「昏暮の礼拝」をあげ、お焼香をさせて頂きました。「心浄偈」をお唱えし、祈りのこもったご回向を有難く拝聴しながら河波上人のお写真を見つめ、胸に刻みました。
 ご仏前に三回忌・追想記念文集『河波定昌上人のおもいで』をお供えできたことは役員一同の喜びでした。八木季生台下をはじめ二十二名の方から追想文を頂けましたことは、河波上人もお喜び下さったのではないかと安堵致しました。表紙の麦と雲雀は河波上人の「感応道交」のご法話から、また、裏表紙にはご遺稿から見つかった自筆の「南無阿弥陀仏」のお名号を配することが出来ました。
大南園主は田代直秀氏の「河波先生はブレないお人であった」と、かつて浄土宗の学者グループで上人と研究を共にした石上善應氏の「あの人は本物です」との言葉を引用され、お上人様の学問と信仰への取り組みと、実直なお人柄を偲ばれました。また「先生の夢」として、跡見学園の創立者である跡見花蹊女史は笹本戒浄上人、田中木叉上人から光明主義の薫陶を受けましたが、後に現在の理事長を河波上人がお尋ねしたことについて触れました。そして、仏教の講義や研究所の設立など、直属の大学も研究施設もない光明主義の普及の構想を跡見学園にお望みになられたのではないか、と推察されました。
 会の終わりに、ご息女の矢野光子氏と、お詣りいただいた方を代表して加藤智神父様よりご挨拶を頂戴致しました。
 光子さんは思いが溢れたようにご自分の心情を素直に話され、その言葉は大変心に響きました。「父がつけてくれた名前を大切に思っています、お念仏できる時間が幸せです」との言葉は、お念仏の相続の大切さをいつもお説き下さったお上人様にとってこの上ない歓びだと思います。
 加藤神父様は三日間の復活祭を終えて駆けつけて下さいました。宗教・宗派の枠組みを超えて真実が一つに働いている世界とご縁ができたのは、河波上人様のおかげです、と仰いました。そして、お念仏はわたくしたちの裡から働いて、わたくしたちを変えていく、自覚を新たにして下さる。まさに般舟三昧、仏現前立三昧の心地して魂の歓喜を感じます。お上人様と深いご縁にあることを生涯忘れてはならない、とお話を結ばれました。
短い時間ではありましたが、皆で思いを寄せ、お上人様を思い出して語り合えたことに感謝したいと思います。

念仏と法話の会

志村 念覚

◇日 時:4月15日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

今年は桜の開花が例年より早く光明園の周辺の桜も四月一日の河波定昌前園主の三回忌では満開でしたが、大分散り葉桜となっていました。花まつりの月でもありますが、釈尊誕生と河波上人に因んだご法話をいただきました。  

大南龍昇園主御法話
仏陀の誕生 ―馬鳴菩薩と『仏所行讃』生品―

一 はじめに
花まつり(四月八日)に因み仏陀の誕生を考えたい。四月一日に前園主の河波定昌上人の三回忌を五十余名のご参席を得て勤修し、三回忌追想記念文集として『河波定昌上人のおもいで』を発行した。この記念文集には河波上人が聖歌の伴奏をしている写真も掲載され、上人の著書『大乗仏教思想論攷』(大東出版社)をみても「空思想と音楽神秘主義―大乗仏教における音楽論的一考察―」や「音響忍考」など、仏教と音楽についての深い造詣を記している。この中の音響忍は無量寿経では音楽による法悦の境地、一種の悟りを示す言葉である。平川彰先生は、大乗仏教が成立した時代には釈尊の遺骨を祀る仏塔で音楽法要が行われていたのではないかといわれる。仏教の詩人「馬鳴」も『仏所行讃』という仏陀を讃える詩篇を著し、音楽によって人々を信仰に導いているが、河波上人もこの研究を望みながらも叶わぬこととなった。上人を偲び拙著の『新国訳大蔵経』本縁部1(大蔵出版 二〇〇二年)に所収の馬鳴菩薩と『仏所行讃』から仏陀誕生のお話しをしたい。
二 馬鳴菩薩と『仏所行讃』
『仏所行讃』は一世紀から二世紀にかけて多くの讃仏文学を著した仏教詩人・馬鳴、すなわちアシヴァゴーシャ(A?vagho?a以下馬鳴とよぶ)の詩篇『ブッダチャリタ』の漢訳経典である。原典は古典サンスクリット文学の特色である華麗なカーヴィア体で書かれ、彼の諸作品中の秀逸であることはよく知られている。原名のBuddhacaritaは「ブッダの生涯」、あるいは「ブッダの所行」の意で、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の全生涯を描いた伝記である。漢訳名『仏所行讃』の讃の意味するところは、詩文をもって仏陀一代の行業や高徳を称えることにあり漢訳者の創意と見ることができよう。この訳者の意図を受けて初期の経録である『出三蔵記集』には、これを「一名馬鳴菩薩讃、あるいは仏本行讃と云う」と記す。ここには仏教詩人馬鳴による仏陀の悟道に対する讃歌として受けとめられていたことが窺える。ちなみに諸経録には本経の名称として「仏所行讃経」、「仏所行讃経伝」、「仏所行讃伝」の名でも呼ばれている。
三 『仏所行讃』生品第一
『仏所行讃』生品第一について紙面の都合上、釈尊誕生のさわりの部分だけにとどめるが、馬鳴の仏陀釈尊を讃える詩篇を味わいたい。

1 釈尊の父母
甘蔗の苗裔なる 釈迦無勝王は 浄財と徳、純ら備われり。 故に名づけて浄飯と曰う。 群生は楽しんで瞻仰すること 猶お初生の月の如し。 王は天帝釈の如く 夫人は猶お舎脂の如し。 執志の安きこと地の如く 心の浄きこと蓮花の若し。 仮に譬えて摩耶と名づくるに、 其れ実に倫比無し。 彼の象は天后に於いて 神を降して而して胎に処る。 母は悉く憂患を離れ 幻偽の心を生ぜず。……
時は四月八日 清和の気調適す。 斎戒して浄徳を修すれば 菩薩は右脇より産まれぬ。
2 釈尊の徳
徳を修むること無量劫なれば 自ら知りて生まるるに乱れざる 安諦にして傾動せず 明顕にして妙に端厳なり。……
空中の月を観るが如く 自身の光に照耀として  日の灯明を奪うが如く 菩薩の真金身の 普く照らすこと亦た是の如し。 正真心にして乱れず 安庠として七歩を行く。 足下は安平趾なり。
3 生誕に際してのべた言葉
「此の生を仏の生となす。 即ち後辺の生となす。 我れは唯だ此の一生のみにして 当に一切を度すべし」と。 時に応じて虚空の中より
浄水の双流下り 一は温、一は清涼にして  灌頂して身を楽しましむ。……
菩薩の生まるる所以は 世の衆苦を救わんがためなり。 唯だ彼の魔天王は 震動して大いに憂悩せり。

 仏の生誕の言葉としては、天上天下唯我独尊が有名である。
 この経では、この生涯が輪廻の生存の最後の生涯であり、その使命は、一切衆生の済度、世の衆苦の救済にありと説いている。

四 おわりに
弁栄聖者は『人生の帰趣』において、「『法華経』に「諸仏如来は一大事因縁を以ての故に世に出現し給う。謂ゆる衆生をして仏智見を開示して正道に悟入せしめんが為に出現し給う」と。」(岩波文庫『人生の帰趣』二三頁)と記し、「釈迦尊一生涯の宣伝の所詮は一切の人類をして宇宙の大法に契合すべき随順すべき真理を啓示なされたのである。(中略)宇宙の大法の権化として人仏釈尊が此世に出世なされたのである。」(同二二頁)と説いている。仏陀釈尊がこの世に誕生したのは、一切衆生が永恒の生命、常住の平和に帰入するという宇宙の大法の真理を人々に教え導くためであるというのである。聖者はこれらのことを説くために光明聖歌をつくり、キリスト教や仏教の詩人馬鳴のように音楽を教化に活用して音楽によって人々を信仰に導いている。仏陀誕生及び河波前園主の命日の月に際し、かみしめたいと思う。
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