光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成30年7月

一行三昧会

鎌尾光栄

◇日 時:5月6日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:17名

〈ご講話〉弁栄聖者略伝①円具光明主義と弁栄聖者

 今回より数回にわたり弁栄聖者がどのようなお方であったのか振り返りながら今までのおさらいをしてみたいと思います。

円具光明主義とは
 円具光明主義とは、弁栄聖者が宗教として教相判釈された円具教と哲学的教学としての光明主義とを合わせた完全な宗教であるという意味の私の理解です。
如来は…いつもましますけれども…衆生は知らない…それを知らせにきたのが…弁栄である。
 弁栄聖者の臨終の言葉であります。(『日本の光』)
 そのみ教えの要点は次にあげる六点であるといえます。
①阿弥陀如来が「今現にここにまします」と心から信ずること。
②阿弥陀如来は初めも終わりもない在り通しの本有無作の本仏である。
③こころに弥陀の身を憶念し口に弥陀の名を称える般舟三昧の念仏を実践する。
④如来は光明をもって一切衆生を摂化し、人々の心霊を霊活せしめ給う。
⑤「永遠の生命」とは、如来の光明に包まれて如来の智慧を開示され、宇宙いっぱいの大我との合一を確信すること。
⑥「救我」現実の生活の中で人格的向上を体現しながら「聖き心」への更生を期す。「度我」他者の為にはたらく菩薩の願いを実践する。
 これまでの「起行の用心」は大乗仏教の極意といえる「救我」の方法を学んできたといえます。
光明主義の歴史的意義―新と真と深の浄土教哲学
 田中木叉上人の一文によって光明主義の歴史的意義を明らかにしたいと思います。
 幾十万年かかって今までになしとげた世界の最高遺産におおよそ二つある。
 東洋固有の「行」と「証」。これが地球上に人類がなしとげた最高価値の半分である。その二はいうまでもなく近代の西洋に発達した実証科学である。
 この三昧実験と科学実験との内と外とに開かれた二つの窓、それが二十世紀の日本にはじめて合流したのである。上人出世の一面の意義はここにある。ついに科学実証の結論と、三昧実証の体験とがまさに合一大成した。
 弁栄聖者出世の一大事因縁は、宗教のさとりと科学の両方がおひとりの方に満ちていた奇跡を伝えんがためであったのです。科学実証については医学を修められるご様子が『日本の光』に記されています。仏の種子がこちらに飛び込んできてさとりを得ることを『宗祖の皮髄』のなかで、唯識の種子の仕組みをさとりに当てはめて、聖者ならではの着想で説明しています。植物の譬えは、幼少の頃から田を耕した経験を持つ大地性の故かもしれません。
 すなわち光明主義の内容は、永遠の生命を実現する、円満具足の中道に立つ新法門、哲学も、科学も綜合整理して所謂「宇宙の真理をことごとく」統摂する真法門、元祖(法然上人)に還元し導師(善導大師)に還元し、本源の弥陀覚王の真意を開顕したる深法門であると『田中木叉上人遺文集』に記されています。
弁栄聖者略伝
 ごく簡単に聖者のご生涯をみておきますと、お生まれは明治に先立つ九年前の安政六年、現在の千葉県柏市、手賀沼のほとり鷲野谷の地であります。現在は東京のベッドタウンという印象が強いのですが、江戸時代から明治にかけては大河利根川の水運に恵まれて外に開かれた土地柄で、経済的にも豊かなうえに各種の情報や世相の動きが早く伝わる地域であったということが見逃せないと思います。明治十二年にはギリシャ正教の手賀教会がこの地に進出し、明治十五年には教会が建てられ、現在も信者がいます。ニコライもこの教会を訪れています。
 弁栄上人は早くから出家の希望をもちながらも、ようやく二十一歳で剃髪得度、名を弁栄と改め、師の大谷大康上人のもとで一年余の勉学のあと東京に出て浄土宗のみならず他宗碩学にもついて仏教全般を広く研鑽されました。『華厳五教章』を学べばその法界観の実修実践にも寸暇を惜しんで励まれました。明治十五年には筑波山に籠り、遂に三昧発得の身になられました。時に二十四歳です。翌年から一切経読破に取り組み三年足らずで読了されました。このことだけでも僧侶として特別な、稀なるご精進です。稀といえば明治の中葉にあって珍しくもインドの仏蹟巡拝も果されています。
 弁栄上人独自の光明主義は明治三十年代の半ばごろからその萌芽がみられるとされますが、その後四十年代に入ると『無量寿経』所説の「如来光明歎徳章」およびその中の十二光に基づく宗教体系が次第に全貌を現してまいります。
 大正五年、浄土宗総本山知恩院における、僧侶に対する高等講習会に招かれ、宗祖法然上人の信仰の内実を法然自身の道詠を材料として、みずからの念仏体験に基づいて読み解き、それを体系的に提示して聴衆に多大の感銘を与えられました。宗門が直後に『宗祖の皮髄』として出版するよう要請しています。大正七年には請われて時宗大本山無量光寺(神奈川県相模原市)の法主に就任、翌年にはその庫裡を利用して光明主義伝道者の養成を期して光明学園を創立、学園は今も高等学校として多数の若者の学びの場となっています。
 大正九年の伝道中多忙続きのなかで発熱、病床につかれ、新潟県柏崎市の極楽寺にて遂に遷化されました。時に十二月四日、世寿六十二。

 次回からは木叉上人のお言葉や『日本の光』の逸話など紹介しながら、更に光明主義を深く学んでいきたいと思います。

念仏と法話の会

志村 念覚

◇日 時:5月20日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:20名

 初夏というに相応しいような暖かく爽やかな気候の一日でした。大南園主の法衣も午前は冬用でしたが、午後は夏用にてお勤めされました。
 先般、岩波文庫で出版された『人生の帰趣』をもとに、「光明主義の生命論」をテーマにご法話をいただきました。

大南龍昇園主御法話

人生の帰趣』を読む 光明主義の生命論

一 はじめに
 『人生の帰趣』の本の題名になったのは、本書の第一章の章題であった『人生の帰趣』を用いたものであるが、この一章には人生の帰趣についてまず説き、次いで宗教的人生(宗教的に生きる)とはなにかを説き、光明主義の生命論といえる教えが説かれている。今回は光明主義の宗教的人生を踏まえ、その生命論をいかに展開いているかを見ていきたい。
二 宗教的人生・宗教的主体としての人生
(宗教的に生きるとは?)(岩波文庫本 二九―三三頁)
 弁栄聖者は、人が宗教的に生きるとは「主体と客体の親密に合一する処に成立す。」といい、主体は人であり、客体は神や如来であるという。人の信仰と如来の恩寵との関係こそが宗教的に生きるというのである。
 人生の根本生命の本源について、生の内面生活の心識の方から説いているのが仏教である。仏教でも小乗では人生の本源は業(カルマ)とするが、大乗法相では阿頼耶識という心的存在が万物の本源であると説く。阿頼耶識は一切の身と心と世界との性を含み貯蔵する不可思議なものであり、我々が五官として物を視、声を聴くのも、智情我を認める心も、外の日月星辰山河大地等と現象と観ている観る心も向うに観えるものも阿頼耶識に貯蔵されていくのである。人類ばかりでなく一切衆生ことごとくこの識を本として存在する。これが生の本体であるというのである。大乗の一乗教では一切衆生心の体は仏性とも如来蔵性とも名づけて個々の本体は絶対唯一の心性態であるという。故に自己の心性を開発すれば皆悉く仏となれるのである。衆生は自己の本体自性清浄の本性を開くことをせずに自ら迷い凡夫となっているというのである。
三 生命の最深根底(一大生命の根底)
(同 三七―四〇頁)
 人には幼少より老年に至るまで統一的主体が存在する。また生命の実質には自発的活動と統一的主体と有目的性能とをもっている。
 大乗唯識では衆生の意識の上に末那識と阿頼耶識の二識を立て一切の心意識はすべて阿頼耶なのである。霊魂を阿頼耶識という。阿頼耶には蔵という義があり、蔵の中に一切の物を貯蔵するように一切の法の種子を包蔵しているのである。
 本来阿頼耶識は分別したり意識したりする働きはない。意識と共に善悪の業を相続するものは阿頼耶であるが、阿頼耶は本体で業は力用である。人が一代でつくる善悪の業は身と意識とが無くなっても業の存在は阿頼耶の種子にあるのである。あたかも杉の種子には大杉と成る能をもっているようなもので、阿頼耶の業識に業種子としてその作用から結果をまねくべきための性分をもっている。これらの種子が阿頼耶の体に伏蔵してそれが因種と成って外縁を待ってまたさらに新たなる身体を構成するのでその業というのは色心以外の存在ではない。阿頼耶識の作用に外ならない。一切の業の種子はみな阿頼耶に伏蔵して六道輪廻の種々の身を受けることになる。故に一切の個性の根底は阿頼耶の種子が持続の体である。この種子から芽発して末那分別の我執と現行し、この末那の我意の現行がまた阿頼耶の種子となって種子から現行を生じ現行の因が業を結果して種子となり、このようにして生死極まりなく阿頼耶の業力は常恒流転して止まず阿羅漢果(修行者の到達しうる最高位)を得て解脱する時に初めて解脱する。
 また仏となる時には識は転じて仏の四大智慧になる。
四 おわりに
 弁栄聖者は宗教的人生の根本生命の本源は頼耶識であり如来蔵性であると説くが、霊性ともいえよう。聖者の説く光明主義の四大智慧論は唯識説の説く転識得智をいうものではないが、唯識の説く生命論を基礎として、さらに聖者自身の三昧体験の御内証から霊性発達の境地として説かれたものといえよう。
  • おしらせ

  • 更新履歴

  •