一行三昧会
鎌尾光栄
◇日 時:6月3日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:13名
〈ご講話〉弁栄聖者略伝② 弁栄聖者
以下は田中木叉上人執筆の略伝を紹介いたします。おそらく聖者十三回忌に当る昭和7年に書かれたものとされています(『田中木叉上人遺文集』)
(1)降誕・出家・入竺・伝道
「大ミオヤの無尽の大悲に催されてこの土に輝き出で給いし上人は、安政六年二月二十日、(明治維新に先だつこと十年)下総国東葛飾郡手賀村字鷲野谷の農家、念仏嘉平と綽名された程の念仏行者であった山崎嘉平氏の長男として生をうけ給う。幼名を啓之助と呼ばれ、ご幼少の時からきわめて温順で一面剛毅なところのある、仏様に関することはなんでも好きな少年であられた。九歳から三、四の村塾に通学し、神童らしい異常な知能をあらわして師匠を驚かされた。十二歳からすでに和歌に秀で、書も巧みで、常に聖賢たらんことを望んでいられた。自然の性と家庭の風から純真の信念は培われ、十二歳の秋には想像ではあるが三尊の尊容を空中に拝されたこともあった。」
田中木叉上人によれば、「弁栄聖者が十二歳のときに拝まれたのはアイデティクである。アイデティクは聖き心によみがえらない事が特徴である。しかしそれは梯子段になる。」(冨川茂筆記『田中木叉上人御法話聴書』74頁)
「1.肉眼に見えるお姿=お絵像
2.心にうつるお姿=表象(Vorstellung)
3.直観像=アイデティク(Eidetik) 天女の踊る姿が見えたり、お稲荷様の行列が見えたりする。子供にはアイデティクが見えるものが多い。
4.見仏
念仏三昧すると本当の霊応身(真応身?)が現れて下さる。直観像と違うことはお稲荷様の行列を拝む方は自分の心に変化が起こらぬが、霊応身を拝む方は〈仏身をみる者は仏心をみる。仏心とは大慈悲これなり〉(観無量寿経)となる。」(同18頁)
「直観像でなく霊応身である限り、如来様のお姿を拝めたら智慧か慈悲かが頂ける。」(同18頁)
「お浄土のお姿よりもこちらへの働きかけが大切である。幻覚であれば働きかけは無い。幻覚と違うアイデティク(主観の客観化)は夢と同じである。それは真境とは違う。」(同33頁)
ここの「夢と同じである」に関連して思い出されるのは唯識教学の、夢を独頭意識の一例とする立場です。独頭意識とは前五識(五感)を伴わず単独にはたらく意識で、定中の意識(禅定の心の中で起こる意識)、独散の意識(独りあれこれと思う乱れた意識)、夢中の意識(夢の中ではたらく意識)、の三種があるとされます。アイデティクとは宗教現象学にいうところの本質直観、あるいは形相直観と訳される事態でしょう。通常は意識と感覚が一緒に働いていますが独頭意識では意識のみが働いています。
「アイデティクは心の中にあるものが閉目、開目ともに向こうに見える。主観の客観化である。…迷信や幻覚ではない。しかし其処に腰をかけてはいかん。無漏の真境はその奥にある。それが法眼である。」(同46頁)
「明治十二年、二十一歳で、家の菩提所なる同郷の医王寺で出家さるることになり、十月二十日住職山崎徳恵上人は、本寺なる近村小金の東漸寺大谷大康上人を請待して如法に剃度式を執行、弁栄と改名された。
明治十四年正月二十三歳で東京に遊学、福田行誡和上の住せる増上寺の学寮等に止宿して、大谷了胤、卍山実弁上人その他につきて宗・余乗を研鑽された。
明治十五年、二十四歳、八月東京遊学を終り、故郷鷲野谷の医王寺境内薬師堂参籠二十一日に及ばれた。
次いで常陸国筑波山に入り、六十日の間一日称名十万遍の修行をつまれた。その間、六十万億那由他恒河沙由旬の如来の真身了々として現前し給い、塵々法界相即相入の悟入まどかに、功徳荘厳きわもなき無漏の真境を発得された。」
弁栄聖者三昧発得の偈(『日本の光』60頁)
弥陀身心遍法界(弥陀の身心は法界に遍く)、衆生念仏仏還念(衆生仏を念ずれば仏も還た念じたまう。)、一心専念能所亡(一心専念すれば能所〔主客、聖者と弥陀〕亡じ、)、果満覚王独了了(果満の覚王、独り了了たり。)
二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修し、華厳の一心法界三昧も体験し、「〈五大皆空唯有識大〉(万物を構成する地水火風空はみな空であり、たゞ有るものは識だけである)の境界現前し、たゞ下駄の音が聞えるばかりで見聞の境を覚知せずと大円鏡中の人となられました。」
華厳の法界三昧を学ばれて、ある時、歩きながら空を体験なさった聖者は、「これで本堂ができた。本尊様を迎えねばならぬ」(同56頁)とさらに念仏三昧に精進され、これがその後すぐ、明治十五年、二十四歳の時の筑波山の二ヶ月間の念仏修行、念仏三昧発得に結びついたのであります。
ここで本尊様とは聖者がしばしば「心本尊」と尊ばれる心中の霊体で、弁栄聖者独自の本有無作の報身仏の分身、霊応身のことであり、この霊応身を聖者の心殿に安置されたのであります。自ずから法眼開けて如来様にお会いし行を深められ真空妙有を悟られた過程は、前回の一行三昧のテーマであった、起行の用心へとつながっていきます。
悟りの内容と修行の足取りが筑波山を中心にご生涯の二十代の中に展開したことが略伝の中に読み取れたのではないでしょうか。筑波山で仏眼が開けた後に一切経を読まれたことは三昧発得後ということで大変に意義があることです。初期仏教はお釈迦様の言葉を書き記したものですが、約五〇〇年の後の大乗経典はどれも三昧中の体験により記されたものだからです。一切経を三年足らずでお読みになられたのは、ご自分の三昧のご体験をご確認するようなものであったからでしょう。わたくし達の信仰している方はこのような方なのです。
明治三十三年に三河にて肺炎にかかられ法城寺にてご静養、ご回復後、五香善光寺において寒中に棺桶の中で三十日にわたる行を積まれ、これを契機に聖者の救我の修行が完成されていきました。このころ以降、いわゆる弁栄教学が歎徳章や十二光体系を柱として建立されていくことになります。
念仏と法話の会
志村 念覚
◇日 時:6月17日(日)
◇会 場:光明園
◇法 話:大南龍昇園主
◇参加者:21名
梅雨冷えで急に寒くなったり、例会の前後に関東、関西、特に大阪に強い地震があり亡くなられる人がありました。
法話は「人生の帰趣を読む」の予定を変更して六月五~七日、山口県大島郡の西蓮寺で開かれた第二回教学研修会の藤本淨彦上人のご講話の報告でした。
講題は光明摂化論Ⅱ。昨年のお話では法然上人の光明観ということで如来の光明の力用(はたらき)に生成と摂取の両面があること。生成は光明歎徳章の「この光に遇う者は三垢消滅し身意柔軟に歓喜踊躍して善心生ぜん」とあるところの我々の身心の光化に見るような側面。摂取は『逆修説法』に説かれる常光と神通光の中、神通光による極楽浄土への往生を意味します。この法然上人の光明摂化を師の善導大師の教義に尋ね弟子の聖光上人にどう伝わったか、さらに近世の関通、徳本二上人、近代の弁栄、弁匡二上人の受け止め方を解説されました。
今回は法然上人と弁栄上人お二人の関係に焦点がしぼられ、〈法然上人から弁栄上人へ〉という方向と〈弁栄上人から法然上人へ〉という二方向からのアプローチが試みられました。このベースになっているのが法然著『選択本願念仏集』の最終章で、法然が念仏の教えに到達した理由を端的に述べた次の言葉、「浄土の教えは時機を叩きて行運に当り」「念仏の行は水月を感じて昇降を得たり」の文であります。その前文は浄土の教えが時代とそこに生きる生活者にフィットし、修行する機運にかなっていることを示し、後文は念仏の行が天空の月の昇降を池の水が写すごとくに如来の光明と念仏者が感応道交する世界をもたらすというのであります。
講話の第一部〈法然から弁栄へ〉は『如来光明礼拝式』を資料とし、第二部〈弁栄から法然へ〉は『宗祖の皮髄』をもって語られます。現行本の『如来光明礼拝儀』は弁栄四五歳―五八歳までに三回の推敲を経ています。また『宗祖の皮髄』は五八歳の時、浄土宗高等講習会での講演を元に出版に至りました。両者とも上人の晩年まで手が加えられ、後者はほぼ晩年における弁栄の法然上人観とその思想を語ったものということができます。
ところでこの二方向の解明に二資料を選んだ理由について、藤本上人は「弁栄上人自身が著述し確認して公刊し得たもの」とするのは資料論として周到な判断をもってなされたというべきでありましょう。
そしてその検証から導きだされたことは、弁栄は法然の時機相応の教えとしての口称念仏を『如来光明礼拝儀』なる教典に再構築して近現代に提示したこと。また法然の教行の真髄が『宗祖の皮髄』をもって開陳されるであろうということであります。
以下、初版の『如来光明礼拝式』―その意義・意味・意図を求めて―、『礼拝式』の内容・私解等が述べられます。特に『礼拝式』をめぐっての構成比較、その特徴、『如来光明礼拝儀』の出版遍歴と構成の変化など興味深い考察と指摘がなされました。『礼拝儀』については河波定昌前園主のご講義があり、最近、中井常次郎師の『如来光明礼拝儀講義』が復刻出版されましたが、この度の講話の意義は極めて大きいといえましょう。第二部の〈弁栄から法然へ〉は、来年の研修会で講話される予定です。