光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 令和元年6月

念仏と法話の会(4月)

志村 念覚

◇日 時:4月21日(日)
◇会 場:光明園
◇講 話:近藤伸介師
◇参加者:21名

 例会の進め方も少しかわり、今回からご講話を近藤伸介氏が担当することになりました(ご講話につきましては、私の感想として下記に記載いたしました)。
 また、東京国際仏教塾(浄土宗の専門課程の授業を光明園にて開催)の昨年の受講生と10年前の受講生(2年ぶり)が参加されるなど、多様な参加者となりました。午前中はお念仏、晨朝の礼拝、聖歌をお称えし、午後はご講話、聖歌、お念仏、ご回向をいたしました。
 茶話会には、弁栄聖者とご縁が深い信者のお孫さん(奥津峰子様)とご一緒に過ごさせていただきました。国分寺にお住まいの奥津様は、『日本の光』に登場される原吉郎様・トミ様ご夫妻のお孫様です。ご夫妻は、極楽寺において弁栄聖者が病に倒れられた時、御側で介護をされていたことが記されています。峰子様はトミ様より弁栄聖者がご遷化される時に身につけられていたお数珠(腕輪)をお母様を経て譲られ、実際にお使いになられていたそうです。ところが、この1月にお数珠の糸が切れ(お数珠はばらばらにならず、切れたままの状態)たこともあり、何かのおみちびきではないかと考えていたところ、弁栄聖者の百回忌であることを知ったとのことです。この度は光明園とご縁があり、お数珠を奉納していただくことになりました。
 奥津様のお話を伺い、皆様からもいろいろなご質問をさせていただきながら、お数珠を手に取って拝見させていただくことができました。大変貴重な一時を過ごし、最後はお十念で解散となりました。

近藤講師のお話・・・「信仰の力」

 近藤講師は現在『ひかり』において「キリスト教と光明主義」を連載されており、5月号では、「その四十」となっております。今回は、講師として勤務されている大乗淑徳学園での「道徳教育と仏教教育」の授業体験を踏まえながらマザー・テレサの信仰についてお話をいただきました。
 近藤講師は、以前、「淑徳の時間」を担当され、その内容は「宗教の時間」ともいえる内容であったそうです。ただし、今年から小中学校では道徳教育が正規の授業となり、生徒の達成度を10段階で評価することが義務付けられ、その評価の難しさに頭を痛めていらっしゃるようでした。実際の授業で使われた内容の資料を配布いただきました。それには、道徳教育は「世間一般の真理(世俗諦)から善悪を考える」ことであり、仏教教育は「仏教的な心理(勝義諦)から善悪について考える」ことであると、道徳と宗教(仏教)の違いがわかりやすく書かれていました。
 仏教の語る生として、「大切なことは人のために尽くすこと、結果によらず、絶えず努力すること」→「これらの行為の見返りは心を浄化してくれること」であるとし、この仏教的な理想的な生き方をされているのが「マザー・テレサ」であると述べられました。
 マザー・テレサ(1910年~1997年)の生涯のお話において私が印象的であったことは、36歳の時に「スラム街の貧しい者たちの中でイエスに仕よ」(最も貧しい者にしてくれたことは、キリストにしたことと同じである)と、神の啓示を受けたことです。
 その後、「神の愛の宣教者会」を設立し、具体的な活動として、末期患者のための施設「死を待つ人の家」そしてハンセン病患者のための施設「平和の村」を設立しました。
 近藤講師のお話では、多くのボランティアが施設にお手伝いに行かれたそうですが、長くは続かなかったそうです。その原因は、「信仰がないから」。そのお話のときに、私は数十年前の友人(高校の教師)のことを思い出しました。彼は、多くのボランティア活動を経験し、その中で「死を待つ人の家」での活動を志したのですが、どうしても病気の人に触ることができなかったそうです。訪問する前に情報を集め、どの様な現場であることも十分理解し、誠実で面倒見のよい人でしたが、目の前の現実に手を差し出すことができない無力な自分を発見したと話してくれました。今回のお話で、「信仰の力」が持つ意味を考えさせられました。
 続いて近藤講師は、「いのりは清純な心を醸しだします。清純な心があれば神が見えます。・・・そしてお互いの内に神をみるならば、それが愛の始まりとなります。」(マザー・テレサ)ということばを引用され、この内容は、光明主義に近いと説かれました。祈ること、それは念仏することであり、その行(為)によって心がきれいになり、清純な心の中に仏を見る。お話を伺いながら、私は「清浄光」を連想していました。
最後に「信仰を失うより、命をなくすことを私は選びたい。」とのマザー・テレサのことばが紹介されていました。神への絶対的な信仰を選ぶ、強烈な主体性のありかたを感じました。

一行三昧会

鎌尾 光栄

◇日 時:4月7日(日)
◇会 場:光明園
◇参加者:17名

 新しい年度を迎え、例会・一行三昧会は開始時間を一時間早め、九時からお念仏を始めました。午前中は約一時間のお念仏を二回行い、晨朝の礼拝と聖歌をお称えしました。
 午後は、大南園主のお話、聖歌、昏暮の礼拝、お念仏、ご回向をお称えし、茶話会を楽しみました。

大南園主のご挨拶

 4月から例会の内容を少し改め、役員会で承認されました。第一日曜日はお念仏の時間を増やし、午後は短い時間ですが、私と若手の方(志村師他)がお話をいたします。第三日曜日の例会は、講話を近藤伸介氏に半分お願いし、残りは、佐藤副園主に担当していただきます。
 河波前園主は3年前の4月3日にお亡くなりになりましたが、3月の例会において、少し早めですがご回向をさせていただきました。祥月命日は過ぎましたが、空外上人のお弟子である神戸の龍飛水上人からご生花をいただきましたので、お供えさせて頂きました。
 『人生の帰趣』が岩波書店より河波前園主の三回忌を少し遅れて発行され、わたくしも校正などのお手伝いをさせていただきました。第二章 大ミオヤに弁栄聖者がまとめられた弥陀教義の一部が転載されています。この「弥陀教義」の先行するものに「浄土教義」があり、この内容に聖者が晩年手を入れたものです。完成前に亡くなられてしまいましたが、同じ内容の本といってもよいと思います。また、聖者は浄土宗の機関紙に「弥陀教の真理」というタイトルで、禅那という名前(筆(名))で投稿されています。浄土宗義から言えば、お念仏によってお浄土に往生し、そこで修行し、悟りを開き成仏を目指す、というのが教えの建前です。ところが、聖者はお浄土ではなく、阿弥陀様と衆生、阿弥陀様と私ととらえなおされており、ここに大きな転換があったのではないか、という印象を持ちます。午前中のお念仏の中で、ひたすら南無阿弥陀仏を称えることで、阿弥陀様と私の関係は一つになるわけです。それが弁栄聖者の教えであります。
 法然上人のお師匠様の善導大師は「南無は発願回向なり。阿弥陀仏は行なり。」と説かれています。お浄土に生まれることを願い、そして阿弥陀様の名前を呼んだ者は必ず救いとるという阿弥陀様の願を叶える行為が称名ですから、お念仏は「願行一致」なのです。弁栄聖者は阿弥陀様にお会いしたいという気持ちが南無阿弥陀仏であると説かれております。これがお念仏の核心です。
 本日は、伊藤力氏、千葉知識師に大木魚をお願いしておりますが、皆さんも大木魚に注意してお称えいただくことが大切です。小沢征爾さんが病と戦いながら、若い人を育てたいという一心で指導されているカルメンの練習風景がテレビ放映されました。小沢さんが強調していたことは「ただひたすら、聴け」ということでした。他の人の音をよく聞いて、それに合わせることでハーモニーが生まれるということです。お念仏も一緒ですね。大木魚に合わせて如来様と一緒になる世界をお念仏の中に味あわせていただくことです。午後の残りの時間、阿弥陀様にお会いしたいという気持ちでお念仏に集中してください。

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