一行三昧会
鎌尾 光栄
◇日 時:1月6日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:佐々木有一師
◇参加者:10名
午前は弁栄聖者九十九回忌報恩念仏会があり、大南園主によるご回向がありました。平成三十一年の百回忌に向けて気持ちが引き締まりました。
午後は佐々木講師の講話がありました。
〈ご講話〉光明主義の七不思議③
- 第六の不思議 本有無作の如来さま
- 如来の本体は何であるのか見ていきます。「見不見にかかわらず」念仏の衆生に如来の救済が及ぶのは「因果律の超越からきている故に」ということのようであります。如来が修行という因によって仏果をえた、酬因感果の(または願力所成の)仏陀であるならば、これは因果律に則ったものであります。もしそうならば、衆生に対して万機普益という因果律を超えた救済がおできになるとは考えにくいわけであります。いわゆる「古来より疑われる他作自受の難」であります。(『難思光・無称光・超日月光』より趣意)
しかし光明主義独自の大ミオヤは独尊・統摂・帰趣にまします無量光寿の如来様です。如来はもともと一切真理の本源、一大霊力の原動力であって因果の法則によって成立したものではないというのです。本有無作、本有とは有り通しの、無始無終の存在、無作とは何かの修行のお蔭で生まれたというものではない、そういうことが実に如来の本体なのであります。
如来は親子同一化の願望という本願をお持ちになり、それを実現する本願力をもお持ちになって、衆生は一心に念仏することによって、この如来の大慈愛と合致することができるわけです。如来の光明摂取はこのように合目的的の世界でありまして、衆生を救い、お育てになる仏身は報身であり、本有無作の報身でありつつ、しかももとより三身即一であられるわけです。(『難思光』より趣意)
行者の自行と阿弥陀様の救いの関係はこれまで、「他作自受」「自作自受」の考え方が知られています。「他作」は、如来を他とする他作であり、阿弥陀様のおさとりのことです。「自受」については、仏力の加被という縁起の関係が起動していると考えれば単に「自受」とはいい難く、つまり本有無作の阿弥陀様のおさとりを、わたくしが自力の単独で頂くとは思えないのです。行者の自行と仏力の加被とが相俟って感応道交、霊応身現象が起こり、そこに如来からの啓示をうけて行者の心眼が開けていくのです。まさに応受という感触を因として如来より果を賜わるのであり、「応」をキーワードと考えますと「他作応受」ともいえるのではなかろうかと思います。 - 第七の不思議 智慧の解き明かし―浄土の実相・ ミオヤの世嗣ぎとなる不思議
- 智慧とは伝統説の考え方では「転識得智」です。しかし弁栄聖者は、智慧について伝統説を充分に踏まえつつも、ご自身の自内証、ご自身の悟りの実地体験から帰納的に新しい解釈を打ち出されました。
弁栄聖者は、今生きている現生の世界に、浄土を見ることの意味を明らかにされたのであります。すなわち往生とは状態の変化であり、智慧、つまり四つの智慧、四大智慧をこの身に頂くことによって、「聖き心」によみがえり、かくして「聖き世嗣ぎ」という立場にのぼる、これが浄土に住するという意味に他ならない、ということを明かされたのです。
通仏教では智慧で仏身論を説いています。成所作智は凡夫に対する変化身(釈尊)の原因、妙観察智と平等性智は地上の菩薩に対する他受用身の原因、大円鏡智を含む四智全体が自受用身の原因である、といいます。
一方、弁栄聖者は産み主、育て主、教え主など如来のはたらきに着眼して法報応の三身を立て、伝統説と同じ用語を用いながらも意味づけは全く独自です。
弁栄聖者の仰がれる阿弥陀如来は酬因感果、十劫正覚の仏身ではなく、本有無作の大霊でありますが、この法身如来は知力と意志の二属性、すなわち一切知と一切能を有し、その故に宇宙万有の根本として独尊であり、その中心は統摂、終局は帰趣という二種の霊徳(権能・勢力)を有しています。このような関係は別の角度から見れば如来の四大智慧が縦横に働いている様子にほかならないともいえるわけです。 - 七不思議の結び
- 如来と衆生はあなたとわたし、主客の関係としてスタートすると申しました。主客の関係は念仏の功徳によって、わたしとあなたが一つになる主客未分の原点に立ち帰ることになります。
宗教における救済が、結局のところ、「如何なる境遇にも姿色を換えざることを誓い奉つる」という風に人格のうえに実を結んでいくことを目標としているということでしょう。
合掌